時間というものには
それぞれの速さがあるのだろう
一瞬一瞬を走り抜く速さも
生涯を駆け抜ける速さも
閃光の如く輝きを放った逃走劇を
人々は永遠に忘れない
《土曜名馬座「それぞれの時」より》
※本馬をモチーフとした『ウマ娘 プリティーダービー』に登場するウマ娘についてはアストンマーチャン(ウマ娘)参照。
概要
アストンマーチャンは2004年生まれの日本の競走馬。ウオッカ初期のライバルとして覇を競い、桜花賞でダイワスカーレットに敗れた後に短距離路線に転向。同年のスプリンターズステークスで1992年のニシノフラワー以来となる3歳(旧4歳)牝馬での優勝を成し遂げた。
しかし翌2008年4月、原因不明の大腸炎に起因する急性心不全により、現役のまま4歳で病没。道半ばで早すぎる死を迎えた悲運のGⅠ馬としても知られる。
プロフィール
生年月日 | 2004年3月5日 |
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死没 | 2008年4月21日(4歳没) |
英字表記 | Aston Machan |
性別 | 牝 |
毛色 | 鹿毛 |
父 | アドマイヤコジーン |
母 | ラスリングカプス |
母の父 | Woodman(USA) |
5代内のインブリード | Northern Dancer4×4 |
生産 | 社台ファーム(北海道千歳市) |
管理調教師 | 石坂正(栗東) |
主戦騎手 | 武豊、中舘英二 |
競走成績 | 11戦5勝 |
獲得賞金 | 2億4899万7000円 |
主要勝鞍 | GⅠ:スプリンターズS('07)、GⅡ:フィリーズレビュー('07)、GⅢ:小倉2歳S・ファンタジーS('06) |
父は1998年朝日杯3歳ステークス・2002年安田記念などマイル戦線を中心に活躍したアドマイヤコジーン。その初年度産駒の一頭である。
母父ウッドマンは大種牡馬ミスタープロスペクター産駒。日本調教馬ではヒシアケボノの父であり、また母父としてはアストンマーチャンの他にエイシンデピュティ・マーベラスカイザーを輩出している。
全妹にジャジャマーチャンがいる。
馬名はイギリスの高級自動車メーカー・アストンマーティンのもじりであり、馬主である戸佐眞弓氏の学生時代の愛称・『まぁちゃん』と引っ掛けて考案されたかばん語。但し、JRAではあからさまな商品名・商標名を馬名に用いると審査で却下されるおそれがあったため、「サーキット名(アストンマーティン社の由来となった、イギリスのアストン・ヒルサーキット)+人名の愛称」である、と届け出て、審査をパスした。
石坂は社台ファームを訪問した際には当歳馬時代のアストンマーチャンを見たことがあり、「悪くない」との印象を持っていたものの、アドマイヤコジーンの産駒評価が未知数であったこともあり、管理を申し出るほど興味はなかったが、戸佐氏の保有が決まった後、紆余曲折を経て石坂厩舎からのデビューが決まった。
戦歴
2006年(2歳)
2006年7月、武豊を鞍上にデビュー。2戦目の未勝利戦(小倉芝1200m、和田竜二が代理で騎乗)を勝ち上がり、続く9月の小倉2歳ステークスでテン乗りの鮫島良太とのコンビにより重賞初制覇。
このときは3戦連続出走によるストレスからか、人間に噛みつこうとするほど精神的に追い込まれていた。この状態を鑑みて約2ヶ月ほど休養に充てることとなるが、この間で精神面を中心に見違えるような成長を見せるようになった、
さらに復帰戦に選ばれた同年11月のファンタジーステークスでは武豊とのコンビが復活。2着イクスキューズに5馬身差をつけたレースレコードで圧勝し、重賞2連勝。
この勝ちっぷりから、12月の阪神ジュベナイルフィリーズでは単勝1.6倍の圧倒的な1番人気に推される。引き続き武豊を鞍上に好スタートを決めると内目3番手で道中を運び、直線では楽な手応えで抜け出した。
だが、ここで外から猛烈に追い込んできた馬がいた。この時点では新馬戦勝ち上がりのみの2戦1勝馬に過ぎなかったウオッカである。最後はクビ差かわされ2着に終わったが、この2頭はこの世代の牝馬戦線の中心になっていくだろうと多くの競馬ファンに印象付けた。
2007年(3歳)
2007年は桜花賞トライアルの3月フィリーズレビューから始動。単勝1.1倍の大本命から楽勝して重賞3勝目を挙げた。一方、もう1つのトライアルレースであるチューリップ賞はウオッカが制し、桜花賞で再び激突することになった。
しかし、ウオッカに次ぐ2番人気(5.2倍)で迎えた桜花賞本戦では、最終直線で一旦は先頭に立ちかけるも競り負けて失速、7着敗退。勝ったのはチューリップ賞2着から駒を進めていた、3番人気のダイワスカーレットだった。
武豊や担当助手・厩務員は、レースではアストンマーチャンが本調子ではなかったことが敗因であると見ていたものの、石坂は思案した末に別の敗因を見出し、短距離路線への転向を決断する。
石坂はこれまでの重賞3勝はいずれも1200・1400m戦の一方であること、そして、マイルGⅠ2戦ではどちらも最終直線で競り負けたことを踏まえて、アストンマーチャンがスプリンターであると結論付けた。
スプリンターズステークス
2007年夏、日本競馬界はひとつの大問題に直面していた。馬インフルエンザの流行である。
8月半ばに栗東・美浦の両トレーニングセンターとも所属馬の陽性が確認され、感染は拡大。凱旋門賞を目指し出国予定だったメイショウサムソンに陽性反応が出て遠征を中止、オーストラリアのメルボルンカップを目指していたデルタブルースらも出国を断念するなどの影響が生じていた。
このような非常事態の中、9月30日のスプリンターズステークスに参戦を予定していた外国馬勢も来日を中止。出走各馬も、移動の制限が課せられる中細心の注意を払っての調整を強いられ、混戦が予想されていた。
おまけに当日の中山競馬場は雨、馬場は不良。
その中で4枠7番からスタートしたアストンマーチャンは、かつてツインターボとのコンビでターフを沸かせた「逃げの中舘」中舘英二を背にスタートから猛ダッシュをかけ、敢然と逃げを打った。最終直線では一時後方に4馬身ほどをつけ、築いたリードを活かして2着サンアディユに4分の3馬身差で逃げ切り。
1992年ニシノフラワー以来の3歳(旧4歳)牝馬によるスプリンターズS制覇を達成した。中舘英二騎手にとっては1994年ヒシアマゾンでのエリザベス女王杯制覇以来のGⅠ勝利となった。
しかし、次走の10月スワンステークスは14着に敗退。当初は年末に香港遠征も計画されていたが、未だ馬インフルエンザの影響が残る情勢から断念し、2007年を終えた。
2008年(4歳)
2008年は2月のシルクロードステークスから始動も10着。高松宮記念を次走として調整中だったが、3月初頭に体調不良から同レースを回避することが発表された。
志半ばの早逝
その後アストンマーチャンは「X大腸炎」を発症。「X」とは原因不明を意味し、それだけに確たる治療法が判明していない。腹痛や激しい下痢、腸からの出血、さらに心拍数の増加や呼吸困難などの症状が表れ、発症から24時間以内に死亡する場合もある突発性の重病である。
栗東の競走馬診療所に入り、約2ヶ月にわたり病魔と闘ったが、4月21日に現役競走馬のまま衰弱による急性心不全で永眠。
石坂は仕事の合間を縫って診療所を訪問してアストンマーチャンを見舞いに行っていたが、その日も変わらず見舞いに来ていた石坂がその今際を看取ることとなった。
ダイワスカーレットとウオッカの2頭を輩出したこの世代にあって、健在ならばこの2頭とは別の短距離路線で大きな足跡を残したであろう優牝は、4歳1ヶ月という短い生涯を閉じた。
全妹のジャジャマーチャンが繁殖入りしており、アストンマーチャンの名前は血統表に載らないものの、その血は後の世代にも流れている。
余談
- 脚を細かく動かして走るピッチ走法が特徴的でトレードマークだった。
- マーチャンの勝った2007年スプリンターズSで2着だったサンアディユ(セントウルステークスなど重賞3勝)もまた、マーチャンの亡くなる約1ヶ月前、オーシャンステークスに出走した翌日の3月9日に急性心不全で現役のまま亡くなっている。
- アストンマーチャンを死に追いやったX大腸炎は、種牡馬時代のビワハヤヒデも罹患したことがある。幸いにしてハヤヒデは持ちこたえて平癒し、2020年に老衰で亡くなるまで30歳の天寿を全うした。
- なお、石坂は発病した原因について「スプリンターズステークスは勝ててよかったものの、それからの管理がちゃんとしていなくて精神的に追い込んで病気にさせてしまった」と推測している。石坂はアストンマーチャンの死後も自責の念をあらわにするほど最後までその死を悔やんでいた。その後、石坂はジェンティルドンナなどの名牝を管理することととなるが、その背景にはアストンマーチャンの死があったと言っても過言ではない。
関連タグ
中舘英二:唯一のGI勝利となったスプリンターズステークスとスワンステークスで騎乗。
武豊:デビュー戦、ファンタジーステークスから桜花賞まで、シルクロードステークスで騎乗。
マティリアル:予後不良級の故障をレース中発症し手術を受けたが、術後のストレスから来る出血性大腸炎を発症し急死。
ドゥラメンテ:種牡馬時代に急逝大腸炎で亡くなった。