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概要編集

四股名豊真将 紀行(ほうましょう のりゆき)
生年月日1981年4月16日
本名山本洋介(やまもと ようすけ)
出身地山口県豊浦郡豊浦町(現在の下関市豊浦町)
身長186cm
体重151kg(現役時)
生涯戦績415勝344敗109休

来歴編集

アマチュア時代は埼玉高校日本大学とアマチュア相撲エリートコースを歩むも、病気(蜂窩織炎)の影響で大学一年で相撲部を退部して鳶職警備員などアルバイト中心の学生生活を送る。病気が治った後は再び相撲の道を志し、大学を中退して新弟子入門期限間近の22歳11ヶ月で錣山部屋に入門。2004年3月場所にて初土俵を踏んだ。


数年間相撲から離れていたブランクがありながらも順調に番付を上げて2006年1月場所にて十両に昇進、同年5月場所において新入幕となり、山口県出身の力士としては35年振りの新入幕となった。


折悪しく度重なる怪我や病気で本調子を長く保てず、一時は破傷風の発症で意識不明の重体に陥った経験すらある満身創痍に悩まされ続け、引退の引き金となった右膝前十字靱帯損傷の重傷に泣くも、2015年1月場所で引退するまでに敢闘賞5回、技能賞2回を受賞。現役最高位の小結で通算3場所を務め上げた。


前頭筆頭で中々大勝ち出来ず、2009年までの前頭筆頭だった4回のうち3回は大負け、2011年の5回目の挑戦でようやく新三役昇進となった。


引退表明後、年寄名跡・立田川(たつたがわ)の19代目を襲名し、立田川豊英(たつたがわ とよひで)を名乗る。断髪式は、自身の強い願いもあって異例の『回転式』(通常の断髪式では引退力士は正面一方のみを向いたままだが、「自分の断髪式に足を運んで下さった皆様に楽しんでいただきたい」とする思いから、鋏を入れられる豊真将自身が都度に四方に向き直す)で行われ、最後まで公正な人柄を偲ばせた。


その後は錣山部屋の部屋付き親方として新弟子のスカウトに奔走する、稽古で積極的に胸を貸すなど後進の育成に取り組んでいた中、師匠である20代目錣山(しころやま、元・関脇 寺尾)が持病の不整脈などの心疾患の影響で2023年9月23日から東京都内の病院入院生活を送ることとなり、師匠不在のまま部屋を切り盛りしたが同年12月17日20時27分にうっ血性心不全のため錣山が急逝した。


同年12月27日、2024年1月場所は立田川が錣山部屋の師匠代行として力士らの管理監督を担うことが日本相撲協会の持ち回り理事会で承認され、翌28日に発表された。その後、2024年2月23日付で年寄名跡・錣山の第21代目襲名と錣山部屋の継承が日本相撲協会理事会によって承認されたことで錣山矩幸(しころやま つねゆき)を名乗る。


威風堂々編集

現役時代は温厚・素朴・実直な人柄もさりながら、花道を下がるまでに行われる凛とした所作、取り組みの勝敗に関わらず土俵に深々と一礼して支度部屋に戻る潔さで多くの人の目を惹き、特に手刀と塵浄水の美しさは目の肥えた相撲愛好家の間でさえ「当代絶品」と賞賛された。


これは、師匠の20代目錣山から「一つ一つの所作が美しく取れる力士は器の大きさを感じさせ、相手はそれで威圧される」とする助言を頑なに守り通して身に付けた賜物であり、引退の際には助言を与えた錣山本人から「礼で始まり、礼で終わる相撲道を体現できる数少ない力士。弟子ながら尊敬している」と最大級の賛辞を贈られた。


関連人物編集

  • 20代目錣山:師匠。
  • 豊響:同じ山口県下関市出身で豊真将が関取となってちょうど1年後に関取となる。そのため、豊真将と並んで語られる事も多い。
  • 鶴竜:それぞれの師匠が兄弟同士(・井筒、・錣山)のため、稽古での交流があり親しい間柄。鶴竜の初優勝時には優勝パレード旗手を務めた。
  • 17代目放駒:元・大関 魁傑。豊真将以前の最後の山口県出身(岩国市)の幕内力士で、放駒親方も中学時代から素質を評価していた。
  • 里山:元幕内力士。現・佐ノ山親方。日大相撲部時代の同期であった。

関連タグ編集

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