概要
山口県東部(基本的に岩国市除く)・中部および萩市、阿武町の大部分、美祢市や長門市の一部、山口市阿知須、島根県津和野町のごく一部で路線バスを運行する。
また、萩(および山口県中部と東部の主要都市)と京阪神または東京を結ぶ夜行ハイウェイバス(前者はカルスト号、後者は萩エクスプレス)、山口(・防府)や徳山や柳井(・岩国)と広島を結ぶハイウェイバスの運行を行っている。また、一時期山口駅と山口宇部空港を結ぶリムジンバスの運行も行っていた。
ちなみに防長とは、周防と長門のことであるが、長門の半分(山口県西部)は基本的にサンデン交通の営業エリアであり、さらに美祢市に関しては船木鉄道の営業エリアである。
歴史
1935年9月に防府自動車として設立された。その名の通り防府市をエリアとするバス会社であった。1937年12月に防長自動車と改名。
その後県東部のバス事業者を吸収合併していき、1951年に徳山市(現在の周南市の一部)に本社を移転、さらに1956年に現在の社名に改めている。ちなみに防長自動車が吸収合併したバス事業者の中に、萩市を本拠地としていた萩秋芳洞自動車があるが、そのルーツである萩自働車交運車が設立されたのは1913年であった。
1968年に近鉄の関連会社となった。なお、2014年に近鉄のバス部門が分社化した近鉄バスの関連会社に移行している。
また1992年4月1日には、関連会社の防石鉄道を吸収合併したほか、1999年4月1日に山口市交通局の全事業を譲り受けた。なお、閉局時に宮野地区にあった山口市交通局本庁は、そのまま防長交通山口営業所に転換しており、現在の最寄りバス停は「宮野車庫」である。
1953年から1965年にかけて東京都にニュー東京観光バスなる貸切バス専業のバス会社を傘下に抱えていた。件の企業は名古屋鉄道傘下などを経て、2016年に消滅した。また、大阪府にも1960年にニュー大阪観光自動車を設立させたが、防長交通が近鉄傘下となった際に防長交通の傘下を離れ近鉄の傘下に移ったあと、消滅した。
車両
かつては三菱ふそう車が多かったが、近鉄傘下になる前となってからとでは導入するメーカーの構成が異なっている。
近鉄の傘下になる前は民生デイゼルやいすゞの車輌を導入していたが、近鉄の傘下に入ってからは近鉄の影響で日野の車輌に置き換えられてしまった。
特にここ最近は近鉄バスから中古車を融通してもらうことが多くなってしまったうえ、新車も日野ばかり導入していることから、ほとんどのバスが日野という有様である。ただし近鉄バスから融通してもらったバスの中にはごく少数ながらいすゞのバスも存在した。
かつては前後扉車が一般的だったほか、前扉のみのいわゆるトップドア車も少なくなかった。しかも小型(例えばふそうエアロミディMJ)ばかりか中型や大型も好んで採用しており、特に防石鉄道の一般路線バスは、防長交通が合併した時点ではすべてトップドア車だった。
旧防石鉄道と旧山口市交通局のバスは、旧防石鉄道の貸し切り車両を除き塗装を一部手直ししただけで他はほぼそのままにしていた(旧防石鉄道の貸し切りバスは防長交通と塗装ほぼ同じ・社名が違うだけだったので、社名を変えるだけで済んだ)。またこれらの塗装を模したバスを走らせたことがある。
最近では近鉄バスから譲り受けた路線バス車両に関しても、KとNのイニシャル(文字)を消して「BOCHO」の文字を加えている。同じ近鉄の関連会社でも、和歌山県の明光バスはKとNのイニシャル(文字)は残したまま、石川県の貸切バス会社・北日本観光自動車に至っては近鉄バスの塗装を変えずに社名書き換え・KINTETSUの文字の後ろに「GROUP」を加えている有様であり、KとNのイニシャル(文字)を消している防長の方がまだ手間をかけているようである(むろん例外もありはするが)。
また、同じ近鉄の関連会社である明光バスや奈良観光バスから移籍してきたものも在籍していたことがある。特に奈良観光から(観光地向け路線バス用として)移籍したものは、日野の車でありながら、防長では新車導入の実績がなかった富士重工業製のボディーが載せられていた(防長の日野の新車は金沢産業⇒大型は帝国自動車・中型以下は金沢産業⇒大中型の路線はJ-BUS宇都宮・それら以外はJ-BUS石川)。
防石鉄道について
1914年4月に石三軽便鉄道として設立されたが、半年後に石三鉄道に改称した。ところがその年の12月に工事を始めたのはよかったが資金難などでなかなか工事が進まず、1919年になって三田尻(後の防府)と奈美(後の上和字)の間が開業、翌1920年9月に堀(山口市徳地にその名前の集落がある)まで開通した。なお、工事中の1916年5月に防石鉄道と名を改めている。
だが、堀から先の柚野村(現在の山口市徳地柚野地区)大字横山、さらには島根県南西部の石見地区までの延伸を計画したものの、資金不足により工事を中止し、工事延期願を再三申し出たものの、1936年に免許が失効した。また、防府から三田尻中関港への路線を作ろうとしたものの、やはり資金不足により中止となった。
鉄道が開通したものの、工事費が資本金を上回ってしまい、借入金が徐々に増えていった。故に地元では「三田尻駅と堀を結ぶ汽車は、シャッキン借金言いながら走りよる」と噂される有様であった。そして1924年には140万円の返済が不可能になり、強制執行を受け、競売にかけられた。三田尻の株主が債権者の広島信託社と協議した結果、競売が取り消された。
また一部の株主が国に買収案を提示し、帝国議会衆議院に審議がかけられた。理由は山口線には急勾配区間が存在しているため急行運転は不可能であり、防石鉄道を買収し両端を伸ばせば九州や大分の貨客を山陰に輸送できるとした。しかし鉄道省は山口線に並行している路線を緊急に整備する必要はないと断り、買収はかなわなかった。
1933年12月に八坂自動車から乗り合いバス事業の譲渡を受け、乗り合いバスの営業を始めた。
一方で当時のオーナー企業だった太陽産業は防石鉄道の軌条を北海道にあった羽幌炭鉱鉄道に転用することを考えていた。そこで社長だった狩野蔵次郎が軌条その他を処分し、債務の支払いに充てようと考え、鉄道部門を廃止してバス単独運営に移行するとし、1939年7月に当時の鉄道大臣に廃止申請した。だが日中戦争のさなかで認められず、太陽産業の援助などにより鉄道運営を継続することになり、1940年2月に廃止届を取り下げることになった。
第2次世界大戦前にもガソリンカーを導入したことがあったものの、燃料事情から、エンジンを外して客車として使用する様になった(ちなみに1956年頃まで使用)。
第2次世界大戦後に無煙化に取り組んだ際、ディーゼルカーは国鉄から譲り受けた買収気動車(私鉄を買収した際に国鉄に編入された気動車)でまかない、1952年にはディーゼル機関車DB201も導入した。開業の際に埼玉県の川越鉄道(現在の西武鉄道国分寺線および川越線の一部)から譲り受けた2号蒸気機関車は予備車となった。
1964年6月30日をもって鉄道線は全線廃止され、バス会社に転業。防長交通の関連会社となり、前述の通り1992年3月31日の最終営業日を以て、防長交通に吸収合併されて姿を消した。
なお、鉄道線廃止の日まで残っていた2号蒸気機関車と小型客車2両(そのうちの1両は鉄道開業に合わせて作られた)は、防府駅西方の山陽本線高架沿いに屋根をつけて保存されている。
その他
- 関連会社としては、貸切バス専業会社の防長観光バス、広島市・周南市・萩市でタクシー会社を運営する防長タクシーホールディングス、旅行代理店の防長トラベル、萩市でホテルを運営する萩観光ホテルが存在する。
- 防長観光バスがありながら、防長交通本体や防長タクシーホールディングスも貸切バスを運営している。防長タクシーホールディングスに関しては25人乗りの中型バスに特化しているが、防長観光バスと防長交通は大型バスのみを取り扱っている。
- また、防長タクシーホールディングスと名乗ってはいるが、近鉄の傘下になってからは、防長タクシーと名乗らず、近鉄タクシーと名乗っている。なお、同じ近鉄の関連会社である奈良交通も、傘下のタクシー会社は「近鉄タクシー」と名乗っている。
外部リンク
- 公式サイト
- Wikipediaの記事
- ファンブログ・防長バス好きのブログ:1980年代半ば以降の防長交通のバスの情報をかなり取り上げている。