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「朧」は旧日本海軍に存在した駆逐艦名のひとつ。日露戦争で活躍した雷型駆逐艦の初代と、アジア太平洋戦争で活躍した特型駆逐艦(吹雪型駆逐艦)の2代目とが存在した。後者は、以降は「吹雪型」で説明する。


雷型・初代「朧」編集

英国で建造された雷型駆逐艦の5番艦。

日露戦争に参加し、姉妹艦の「雷」「電」「曙」と共に第二駆逐隊を編成していた。旅順口攻撃では、日露の国交断絶とほぼ同時に、他の駆逐艦と共に旅順港のロシア艦隊に攻撃を仕掛けている。夜間であったため、「朧」は、単独で突っ込んでいた「雷」と衝突し、艦首を損傷しながらも魚雷攻撃に成功している。


日本海海戦にも参加し、「雷」など他の駆逐艦とともに「アドミラル・ナヒモフ」に水雷攻撃をしかけている。また、大爆発を起こして沈没した戦艦「ボロジノ」の唯一の生存者を「朧」が救助している。漂流していたこの生存者は、たまたま近くを通りかかった「朧」をロシア軍艦と間違えて、自身の乗艦であった「ボロジノ」の名を叫んだ。「朧」乗組員がこの声に気づき救助したが、「朧」乗組員たちは、漂流者が叫んでいた艦名が微妙に「朧」に似ていたために、「朧に呼びかけている」と勘違いしていたという。


吹雪型・2代目「朧」編集

アジア太平洋戦争まで編集

2代目朧は、佐世保海軍工廠で建造され、1929年11月29日に起工、1930年11月8日に進水ののち1931年10月31日に就役した吹雪型17番艦である。


なお、艦番号は朧が第七駆逐隊の中で一番若いが、実は18番艦の方が、起工、進水、就役とも早かったりする。就役した後は、曙とともに第七駆逐隊を編成した。のちに第七駆逐隊には、20番艦も入ってきて、この三隻で第一次上海事変に参戦している。第四艦隊事件では、朧、曙も被害を受けた。日中戦争にも参加し、上陸作戦の支援を担当している。


このようにアジア太平洋戦争の開戦前まで、朧は曙、(1940年から第七駆逐隊に所属)および潮とともに、第七駆逐隊に所属していた。しかし、開戦直前の1941年9月、漣と朧は、ともに五航戦に転出した。漣は1ヶ月もたたないうちに、第七駆逐隊に戻ったが、朧はそのまま五航戦所属となり、開戦を迎えている。


太平洋戦争開戦後編集

太平洋戦争の開戦当時の五航戦メンバーは、空母翔鶴瑞鶴、その護衛として秋雲と、朧で編成されていた。

五航戦に所属していた朧は、太平洋戦争中、他の第七駆逐隊のメンバーと行動を共にしたことはただの一度もなかった。また、五航戦所属ではあったが、航続力に不安があったため、戦争中は空母護衛よりも、太平洋の島々を攻略する作戦に参加することが多かった。


1941年12月8日、朧は菊月、夕月、卯月や、第六戦隊古鷹加古青葉衣笠)の面々と共に、グアムの戦いに参加している。その後も、輸送艦の護衛や、上陸作戦の支援を実施している。


1942年4月10日、朧は横須賀鎮守府、秋雲は第十駆逐隊に異動となる。このため、5月8日に行われた史上初の空母対空母の戦いである珊瑚海海戦に、朧は参加していない。この時、翔鶴、瑞鶴を護衛したのは、第七駆逐隊(曙、漣、潮)と、第二七駆逐隊白露時雨、有明、夕暮)の面々である。


1942年6月11日より、竣工間もない秋月と共に、朧は瑞鶴(珊瑚海海戦が終わってから、瑞鶴は一旦、日本本土へと戻っていた)、浦風の護衛を命じられ、短い期間ながら行動を共にしている。瀬戸内海から大湊へと、無事に瑞鶴と浦風を送り届けた後、朧は秋月とも分かれ、再び本土の哨戒活動を担当する。


最後編集

1942年6月5日にミッドウェー海戦で大敗、一航戦が壊滅した事により、7月14日には五航戦そのものが解隊される。翔鶴たちは新一航戦となる。ミッドウェー海戦に敗北したことで、日本が占領していたアリューシャン列島のアッツ、キスカの戦略的な意味が無くなり、それどころか周辺の制海権、制空権も日本からアメリカに移りつつあり、上陸していた陸軍部隊が孤立状態となってしまった。


このアッツ、キスカ占領部隊への物資輸送のため、1942年10月1日、朧は北方海域を担当していた北方部隊に所属となる。10月11日、朧は物資を積み込んで、既に北方部隊に配属されていた初春と共に、横須賀を出港、ともにキスカへと向かった。なお、第七駆逐隊の面々も北方部隊にいたが、その期間は1942年5月から9月までであり、僅かの差で、朧とはすれ違っている。


そして10月17日、キスカへの輸送中に、米爆撃機B-26の空襲を受け、朧、初春ともに大破する。そして、朧は輸送していた弾薬に誘爆してしまい、沈没する。

真夏ですら海水温が0度に近い、極寒の北方海域で撃沈されたため、生存者は僅か17名であった。

艦長ら生存者は、同攻撃で大破していた初春に救助されるが、初春は波浪で航行不能になる。その後、初春は無事に後から来た若葉初霜に曳航された。

こうして、第七駆逐隊の中で、朧は最初に戦没することとなった。


ちなみに、この時に助かった山名艦長は、のちに初春、大潮不知火の艦長を経て、坊ノ岬沖海戦にも生き残った冬月の艦長となり、終戦を迎えている。


残された第七駆逐隊は……編集

第七駆逐隊はその後、1944年1月に19番艦の漣が米潜水艦アルバコアの流れ弾を受け轟沈(生存者86名)、同年11月に曙がマニラ湾空襲で大破着底する。この間、漣亡き後に第六駆逐隊より21番艦の、曙の大破着底後に霞が編入された。

翌年4月に霞が天一号作戦で没したこともあり、本土に帰還できたのは潮と響のみだが、この2隻と、マニラ湾に残された曙が終戦を迎えた。この3隻こそが、吹雪型24隻全体を通してわずか3隻しかない終戦時残存艦でもある。


戦後、響は復員任務に従事したのちソ連(当時)に引き渡され、潮と曙はそれぞれ1948年と1956年に解体が行われた。


関連項目編集

特型駆逐艦(吹雪型駆逐艦) 雷型駆逐艦

朧(艦隊これくしょん)・・・モチーフは2代目(吹雪型)。

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