人物
本名:小沢暁(1936年2月3日~)
父は燃料研究所で燃料・潤滑油の研究をしていたエンジニアで、自宅には零式艦上戦闘機を設計した堀越二郎もよく遊びにきていた。
立教大学を卒業後、主にシステムメンテナンスを担当するエンジニアとして新日鐵、東京ガス、日野自動車、日産自動車、横浜造船、千葉銀行などを渡り歩いた。
漫画に興味はなく読んだ事もなかったが、川口工業高校に在学中、出版社に勤めていた高校の先輩に「製図ができるならベタも塗れるだろう」と手塚治虫のアシスタントに借りだされたことで業界と関わりを持ち、わちさんぺいに漫画の描き方を教わり、1958年に「月刊少女別冊」(光文社)の「ルミ死なないで」でデビュー。
1963年、「週刊少年サンデー」(小学館)で「サブマリン707」シリーズを連載し、一世を風靡。編集長から「伊号潜水艦が毎週ガトー級を撃沈する漫画を描け」と言われたが、小沢は戦記物が嫌いだったので海上自衛隊の潜水艦を主人公とする海洋冒険漫画となった。
1967年、「週刊少年サンデー」で「青の6号」を連載し、横山光輝と「ジャイアントロボ」を第12話まで共作。
1970年、長女の誕生を機に漫画作品数が激減。それ以前から十二指腸潰瘍で、医者から転業、転地療養を申し渡されていた。北沢力名義で「デラックス少年サンデー」(小学館)の「消えた爆音」(あだち充)の原作を担当。
1975年、今井科学から小沢のデザインによるオリジナルキャラクタープラモデル「ロボダッチ」シリーズが発売される。
1978年、小沢の企画会社・サンテグがブルバック式ゼンマイ玩具をタカラに提案。1980年に「豆ダッシュ」としてテスト販売された後、「チョロQ」の商品名で正式販売。著作権はタカラが買い取った。
1983年、交通事故で半身麻痺となり、会社勤めが不可能となる。漫画の執筆も断念。病院をたらい回しにされ、新興宗教にもすがった。
1992年、「サブマリン707F(FUSION)」で漫画家として復帰。
2021年、階段で足を踏み外して落ち、全身打撲。外出が不自由となる。
2024年、脳梗塞のため入院。
ペンネーム
デビュー作はおざわあきら名義だった。
少年向けでは小沢さとる、青年向けでは小澤さとるを使用している。漫画原作者としては北沢力。
余談
- 唯一の専属アシスタントだった増田シンゴは護衛艦「わかば」の艦橋士官だったが、小沢と意気投合して飲み明かし、目を覚ますと「わかば」は出港した後で、そのまま小沢のアシスタントになった。脱走したままなのもまずいため、2、3年後に自衛隊に出頭したが、何故か本人不在のまま一階級昇進していた。
- 1966年、戦艦大和が銀河を航行する「ギンガ、ギンガ、ギンガ」を執筆したが、原稿に目を通した西崎義展が女性クルーも乗せろと言ってきたため軍艦にそれはあり得ないと決裂。出版には至らなかった。後に西崎が似た内容の「宇宙戦艦ヤマト」を制作したため憤慨し、メカニック・デザイナーの宮武一貴に会った際にその事を話すが宮武は全く知らなかった。
関連タグ
サブマリン707 青の6号 ロボダッチ 今井科学 チョロQ タカラトミー