俺は明治の死に損ないだよ
概要
『るろうに剣心』に登場する人物。天保10年4月11日(1839年5月23日)生まれ、明治16年(1883年)時点で44歳。
幕末の京都で、緋村剣心(抜刀斎)ら維新志士たちと戦った新選組の二番隊組長「永倉新八」その人である。
史実の通り、現在は妻の実家である杉村家に婿入りし杉村義衛(すぎむら よしえ)と改名、北海道の樺戸集治監で剣術師範を務める。
『るろ剣』では東京編、追憶編の回想シーンでモブとして登場しており、壮年期の姿としては北海道編が初出となった。若い頃からスネ夫のように前髪が撥ねており、白髪交じりとなった現在では顎髭を生やしている。普段から編み笠を被り、いかにも侍然とした姿をしているが、本人は「もうお侍じゃない」・「悪即斬はしないよ」と語っている。
若い頃の姿は、(剣心の心理もあってか)常にいかめしい顔をしていたが、現在ではかなり明るくお調子者であり、その態度のデカさ自体は幕末からも変わっていない。
後述の時に再会した斎藤や剣心からは池田屋でかつて死闘を繰り広げた3人が再会できたことを喜ぶも、両名から池田屋には参戦してないと指摘させると今度は「生きててよかった」と受け流すと2人は「相変わらず大味な人だ」と思われていた。かつて立場が違い死闘を繰り広げた彼ら2人に平然と「仲が良い」と言えるなど、かつての激動の幕末を生き延びたことや、新撰組時代の仲間と年上と言うことから斎藤からは「永倉さん」と敬語で呼ばれており、彼等両名に対等な態度で気軽に幕末の頃の話や軽い態度が出来る、数少ない人物でもある。オンオフの切り替えがうまく、ふざけられる場面では平然とふざけたりするが、シリアスな場面や戦いの場においては冷静に状況を判断し、ふざけることはない。
かつて新撰組として幕末の幾多の戦場を生き抜くも、その時に多くの仲間が死んだ中で生き残った自身を「幕末の死に損ない」と自虐を込めて自称しており、油小路事件のときに友人であった藤堂平助を助けることができなかったことは今なお深い負い目となっている。
新撰組時代に原田左之助から『我武者羅な新八』を略して『ガムシン』と言う渾名を命名されており、本人は嫌がっているものの、斎藤以外の元新撰組隊士からは今でも『ガムシン』と呼ばれている。
能力・技
剣の腕は沖田総司・斎藤一と並ぶ新撰組三強の一角と称され、一説にはほかの二人をしのぐ新撰組最強の剣客とされる。実際に戦ったことのある剣心からも「勝てなかった」と言わしめた。基本の流派は神道無念流だが、試衛館で近藤勇局長や沖田らが修めていた天然理心流も学び、さらに新撰組隊士として数多の実戦を経験した結果、その剣筋は我流と呼べるほどに変質している。一例として、雹辺双の高速乱撃をさばく際に、「池田屋事件で咄嗟にやって以来」と語る脇差との二刀流を披露している。
北海道編の時点ではすでに40代半ばに差し掛かっており、剣心ほどではないが体力面に不安を抱えている。それでも、剣の腕の衰えは見受けられず瀬田宗次郎との立ち合いでは「縮地の三歩手前」に無傷で対応してみせ、宗次郎に志々雄や剣心らと同じ『幕末の生き残り』と確信させ、続く「縮地の二歩手前」を後述の龍尾三匹で抑え込む技量を見せる。
- 受・崩・殺・龍尾三匹(うける・くずす・ころす・りゅうびさんびき)
相手の攻撃を下段で受けつつ、刀越しに相手の重心を捉えて動きを封じ込める『降り龍尾』、そのまま刀を摺り上げて相手の体勢を崩す『昇り龍尾』、上段から強烈な唐竹割を繰り出す『斬り龍尾』の三動作を連続で繰り出す必殺技。自身の得意技であるが、北海道編時点の体力の落ちた状態では、一度の使用で息が上がるほど消耗してしまう。
斎藤の牙突(左片手一本突き)と同じく、史実の永倉新八が得意としていた龍飛剣(りゅうひけん)を少年誌らしくアレンジした技。
活躍
北海道での実検戦闘を目論む劍客兵器討伐の為、明治政府の命を受けて収監されていた悠久山安慈を連れ、かつての三番隊組長・斎藤一(藤田吾郎)との合流に向かう。
途中で茶屋で一服していた折、暴漢が店員を襲おうとしたのを止めた宗次郎を函館に連れて行こうとするも、それを拒み暴漢からパクった刀で真剣勝負を申し込んできた宗次郎と交戦。互角に渡り合うが、互いに本気になろうとした所を安慈の介入で水入りとなり、彼の説得を受けた宗次郎はあっさりと函館行きを受諾。永倉は暴漢を懲らしめ、三人で函館に向かった。
函館山で土方歳三ら幕臣残党を弔う「碧血碑」を参拝していた剣心・斎藤と無事に合流を果たし、斎藤を隊長、剣心を副長として『劍客兵器』討伐隊を結成。
その晩、碧血碑の前で斎藤や剣心と共に久々の再会を祝し宴を開くも、その際の話の内容が「池田屋事件の時に抜刀斎が沖田、斎藤、近藤と三番勝負を演じた」という作中の事実と全然違う思い出話で盛り上がっていた(2人からは「違うって!」と散々言われていた)。更には剣心の持つ刀の逆刃刀が珍しいからと見せて貰うよう頼んだりして、剣心からは煙たがられている。 自身が将来回顧録を作ろうとしていると2人に話すが、池田屋の事実とはあまりに違いすぎる脚色に剣心は露骨に嫌がり、剣心が変えてはいけない物と本気で拒絶したため、永倉も悪かったと謝った。
凍座を尋問時には剣心を温存しておきたい目的も含まれていたが、凍座に対して劍客兵器らの目的が猛者を選りすぐり日本の守りの要にすると言う目的が明治政府の掲げる『富国強兵』と相反していないことから、実験戦闘を辞めて明治政府と手を組み、劍客兵器が軍の一機関として猛者を育成すれば良いと言う提案をした。劍客兵器の次の実験戦闘が場所が札幌と小樽の二カ所同時だと知ると、剣心らに小樽を任せて、自身と斎藤と三島英次の三人で札幌に向かった。
余談
- 永倉が阿部を、(永倉たちが不意討ちで殺した)服部武雄が阿部たちを逃がす際にかけた服部の言葉を使って諭す場面があったが、これは「貴様が姉さんを語るな」と剣心に激昂した雪代縁と、永倉の意見を聞き入れた阿部との対比の様な構図になっている。