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足利尊氏の編集履歴2021/02/01 19:05:43 版
編集者:BigHopeClasic
編集内容:足利直冬との関係について補足

足利尊氏

あしかがたかうじ

足利尊氏とは、鎌倉時代末期〜南北朝時代に活躍した日本の武将、政治家。室町幕府初代将軍。

略歴

生い立ち

嘉元3年(1305年)7月に生まれる。父は足利貞氏、母は上杉清子

次男だったが、兄の足利高義が早世したため当主となる。北条氏得宗・14代執権北条高時から諱の一字を貰い、赤橋流北条氏の北条登子赤橋登子)と結婚する。

ちなみに、足利家の名字の由来となった足利荘は、本家(最上位の領主)が皇室関係の寺院(実質的には皇室領)で、当時は大覚寺統が相続していた。つまり、後醍醐天皇は当初から尊氏の主君(の一人)だったという事になる。

『難太平記』によれば、足利家の先祖・源義家は「七代後の子孫に生まれ変わって天下を取る」という置文を残したという。しかし、数えて七代目の足利家当主・足利家時安達泰盛の滅亡(霜月騒動)や北条時国(佐介流)の失脚に伴い自身も自害に追い込まれてしまうが、死の間際に「八幡大菩薩に三代後の子孫に天下を取らしめよ」と願った置文を残したとされる。足利一族で『難太平記』の著者・今川貞世(今川了俊)もこの置文をみたとのこと。この三代後の子孫にあたるのが足利尊氏である。

討幕への道

元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が鎌倉幕府を打倒するために挙兵、これに呼応して護良親王(大塔宮)や楠木正成なども蜂起、高氏は父・貞氏の喪中に鎮圧へ加わる事を幕府(を実質的に支配する北条家の家臣(御内人)たち)から強要されたという(『太平記』)。このとき高氏は軍勢を率いて上洛し反乱を鎮圧、後醍醐帝は捕らえられ隠岐に配流されることとなった。

しかし、元弘3年(1333年)、後醍醐天皇が隠岐から脱出することに成功、伯耆の豪族・名和長年の本拠・船上山に入り各地の武将に討幕を号令すると、正成、護良親王らも再び蜂起、高氏は幕府の軍勢を率いて弟・足利高国(足利直義)らと鎮圧のため上洛するが、もう一人の指揮官の北条高家があっさり討ち死にした事と、それまでの幕府との関係悪化もあり、守護職を務め一族の第二の根拠地でもある三河で(一族にも押されて)後醍醐天皇の勧誘に従い幕府に反旗を翻す事を決意し、所領がある丹波で反幕府の兵を挙げる。そのまま佐々木道誉赤松円心らとともに六波羅探題を滅ぼして、後醍醐天皇を京都に迎えた。この際、鎌倉にいた正室・登子と嫡男・足利千寿王(足利義詮)は脱出に成功し、千寿王は旗頭として鎌倉を攻める軍勢に参加している。しかし、脱出に失敗した庶長子の足利竹若丸は殺され、妻の長兄である北条守時新田義貞と戦い洲崎で、四兄で九州探題北条英時少弐貞経らに攻められ博多で自刃している。

鎌倉幕府を討った理由について

当時の尊氏は16代執権・北条守時の妹婿であり北条氏の信頼も厚く、それゆえ上洛軍の大将に任ぜられていた幕府要人である。そんな尊氏が後醍醐帝方に寝返り幕府に叛いた理由については諸説ある。『難太平記』によれば『太平記』の古本には「(尊氏が上洛して山陰に進軍する最中に)上洛軍のもう一人の大将であった北条高家が討死したので、尊氏は後醍醐帝に降伏した」とあり、難太平記作者の了俊は「宮方深重の者にて、無案内にて、押してかくのごとく書きたるにや(南朝びいき、もしくは南朝の事情しか知らない太平記作者が、よく知らずにこんなことを書いたのだろう)」と批判している。新田義貞が後醍醐帝に提出した尊氏誅伐の奏上も古太平記と同様な解釈である。

北朝関係者が執筆したとされる『梅松論』では、代々北条氏誅伐を考えていた尊氏が、北条氏から父・貞氏の葬儀も終えぬ間に上洛しての戦を命じられたことで深く憎み、ついには上洛途上に討幕綸旨を受け取って挙兵に踏み切ったという。現行の『太平記』では、元より源氏の家臣に過ぎない北条氏の専横に尊氏が憤っていたのに重ねて北条氏が父・貞氏の喪を弔うことも許さず病床にあった尊氏に上洛軍を率いることを命じたため、鎌倉出立前から寝返りを決めていたとしている。そして篠村八幡宮に奉納した挙兵の願文として、北条氏の非道不忠を批判し、尊氏が身命を投げ打って挙兵して、八幡神の公正な加護を求めるといった文章が引用され、諸将の士気が大いに高まった旨が記されている(しかし、尊氏の父・貞氏が亡くなったのは1331年10月であり、それから2年たってから寝返っていることに現在では疑義を呈する歴史学者も少なくない)。

太平記古本や義貞の主張通りなら4月27日の高家の討死という鎌倉方の敗勢を見て衝動的・打算的に寝返ったということになる。しかし、『太平記』・『梅松論』とも上洛中の三河国にて尊氏は後醍醐帝の討幕綸旨を受け取ったとしている。また、高家討死より五日も前の4月22日付で新田方の岩松氏に北条高時討伐への軍勢催促状を送っていることからして、5月8日の関東での義貞挙兵もこの催促状を受け取ってからと考えられる。すなわち、高家討死の前から尊氏と義貞は連絡を取って挙兵していたとは言えるだろう(峰岸純夫『足利尊氏と直義』)。

建武政権

幕府滅亡後、後醍醐天皇からは、官位・官職や所領を与えられただけでなく、高時から一字拝領を受けていたうえに佐々木道誉(佐々木高氏。宇多源氏の出。本姓で名乗ると同じく「源高氏」となる。)とも紛らわしい諱の「高氏」を、天皇の御名「尊治」から一字拝領され「尊氏」になる。しかし自身は要職には就かず、高師直などの家臣を送り込むだけであった(後醍醐天皇と尊氏のどちらから(orどちらからも)距離を置こうとしていたのかは不明)。しかし、成良親王が鎌倉に駐屯する際には弟の足利直義を同行させているし、護良親王が尊氏を敵視した際に後醍醐天皇は尊氏の肩を持ち、護良親王を直義の管理下で幽閉させているので、関係が悪かったわけではない(護良親王は中先代の乱のおり北条時行が攻め込んでくる混乱のさなか直義に殺されている)。

室町幕府の成立

しかし、高時の次男・北条時行が蜂起して鎌倉を占拠(中先代の乱)して、直義とその配下を救援するために尊氏が出陣する際征夷大将軍の地位を望んだにもかかわらず征東将軍の地位を与えられた時点から、尊氏と後醍醐天皇の関係は悪化していく。鎌倉を奪回してからも尊氏は朝廷の命に逆らって京の都に帰ろうとせず、(主に直義の意向で)恩賞を与えだしたために、後醍醐天皇は尊氏を討伐させようとして、新田義貞らの大軍が東海道を攻め下ってくる。尊氏は直義や師直ら一族・家臣を救うために反旗を翻す事を余儀なくされ、箱根・竹ノ下の戦いでこれを破った。一度は京都を占領するが東北から攻め上って来た朝廷方の北畠顕家によって再度追い出されて西国に敗走。一時は九州まで落ち延びるが、赤松円心が義貞を食い止めている間に勢力を立て直し多々良浜の戦いで朝廷方の菊池武敏率いる大軍を激戦の末破り再び上洛、持明院統の光厳上皇の支持を得る事にも成功して院宣を得、逆襲して湊川の戦いで楠木正成・正時兄弟は戦死し義貞は敗退、京都を制圧して光厳上皇の弟・豊仁親王を光明天皇として擁立する。しかし後醍醐天皇は京から吉野に脱出し南朝を樹立してしまう。これに対して京都にある光厳上皇と光明天皇の朝廷は北朝と呼ばれることになる。

観応の擾乱と晩年

こうして新たな武家政権である幕府を京に樹立した尊氏は、光明天皇から征夷大将軍に任命され、十年ほどは弱体化した南朝(吉野に籠った後醍醐天皇側の勢力)を追撃するだけの平穏な日々が続く。しかし、法秩序を重んじる実務家の直義とバサラな武人でもある執事の師直に政務を任せている間に双方の派閥が対立を起こしてしまう。やむなく尊氏は直義を失脚させて鎌倉から義詮を呼び寄せるが、南朝に鞍替えしてまで抵抗を続ける直義らの勢力は衰えず、観応2年2月(1351年)には逆に師直が殺されてしまう(観応の擾乱)。尊氏は直義と南朝との不協和音に付け込んで南朝と和睦、というか自らが立ちあげた北朝を廃してまでの全面降伏をしてとりあえずの和平にこぎつけ、鎌倉に逃れて抵抗する直義を同12月の薩埵峠の戦いで破って降した。直義は尊氏と和睦し、ともに鎌倉に入ったが翌年2月に急死する。当時から尊氏に毒殺されたとの噂が流れていたらしい。しかし、峰岸純夫『足利尊氏と直義』のように、あれほどに弟思いな尊氏による毒殺を否定する歴史学者もいる。

だが、南朝に和睦を継続するつもりはなかった。尊氏の居ぬ間に軍を起こした南朝によって攻撃を受けた義詮は京都から追い出されたうえ、三種の神器を奪取された上に、光厳上皇・光明上皇・崇光天皇と持明院統の皇族がほぼ全員南朝に連行されるという大失態を犯してしまう。義詮は八幡の戦いで南朝方を破って京都を奪還し、南朝の後村上天皇は吉野に逃れる。だが、京都には天皇を即位させる正統性の根拠となる治天の君も三種の神器もなく、北朝の正統性は危機に瀕した。義詮、佐々木道誉らは、光厳上皇の生母である広義門院を(渋るのを説き伏せて)治天の君とした。また、仏の道を歩むことになっていた光厳上皇の第二皇子・弥彦親王を後光厳天皇として擁立し、辛うじて北朝崩壊(=室町幕府の正統性の消滅)という最悪の結果は免れた。崇光天皇の孫でありこの武家の争いによって皇位を逃した貞成親王は「この後光厳天皇は(三種の神器がなく、また同じく三種の神器を持たない後鳥羽天皇が即位した時の根拠であった)父帝からの指名もなく、武将が取り計らって即位した(『椿葉記』)」とその正統性の欠如を批判している。

直義軍を破って京都に凱旋した尊氏が義詮の不甲斐なさに呆れたか、弟と争ってこのような事態を招いた己の不甲斐なさに呆れたかは定かではないが、その後は政務を義詮にほぼ委ねる。しかし、楠木正儀(正成の三男)・山名時氏・尊氏の子でありながら、直義の養子でもあった足利直冬ら南朝方の武将に度々京都を脅かされる。直冬は京におびき寄せることで近江と播磨から挟み撃ちすることで打ち破ることに成功したが、九州には征西大将軍・壊良親王と菊池氏の勢力がいまだ健在であった。正平13年・延文3年(1358年)、混迷した状況の中、尊氏は九州征伐に向かうことを決意したが、戦いで受けた矢傷が悪化して腫れ物となり、出陣することなくこの世を去った(この記述が正しいのであれば、死因は破傷風ではないかと思われる)。

人物

カリスマ性はあったが、総じて受け身な生き方が目立つ人物である。その行動原理は一貫性に欠け、良く言えば豪放磊落で柔軟、悪く言えば考え無しで優柔不断な性格であった。北条時行追討の時は、後醍醐天皇からの尊氏討伐令が出ると、各地で足利勢が新田義貞らに破られてもはや足利氏は滅亡も間近というのに、後醍醐天皇への謀反を避けるがためだけに鎌倉で出家してしまう。まあ、お人好しもここに極まれりである。

北畠顕家らに追われて敗走した九州で菊池武敏の大軍に襲われたという、まさに絶体絶命な筑前多々良浜の戦いではどうであったか。

『梅松論』では尊氏曰く「はるか九州まで逃れたのは不本意であるが、進むも退くもいくさ人なら当たり前のこと。大敵との最後の決戦とは僥倖なり。命を惜しんで足利代々の名を汚すな。九州に武門の誉れを貶めるな。」

一方『太平記』では「この手勢で大敵に挑むのはカマキリが車に挑むようなもの。卑しい敵に討たれるよりも、ここに腹を切ろう(この後、直義が諌めて奇跡の勝利へと続く)。」

資料によってずいぶんと発言内容が違うが、どちらが真相であったかは神のみぞ知る。案外、どちらも尊氏の発言だったのかもしれない。

さて最後に、湊川の合戦で最大の敵楠木正成を討ち取って新田義貞を敗走させ、幕府を開く直前というまさに得意の絶頂たる尊氏が、清水寺に奉納した願文を見てみよう。

「この世は夢みたいなものです。私は出家遁世したく思います。この世で私が受けるべき幸運を返上するので、あの世にて私をお救い下さい。この世にて私が受けるべき幸運は、直義にお与えください。直義をどうか安穏にお守りください。(『建武三年八月十七日足利尊氏書状』)」

このとおり、ちっとも喜んでいないのである。実際、政務のほとんどを弟に押し付け、自分は半隠居状態になってしまう。良く言えば、権力欲・出世欲がないとも言えるであろうか。

このあたり後述にもあるが、尊氏は後醍醐天皇との対立がずっと心残りだったようで、光明天皇の即位後も後醍醐天皇を京都に留め置き、さらに次期天皇に後醍醐天皇の子を確約するという出血大サービスを見せている(本来であれば島流し確定)。しかし後醍醐天皇が逃亡したのですべて台無しになった(ろくな監視もつけてなかったらしい)。それを知った尊氏の言葉が、またふるっている。

「しょうがないなあ。運命というやつは人間にはどうにもできないと言うからなあ」

とんでもなくおおらかと言うべきか。とんでもなく適当と言うべきか。

何というか、いろいろと甘いのである。総じてヘタレな部分が目立ち、戦況の悪化であれ状況の改善であれ、事あるごとに切腹出家を言い出す困ったちゃん。峰岸純夫『足利尊氏と直義』のように、この尊氏の落差の激しい性格を躁鬱病で解釈する学者もいるようだ。

しかし軍人としても政治家としてもいざとなると有能であった。政治家としては、京都周辺の有力者である楠木正成や有力貴族の北畠親房等を擁する護良親王に対して、一兵も動かさずに失脚に追い込んでいる。さらに、軍事的には尊氏を圧倒していた直義と師直の双方にいい顔をした挙句にどちらも滅ぼしてしまう辺りは、もはや有能を斜め上に突破してしまっている。突破し過ぎて、危うく幕府が崩壊するところだったが。戦場でも斜め上突破ぶりは折り紙付きである。

箱根・竹ノ下の戦いにおいては、先述のように鎌倉で出家しているうちに、官軍として東海道を進んできた新田義貞の大軍がついに箱根まで制圧してしまった。これを見かねて僅か手勢三千騎で出撃し、巧みな奇襲で新田軍を撃破して瞬く間に京都まで攻め上った。全く斜め上の強さである。また九州多々良浜の戦いでは、敗残兵二千騎を率いて二万騎ともいう菊池武敏らの南朝方を潰走させている。その他にも六波羅探題攻略、中先代の乱、湊川の合戦と天下分け目の戦いに勝ち続け、自らの武力で幕府を成立させている。『太平記』に残された言動も、戦場では実に果敢である。六波羅攻めでは、軍勢の前に現れた(鳩は石清水八幡宮の使いとされる)を見て、「これは八幡大菩薩が舞い降りて加護なさる証に違いない。あの鳩が飛び去るのに任せて攻め上るべし。」と軍勢に下知して六波羅軍を打ち破った。湊川の合戦の後、追い込まれた新田義貞が尊氏に一騎打ちを申し込んできたことがある。これには尊氏本人も「鎌倉を出て以来、この戦は後醍醐帝に叛くためではなく義貞を討つためのものであった。実に喜ばしき挑戦ぞ。はよう木戸を開け、討ち取ってくれる!」と完全にヤル気マンマンで戦うつもりであった(注:この時は家臣の上杉重能が全力で止めました)。

別に完全無欠というわけでもなく、南朝方との決戦(豊島河原の戦い)に敗れたり、直義の反乱軍に名将・高師直を擁して敗れたり(打出浜の戦い)、肝心なところで結構負けるのだが、なぜか最終的に生き残るのは尊氏なのである。

物惜しみせず、味方には気前よく恩賞をばらまいたため、多くの武士から絶大な支持を得る事に成功。貴族からの蔑視のせいで多くの武士からは嫌われていた南朝をたやすく圧倒したが、子孫は室町幕府の直轄領(御料所)の少なさに悩まされる結果になる。尊氏が恩賞をばらまいたのには時代的な背景もある。一所懸命という言葉がある通り、当時の武士は土地からの収入が基本であり、それだけ直接的な収入源といえる土地に対する執着心が強い。武田信玄のように金塊(甲州金)を恩賞として与えた武将もいないではなかったが、ほとんどの武将は多くの武士の支持を得るため多くの土地をばらまかねばならなかった。事実、元寇の折り、恩賞を与えることのできなかった鎌倉幕府への御家人の支持は著しく減退して幕府滅亡の原因の一つとなり、後醍醐天皇の建武の新政が失敗した原因の一つも鎌倉幕府打倒に貢献した武士たちにまともな恩賞を与えなかったにもかかわらず、貴族や寺院に対しては荘園を復活させるなど優遇したからであった。

文化面では連歌に優れ、准勅撰連歌集『菟玖波集』への採用数では武家で道誉に次ぐ。また田楽芝居を大変好み、庶民たちに交じって田楽見物に勤しんだ。あまりに頻繁なので直義が苦言を呈したところ、あっさりと「政治のことはそなたと師直に任せよう」との返事。直義が重ねて「田楽は日を決めてご覧ください。大事な案件は兄上の決裁が必要なのです」と諌めるとこれに従ったという。直義と死別して以降の晩年は、地蔵菩薩を描くことに没頭した。その素朴な画には、後醍醐帝、そして直義と心ならずも争った彼の心境が現れているのかもしれない。

もっとも、庶子である足利直冬に対しては認知すらせず、子のなかった弟の直義が養子として引き取った後も面会すらろくにせず、結果として自らの没後まで反逆・抵抗を続ける大勢力の頭目にしてしまっている。後始末を押し付けられた義詮もいい迷惑だっただろう。なぜに尊氏がここまで我が子を疎んだかについては無論伝わってはいないが、想像をたくましくさせるところである。

評価

他者からの評価は、足利家自体が持つ家臣団込みの政治力を別にしても高く、後醍醐天皇は天皇としては極めて異例の事に、尊氏に諱の一字を与えるほどであった。尊氏と後醍醐天皇は最終的には敵対してしまったが、尊氏の側からは心残りが強かったようで、後醍醐天皇の没後に菩提を弔うために当時から名声のあった高僧・夢窓疎石を招いて天龍寺を建立するほどであった。楠木正成も、尊氏と新田義貞が対立した際に、「義貞を切り捨てて尊氏と和睦するべき」と発言したという話が伝わっている。武士を強く蔑視していた北畠親房はもちろん尊氏を嫌っており、「神皇正統記」では後醍醐天皇からの一字拝領を無視して、「尊氏」とあるべき所を「高氏」と書いている。

尊氏の禅宗の師であったという先述の夢窓疎石は、尊氏には3つの美点があったと評している(村井章介『分裂する王権と社会』)。第一に、生死をかけた戦場における、悠然として勝敗生死に執着しない態度。第二に、天性慈悲の心が強くて人を憎むことを知らず、敵をも我が子のように許したこと。第三に、非常に気前がよく、金銀も武具馬も皆に土くれ同様に分け与えたこと。八朔という当時の贈答の行事に際して、尊氏のもとには進物が山のように積まれたが、全て来客に与えたので夕方には何も残らなかったという。また、夢窓礎石は「どんな時でも、工夫を凝らすことを怠らなかった」とも評しており、それが的確な決断を下すことで大きな業績を残した尊氏の長所だとも言える(榎本秋『歴代征夷大将軍総覧』)。

後醍醐天皇と敵対してしまったせいで、南朝正統派には逆賊呼ばわりされてとことん蔑視され、家系はともかく政治的にも軍事的にも格下だった義貞が過大評価されていたため、後世には子孫(足利子爵家など)は色々と辛い目に遭っていたらしい(・・・後世の皇室は北朝の末裔なのだが、尊氏にあっさり見捨てられて南朝へ連行された前科があっては、まあかばう気もしないと思うが)。徳川家康が、高位の華族複数の子孫と莫大な人数の家臣の子孫がいたためもあり、ネガティブキャンペーンに限度があったのとは正反対であった(ちなみに家康は義貞の子孫をさがしだし、厚遇していたらしい)。

尊氏の評判が悪いのには水戸藩二代目藩主・徳川光圀が編纂を命じた『大日本史』の影響も大きい。この歴史書は神武創世記から時代を追っていくものでもあることから、自然な流れとして勤王思想をとることになり、南朝・正統論を代表するものとなった。当然、後醍醐天皇と敵対した尊氏は逆賊として『大日本史』に書かれることになり、それは明治から昭和を通じて踏襲されることになった。

もちろん現在の評価ではそんな理不尽な事はなく、尊氏の長所も短所も込みでよく知られている・・・と言いたい所だが、南北朝時代戦国時代と比べて政情も所領の領有も複雑を極めていたため、小説・ゲーム・同人誌など各方面で扱われる事が少ないため、源平合戦の武将や戦国武将ほどの人気は持てていない。ただし、その人物像は小説家の関心を引いたようで、吉川英治の『私本太平記』で主人公を務める他、杉本苑子の『風の群像』を初めとして足利尊氏を主役とする小説は意外に多いようだ。また、昨今では南北朝時代のおもしろさが見直され、足利尊氏・直義兄弟を主人公とするガイド本が少しずつだが出版されている。

専門家や歴史小説家には、幕府の創始者として源頼朝徳川家康と比較されることが多く、(頼朝や家康と比べて)「組織運営は自らのカリスマに頼っており、甘さが残る」「人柄が良く、戦には強いが政治的センスはない」と評され、政治家としてはむしろ弟・直義が上とまで言い切られるありさまである。ただ、頼朝と家康は政治家として日本史上最高レベルの人物であり、彼らと比較されてしまうのが可哀相な気がしなくもない。

肖像

古くから足利尊氏像として知られるのは、守屋家旧蔵騎馬武者像である。

佐藤進一の『南北朝の動乱』では、箱根竹下の決戦に際して、出家のために髻を切り落とした尊氏が出撃する姿とした。しかし藤本正行の「守屋家所蔵武装騎馬画像の一考察」など、太刀馬具に高氏の家紋(輪違)があるとして、高師直らの肖像とみなす説がある。・・・と言われてはいるものの、実のところ不明であり、現在の教科書では「馬上の武士」という表現で掲載されている。

一方従来は平重盛像とされてきた神護寺三像の一枚こそ足利尊氏像だという説が、米倉迪夫の『源頼朝――沈黙の肖像画』等で唱えられている。論争は衣装の様式や画法を巡って継続しており、決着はついていないようだ。

関連タグ

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NHK大河ドラマ「太平記」 :尊氏を主人公とする大河ドラマ。演じたのは真田広之

ヘルベチカスタンダード相生祐子の歌の中で、お弁当箱の中に詰められる。

コーエーテクモの歴史ゲーム:

蒼き狼と白き牝鹿Ⅳの後半で登場。戦力でこそ正成に劣るが政治と智謀、多彩な特技で彼を上回り、義貞に至っては歯牙にもかけない…のだが、顔グラが例の騎馬武者像の目つきを悪くしたものであり、割とイケメンで描かれる義貞&正成に比べるとビジュアル面でやや不利。信長の野望では孫の義満と一緒に出演し、情けない義昭の尻を叩いてハッパをかけていた。

学研の歴史漫画:

人物日本史シリーズで伊藤章夫氏がイラストを担当。情け深いが、悪徳政治家や盗賊など悪人は絶対に許さない正義感を持つ源氏の御曹司として登場。後醍醐天皇や正成との対立に苦悩しつつも、弟の直義や小説家の小島法師、盗賊の太郎丸(オリジナルキャラ)と共に乱世を戦い、室町幕府を開く。子供向けの作品であるためか、切腹や出家を巡る騒動は省かれている。

足利尊氏の編集履歴2021/02/01 19:05:43 版
編集者:BigHopeClasic
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