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第10回有馬記念

2

しんざんがきえた

1965年12月26日に行われた有馬記念。シンザンが優勝し、五冠を達成すると共に引退の花道を飾った。

※馬齢は2000年までの旧表記で記載する。

本番までの動き

シンザンの経歴

1964年に戦後初のクラシック三冠馬となったシンザンは、1965年の春こそ蹄の炎症もあって天皇賞(春)などは回避したが、宝塚記念や天皇賞(秋)を制し史上初の四冠馬となった(当時は宝塚記念は八大競走よりも格が低いとされていた。今の基準であれば、既に五冠を制した事になる)。

当時はジャパンカップなど影も形もなく、短距離路線は軽視されていた。天皇賞は勝ち抜け制が故にもう出走できない。つまり、国内で残すレースは有馬記念以外に無かったのである。

海外遠征を望む声はあったものの、調教師の武田文吾は前年にアメリカに遠征したリユウフオーレルの惨敗を目の当たりにし、同年の有馬記念でシンザンを引退させることにした。

既に四冠馬であり、名実ともに最強馬であるシンザン。もちろん、ファン投票も1位であった。この時の獲得票数26,853票はそれまでの記録を40%以上更新するもので、その後ハイセイコーテンポイントといった昭和を代表する後輩の名馬たちでも破ることはできず、投票方式が変更された1978年まで破られなかった。

しかしここで、ある一つの問題が浮上してきたのである。

それは、中山での出走経験が無い(※)というものだった。

三冠を達成しているシンザンは、本来なら前年の皐月賞で中山に出走しているはずだった。しかし、1964年は中山競馬場改修の影響で、前哨戦のスプリングステークスともども東京競馬場で開催された。もしシンザンに何か不安があるとすれば、それくらいだった。そこで武田調教師は、有馬記念の一週間前に中山で開催されるオープン競走に、シンザンを出走させることにした。

これは単に中山を経験させるという事以外にも、元々シンザンは調教駆けしない馬だった事もあり、武田調教師は調教を早めに切り上げて前走・前々走のOPに出走→大レースに備える、というローテーションを組むことを基本線としていた事もある。

(※ただし、有馬記念を制した時に初めて中山を走った、という馬はグレード制導入以降だけでもクロノジェネシスジェンティルドンナシルクジャスティスなど10頭いるので、今では珍しい話ではないかもしれない。また、シンザンは関西馬であり、かつ当時はそこまで輸送を行わなかった、という事情も関わってくるだろう。)

まさかの

しかし、これに反対したのが、シンザンの主戦騎手だった栗田勝騎手である。

実は日本ダービーの前にも、ローテーションで栗田騎手と武田調教師は一度対立していた。

この時の対立では最終的に栗田騎手が「使う必要はない」と判断し直線だけのレースを行ったことで決着した。が、武田調教師も上記の通りこの頃からシンザンはOPを使って仕上げた方が良いことを見抜いていたため、激しい対立には至らなかった。

武田調教師は栗田騎手を基本全面的に信頼しており、レース展開に指示を出すことも殆ど無かった。「大レースで勝つ事」を重要視する武田調教師からすれば、この時の栗田騎手の騎乗についてもさして不満は出なかったのだと思われる。(出走したOP自体はダービーの前々週だったので連闘にはならないことも大きい。)

だが、今回は話が違う。

栗田騎手としては、強豪犇めく有馬記念2600mを連闘で挑むなんていくらシンザンでも無茶だと考え、どうしても避けたかったのである。

「大事なレースの一週間前に無理に使って、故障でもしたら取り返しが付かなくなる。初コースなど関係ない。シンザンなら勝てる。俺が勝たせる。」

ダービーの時以上に強硬に反対した栗田騎手だったが、武田調教師は今回も譲らず、結局オープン戦に出走することになった。

(後に関係者から「栗田騎手は武田調教師よりも先にシンザンの素質を見抜いていたので、ある種のプライドのようなものを抱いておりそれが諍いに発展する要因になっていたのだろう。」と語られている。)

当時は見習い騎手だと斤量が3㎏軽くなるため、鞍上は武田調教師の息子の武田博騎手となった。ところが、ここでシンザンはまさかの敗北を喫する事になる。

シンザンに勝ったのは、クリデイという無名の馬だった。自分の乗らないシンザンが無名の馬に負けたことがよっぽど悔しかったのか、阪神でそのニュースを聞いた栗田騎手は、調整ルームを飛び出して飲み屋で自棄酒をしてしまった。しかも急性アルコール中毒で病院に搬送され、翌日のレースをすっぽかす、という前代未聞の不祥事をやらかしてしまう。

これでは武田調教師も栗田騎手にシンザンを任せるわけにいかなくなってしまった。

「飲んだくれた挙句、自分で乗れなくなるような真似した奴に、シンザンの大一番に乗せる必要はない。」

意見の食い違いなどよりも、プロフェッショナルとして仕事を自ら放棄して不祥事を起こし、何よりもシンザンに迷惑をかけてしまったことに武田調教師は激怒した。

とにかく目の前に迫った有馬記念をどうするか。大急ぎで陣営は代わりとなる騎手を探すべく他の騎手に騎乗を依頼した。関東の騎手だけでなく、当時のリーディングジョッキーだった加賀武見騎手にも声がかかったが、既にシンザンに二度敗北し三度目の正直を狙う加賀からは「シンザンは乗るより倒したい」という理由から断られてしまった。結局、鞍上は自厩舎の栗田騎手の弟弟子の松本善登騎手が任されることになった。松本騎手は当時関西では新進気鋭の若手騎手として知られていたが、関東ではまだ無名の騎手であり、何よりシンザンには初(テン)乗りだった。

『ただ天命を待つ シンザンに最後の試練』

(※競馬新聞「ダービーニュース」の当時の見出し)

大一番に主戦騎手が乗れず、初乗りの若手が有馬記念に...。

当時の新聞は「シンザン危うし」「五冠に暗雲」と書き立てた。

出走馬

※太字は八大競走

枠番馬番馬名性齢騎手人気主な勝鞍
11ヒカルポーラ牡7高橋成忠4'64天皇賞(春)'64宝塚記念、'63阪神大賞典、'65京都記念(秋)
22クリデイ牡4森安重勝7重賞勝ち鞍は無いが、前走のオープン戦でシンザンに勝利
33ブルタカチホ牡5大崎昭一6'64カブトヤマ記念、'65目黒記念(春)
44シンザン牡5松本善登1'64皐月賞'64日本ダービー'64菊花賞、'65宝塚記念、'65天皇賞(秋)、'64スプリングS、'65目黒記念(秋)
55ハクズイコウ牡5保田隆芳2(翌年の春天優勝馬)
66ミハルカス牡6加賀武見3'65ダイヤモンドステークス、'65オールカマー)
77ウメノチカラ牡5森安弘明8'63朝日杯3歳ステークス、'64NHK杯、'64セントライト記念、'64/'65毎日王冠、'65新潟記念
88ヤマトキヨウダイ牡6野平祐二5'64有馬記念

シンザンが出走する事から回避する馬が相次ぎ、僅か8頭立て(最も少なかったのは1971年の6頭立て)となった。しかし出走する面子は、前年の有馬記念覇者で連覇を目指すヤマトキヨウダイ。前年史上初めて同一年に春天と宝塚記念を制し、この年の勝ちは少ないが前走京都記念を制しているヒカルポーラ。前走秋天では、鞍上加賀武見で大逃げを打ち3着に粘ったミハルカス。2年前に朝日杯3歳Sを制し、前年はシンザンとクラシックで争ったウメノチカラなど、見応えのあるメンバーだった。

レース展開

開催日 1965年12月26日(日)

中山 外回り・芝2,600m(翌年からは2,500m) 馬場状態:稍重 天候:曇

まずはヒカルポーラが飛び出すが、第3コーナーで秋天と同様にミハルカスが先頭に立つ。第4コーナーを抜けた時点で、シンザンはクリデイと馬体を合わせながら5番手で追走。一周目スタンド前でシンザンは4番手まで上げる。ミハルカスが馬場の真ん中を通って第1コーナーへ。ここから徐々にミハルカスがスピードを上げ、2番手から差をつける。シンザンは5番手に下がっていたが、第2コーナーを抜ける頃には3番手につける。

向正面で差をつけたミハルカスがスピードを落とし、後続を引き付けたことで、2番手以下との差が小さくなる。そのまま第3コーナーへ入ると、ミハルカスの後ろは団子状態になった。各馬はまだ馬場の真ん中どころを走っている。そして、第4コーナーを抜けると、

先頭のミハルカスが斜行寸前なほど一気に大外に振ったのである。

ミハルカス鞍上の加賀騎手は過去2度の対決から如何にしてシンザンに勝つかを思案していた。初戦の目黒記念では正攻法のレースを仕掛けるも完敗。二戦目の天皇賞(秋)では奇策として大逃げを打つも、馬として類稀なる賢さを持つシンザンのペースは乱せずこちらも惨敗。生半可な作戦ではシンザンには勝てない...。そう考えていた加賀は雨上がりの中山レース場の内馬場に目を付けた。

この当時、中山にダートコースは無く、有馬記念を行う頃には雨もあってすっかり内馬場は稍重どころか、不良と言っていいほどに荒れていた。そして、シンザンはそこまで荒れた馬場が得意ではない。

  1. ミハルカスを大外に振ることで後続が外へ行くルートを塞ぎ、シンザンに苦手な荒れた内馬場を走らせる。
  2. 仮に内馬場に突っ込まなかったとしても、大外のルートはミハルカスが塞いでいるため後続はミハルカスの後ろに回るしかない。
  3. もしもミハルカスよりも大外のルートが残っていたとしても、外を通る以上距離が延びる事は言うまでもない。
  4. その隙にミハルカスをゴールさせる。

「相手がどれほど強い馬であろうと、着順勝ちではなくレースで勝利する」

闘将と呼ばれた加賀武見騎手、渾身の奇策であった。

4番手以下は加賀騎手の思惑通り、荒れた内馬場の方へ進路を取らざるを得なかった。そして後に「ミスター競馬」と呼ばれる事になる名騎手・野平祐二の乗るヤマトキヨウダイはミハルカスの外へ。加賀騎手はこの段階で作戦の成功を確信していた。大外のルートはヤマトキヨウダイが入った。つまりシンザンは内馬場に入ったか、後ろに退いたか、そのどちらかしかありえない。いずれにせよ前にシンザンが出ることは無いだろうと。

が、次の瞬間、加賀騎手のみならず、最も外のルートを選んだはずの野平騎手も何かの威圧感を自身の左側に感じる。

何かが左から来る!だが左はもう外埒しかないはず...!?

松本善登騎手「シンザンが、『外を回れ』と言った。」

そう、外埒との間にはまだ隙間があったのだ。もはや馬一頭がギリギリ通れるか否か、そんな極小の、しかし間違いなく通れる隙間が。

なんとシンザンはヤマトキヨウダイのさらに外側、最も大外の小さな隙間に進路を取ったのだ。

映像を見ていただければ分かるが、大外も大外を通ったシンザンは、観客席や中継カメラからその姿が見えなくなってしまう。外埒を飛び越えて客席に突っ込んでもおかしくない程の大外だったため、外埒に集まった観客たちに隠れてしまったのである。

『シンザンが消えた!』。

さすがにアナウンサーも一瞬言葉が詰まる。だが、大外からミハルカスを、ヤマトキヨウダイともども差し切る馬がいた。テレビ画面に映し出される、一番大外を通る馬。

シンザンである。

「シンザンが『出た』!シンザンが『出ました』!」

幾重にも張り巡らされた奇策を打ち破り、外埒ギリギリのスペースを接触を起こすことなく正確に突き抜けたシンザンは、武田調教師に「ヒゲも剃れる鉈の切れ味」と評された分厚くも鋭く切れる末脚を飛ばし、2頭を並ぶ間もなく躱すと、1 3/4馬身差つけてゴール板を駆け抜けた。

「シンザン、五冠馬達成!!」

史上初の快挙達成に、中山競馬場は揺れた。

結果

着順

※枠番は馬番と同じなので省略

着順馬番馬名人気着差
14シンザン12分47秒2
26ミハルカス31 3/4馬身
33ブルタカチホ61/2馬身
45ハクズイコウ21 3/4馬身
58ヤマトキヨウダイ51/2馬身

払い戻し

単勝4110円
複勝4110円
複勝6200円
複勝3240円
枠連4-6910円

その他

・この有馬記念の勝利によって、シンザンは八大競走のうち、牝馬限定戦である桜花賞優駿牝馬と勝ち抜け制で出走出来ない春天を除く全レースを制し、日本競馬史上初の五冠馬となった。次に五冠を制したのはシンボリルドルフである(1985年春天優勝で達成)。

・俳人でもあった武田調教師は、シンザンの五冠達成に「勝ち戻る 手綱(つな)に五冠の 年惜しむ」と句を詠んだ。

・この時シンザンが通ったコースは〝シンザンストレート〟とも言われるが、これ以降このコースを通ってGIレースを勝利した馬はいない。ただし、第4回有馬記念でガーネツトが同様のコースをとって優勝している。

・コースを選んだのは松本騎手ともシンザンとも言われているが、松本騎手は上記のコメント以外にも「3コーナーから4コーナーの中間で、前に居る馬は皆バテていたので、相手は加賀の馬だけだと思いながら、内には入らないつもりで乗った。4コーナーの入口で外に振られたが、内へ持ち直す必要は無い、並べばこっちが強いと信じていたから」とコメントしており、松本騎手のコースを変えない意思と、シンザンの空いたスペースを通ろうとする意思とが噛み合った故のコース取りではないかとも考えられている。松本騎手はレース直後のインタビューで、「ありゃあ誰が乗っても勝てる」とシンザンの強さに脱帽していたとのこと。

・シンザンの連闘に関しては今から見れば確かに無茶なローテーションかと思われるが、この時シンザンに掛かりっ切りで付き添っていた騎手の博氏によると、調教時から馬体が重く、調教で気合を付けながら強めに追っても伸びなかったという。結果としてみればこのOP出走によりシンザンは調子が良化し有馬記念に勝つことが出来たという事になるので、武田調教師の判断は正しかったと言えるだろう。

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