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明治天皇の編集履歴

2021-06-15 21:50:01 バージョン

明治天皇

めいじてんのう

第122代天皇。孝明天皇の第2皇子。嘉永5年(1852年)生誕、慶応3年(1867年)践祚、明治45年(1912年)崩御。

日本の第122代天皇

生没年:嘉永5年(1852年)9月22日明治45年(1912年)7月30日

在位:慶応2年(1867年)12月25日~明治45年(1912年)7月30日


近代という日本の新時代を牽引し、日本を列強にのし上げた名君として「明治大帝」「明治聖帝」と戦前戦中では国内外で称えられた。


基本情報

睦仁
代数第122代(位:慶応2年(1867年)~明治45年(1912))
称号祐宮
誕生嘉永5年9月22日(西暦1852年11月3日)
崩御明治45年(1912年)7月30日
践祚慶応2年(1867年)1月30日
即位礼明治元年(1868年)10月12日
大嘗祭明治4年(1871年)11月17日
大喪礼大正元年(1912年)9月13日
出身山城国平安京(現・京都府京都市上京区)
宮殿平安宮→宮城明治宮殿
父親孝明天皇
母親中山慶子(側室)
皇后昭憲皇太后(一条美子)
皇子皇女稚瑞照彦尊、稚高依姫尊、梅宮薫子内親王、建宮敬仁親王、明宮嘉仁親王(大正天皇)、滋宮韶子内親王、増宮章子内親王、久宮静子内親王、昭宮猷仁親王、常宮昌子内親王、周宮房子内親王、富美宮允子内親王、満宮輝仁親王、泰宮聡子内親王、貞宮多喜子内親王

ご生涯

嘉永5年(1852年)9月22日(陽暦11月3日)、孝明天皇の第2皇子として、外租父・権大納言中山忠能邸内の御産所において生誕。母は中山慶子。9月29日に祐宮と命名。

万延元年(1860年)7月10日、祐宮を立てて儲君とする。同年9月28日、立親王宣下、名を睦仁とする。


慶応2年(1866年)12月25日、孝明天皇が36歳で崩御、1月9日に満14歳で践祚。清涼殿代小御所にその儀を行い、関白・二条斉敬を摂政とする。6月28日、故左大臣・一条忠香第三女・寿栄君を女御とする。


慶応3年(1867年)11月15日、江戸幕府15代将軍徳川慶喜が大政を朝廷に奉還、幕府は滅亡する(大政奉還)。

同年12月9日王政復古の大号令が行われ、新政府が樹立。

慶応4年(1868年)1月2~6日、鳥羽伏見において薩摩・長州両藩を中心とする朝廷軍と旧幕府軍が戦端を開き朝廷軍が勝利(鳥羽伏見の戦い)、ここに戊辰戦争がはじまる。

3月、東征総督・有栖川宮熾仁親王、参謀・西郷隆盛率いる新政府軍が江戸に到着、西郷は旧幕府・勝海舟と会談、15日予定の江戸城総攻撃を取りやめる。

1月10日、外国条約に大君の名称をやめ、以後は天皇と称することを各国公使に告ぐ。

9月8日、慶応4年を改め、五月1日にさかのぼって明治元年とし、一世一元の制を定める。

戊辰戦争が続く中、遷都が決まり、10月13日に江戸に到着し、東京と改め、江戸城西丸を皇居となし改めて東京城と称する。

明治2年(1869年)、版籍奉還

明治3年(1870年)1月3日、神道を国教とする「大教宣布」の詔を発す。

明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県、この年、明治政府に不満をもつ薩摩の島津久光のもとに西郷隆盛をともない行幸、洋装で久光と謁見したと伝えられる。

明治5年(1872年)12月2日(1872年12月31日)、太陰暦を廃して太陽暦を導入。


明治6年(1873年)に政府内で征韓論をおす西郷隆盛、江藤新平板垣退助らと大久保利通岩倉具視木戸孝允らとの対立が起こる、事態に窮したことにより政府は天皇が裁可を下すことで収めたが、西郷らは政権を去り下野した。

明治10年(1877年)、明治9年(1876年)より不平士族による反乱が頻発、この年3月、西南戦争が起こり、西郷が自刃したことにより9月6日に鎮圧。

明治11年(1878年)、大久保利通が政府に不満をもつ士族に暗殺される。


明治12年(1879年)8月31日、第3皇子が生誕、同年9月6日に命名、「明宮嘉仁親王」と称し、後に皇太子となる。


明治22年(1879年)2月11日、大日本帝国憲法を公布、翌明治23年(1880年)11月29日に施行し、帝国議会が開かれる。

明治27年(1884年)8月1日、清国に対し宣戦の詔を発し、日清戦争が勃発。同月13日、大本営広島に移す。なお、戦争は日本軍有利となり、翌明治28年(1885年)4月17日に「下関条約」が結ばれたことにより終結する。


明治33年(1900年)2月11日、皇太子・嘉仁親王の妃に九条節子が定まり。5月10日、婚礼の儀が行われる。

明治34年(1901年)4月29日、第一皇孫生誕、迪宮裕仁親王と名づけられる。


明治37年(1904年)2月10日、ロシアに宣戦の詔を発し。日露戦争が勃発。一進一退の攻防が続いたが革命前夜のロシアには余力があり、日本は国力が疲弊していたため、アメリカによる仲介が行われ、明治38年(1905年)9月5日に「ポーツマス条約」が結ばれたことにより終結。なお、ほとんど得るものがなかったことに民衆による暴動(日比谷焼き討ち事件など)がおこる。

明治43年(1910年)6月、警察は「天皇を害する陰謀がある」として幸徳秋水ら12人を逮捕、翌明治44年(1911年)1月24日に処刑する(大逆事件)。孝徳は社会主義者ではあったが天皇を害する意思はなく、この事件は当時から検察の捏造との批判されている。


明治45年(1912年)7月30日、午前0時43分、糖尿病の悪化による尿毒症のため、皇居明治宮殿内にて崩御。皇太子・嘉仁親王が践祚して大正と改元。

大正元年(1912年)8月27日、大行天皇を尊び明治天皇御追号を奉る。

9月13日、帝国陸軍青山演習場にて大喪の礼が執り行われる。

9月14日に伏見桃山陵に奉葬、翌15日、明治天皇御陵名を伏見桃山陵と定める。


人物

洋を受け入れ、洋を拒み、和を尊ぶ

明治天皇個人は日本の伝統文化への愛着が強く、明治政府が推進した欧化政策には批判的な一面もあったが、政府の意向に従って率先して洋装洋食を行い、欧州文化を受け入れるお手本の役割を果たした。基本姿勢として「日本の残すべき文化は残し、外国の取り入れるべき文化は取り入れる」という態度を通した。

蹴鞠を好んで自らも嗜み、蹴鞠保存会を発足させた。レコードをよく聴き、唱歌や詩吟琵琶歌も好み、機嫌が良いと自らも琵琶歌を唄ったが、周囲曰く下手だった。

断髪令が出された際は率先して自ら髷を切り、国民もこれに従うようになっていった。

公的な場や観衆の前では洋装だったが、私生活では和服を好んで過ごし、質素倹約・質実剛健で自他共に厳しく生活していた。生涯で約10万首の御製(和歌)をお詠みになったが、裏紙に鉛筆で書かれたものが数多く残っており、しかもちびた鉛筆を好んで使っていたという。

全国に立派な御用邸が建てられ、皇室にはいつでも好きなだけお使いくださるよう政府が配慮したが、明治天皇は生涯一度も利用すること無く、それどころか娘が御用邸を使うことさえ一度も許さず、「娘を愛している、ゆえに遠ざける」という理由からだったという。

日清戦争で広島に設置された大本営に移つられたが、居所は「立派なものは一切不要である」として、寝室と執務室を分けることすら許さず、一つの部屋で暖もとらず寝起きし、朝になると布団を片付けて机で執務し、食事もご飯に梅干しひとつだけというほどだった。また心配する側近に対しても「戦場の将兵たちと苦楽を共にする」という信念から拒んでいた。


海外との関わり

宇多天皇以来、天皇が外国人と会うことはなかったが、明治天皇は頻繁に外国要人と面会している。明治2年(1869年)に英国女王ヴィクトリアの王子・アルフレート、明治12年(1879年)にアメリカ元大統領のユリシーズ・グラント、明治14年(1881年)にハワイ国王カラカウアと会談している。英国からはガーター勲章を贈られている。また、大韓帝国皇太子だった李垠殿下への愛情が深く、大津事件で負傷されたロシアのニコライ皇太子(のちのニコライ2世)を見舞われている。明治23年(1890年)にオスマン・トルコ帝国の特使団から皇帝親書を奉呈されたが、その特使団を乗せた船が和歌山県沖で難破(エルトゥールル号遭難事件)し、これを知った天皇は政府に遭難者たちの援助を指示した。

日露戦争で日本がロシアを打ち破ったことで、ロシアや欧米の支配を受けたアジア・中東などでも明治天皇への評価は高かった。


お写真とご真影

歴代天皇で初の写真撮影がされ、明治5年(1871年)に束帯姿と大礼服姿のお姿が撮られた。洋装の御姿も撮られたが、洋嫌いの一つで写真も嫌いとなりそれを最後に撮影を拒んでいる。


とは言え、政府としてはいつまでも30代の若年時期の姿の写真のままではいかず、壮年時のご真影が必要となった。そこでイタリア人版画家のエドアルド・キヨッソーネ氏に頼み、覗き見た天皇の顔を描き、これをもとにコンテ画を作成し、これを写真撮影してご真影とした。


実際は何度か遠くから隠し撮りされた物がいくつか残されている。


お酒

酒好きで有名だったが、晩年の糖尿病で酒量が激減した。日本酒を好んだが、医師に節制を求められるとワインなど洋酒に切り替えてしまったという笑い話も伝わる。明治神宮でもお神酒を捧げるエピソードを紹介したこともある。


戦争を望まず

日清・日露戦争という近代日本の命運を決する対外戦争の時期に天皇として臨まれたが、決して戦争に積極的ではなかった。両戦争でも開戦間際まで外交交渉での事態打開と解決を望み、開戦回避に努めていた。日清戦争の時は「朕の戦争にあらず、大臣の戦争なり」と不快感をあらわにしていた。

日露交渉も難航し、御前会議で開戦止む無しの方向に結論が進む中、次の御製を詠まれた。


  四方の海 皆同胞と 思ふ世に など波風の 立ち騒ぐらむ


戦争回避と平和的解決を望み、「今回の戦は朕が志にあらず、しかれども事ここに至る、これはどうすることもできない。事、万が一挫折したならば、どうして祖宗に謝し臣民に接すればよいだろう」と嘆いたほどだった。

開戦決定となったが、それ以来食事が進まず、落ち込んでしまった。また、どれほど華々しい戦果の報告であっても表情を変えなかったという。

後に上記の御歌を昭和天皇も日米開戦間際に御前会議で詠まれ、平和的解決を望んだ。


戦地の将兵達を想う

ロシアとの国交断絶が裁可されて以降、明治天皇は「わが身は戦地の将兵たちとともにある」として決して暖房を使うこと無く、日清戦争が始まり大本宮広島への移動に伴って、斉明天皇以来1200年ぶりに大元帥として都を離れ、地方に出征した時も、天皇の居所としてそれなりに立派なものを計画されていたが、明治天皇は「立派なものは一切不要である」として、寝室と執務室を分けることすら許さず、一つの部屋で寝起きし、朝になると布団を片付けて机で執務を執っていた。

見かねた将校が

「部屋が殺風景だから壁に絵を一枚かけさせていただけないでしょうか」


と伺うと、


「戦地の将兵たちの官舎に絵がかかっているか」


と将兵は問われ、


「いえ、かかっておりません」

と返答すると、


「ばか者! 絵を見ながら安逸の時を過ごしている場合ではない」


と将兵を一喝したという。

また、別の将校が


「せめてお休みになられるソファを一台入れさせてもらえないでしょうか」


と伺うと、同じように


「戦地の将兵たちがソファを使っているのか」


と問い、「それはないと思います」と答えると、「ばか者!」とやはり一喝され、つねに戦場の兵士たちとともにあることを徹底していた。

日露戦争のとき、伊藤博文が明治天皇の緊急のことがあればいつでも上奏するようにという御下命に従い、昼食時に緊急の案件を奏上したとき、伊藤氏が横目に陛下が昼食に摂っているものを見ると、なんと汁物も付け合わせも何も無く、米を梅干し一粒で食していたという。

しかもそれは自分が質素な食事をしているのを見せるためではなく(将兵たちは陛下の食事を目にする機会などない)、自分が戦場に行けない悔しさを噛みしめながら、将兵たちのことだけを考えて日々を過ごしていたからである。


刀剣LOVE

無類の刀剣愛好家の一人でもあり、気に入った名刀を集めコレクションルームを作っていた。東北巡幸の折に上杉家で休憩のために立ち寄ったが、当家に保管されていた上杉謙信以来の数々の名刀に夢中になるあまり、翌日の予定を変更させてしまった。

また名刀を持つという名家の当主を呼んで名刀の話題で褒めて、その名刀を献上せざる負えない状況にするという意地の悪いこともやったほど。こんなこともあって各地の名家から菊御作鶯丸小竜景光水龍剣鶴丸国永平野藤四郎小烏丸獅子王毛利藤四郎菊一文字鬼丸国綱など様々な名刀が献上された。それらの多くは後に東京国立博物館をはじめとする博物館に納められ、明治天皇のおかげで名立たる日本刀の散逸を防ぐことになった。ただし、好きが高じて自ら名刀で試し斬りもしたため、名刀を傷つけてしまっている。


諫臣・山岡鉄舟

徳川慶喜に仕え、西郷隆盛勝海舟との会談実現に尽力した幕臣だったが、明治5年(1872年)に西郷の頼みで10年間、明治天皇の侍従として仕えた。ある時、天皇が酒で酔って周りに相撲を強要したが、相手をした山岡は臆せずに天皇を掴み上げそのまま背負い投げし、深酒を諫めた。また、天皇が毎晩女官の部屋に遊びに行っていたため、山岡は暗い廊下に身を潜めてやって来た天皇をまた背負い投げして、夜遊びを諫めた。

食に関して両者のつながりもある。山岡は木村屋あんパンを好んで食べていたが、1875年(明治8年)4月4日に明治天皇が向島の水戸藩下屋敷へ花見に行幸した時に山岡は天皇にあんぱんを献上。天皇もこれを気に入り、木村屋は宮内省御用達となり、あんパンも木村屋も全国的な知名度も向上し、あんパンは日本料理のひとつとして根付いた。そして、4月4日は明治天皇があんパンを食したことから「あんパンの日」となった。

ちなみに山岡が仕えた慶喜は天皇の朝敵となってしまったが、明治31年(1898年)に二人は面会を果たした。


忠臣・西郷隆盛

薩摩出身の有力者で、明治天皇のそばで2年ほど教育係として仕え、強い武人の天皇像を作るために知り合いの元武家の者たちを天皇のもとに仕えるよう計らい、山岡もその一人だった。明治天皇は乗馬を毎日のように励んだが、ある時に落馬したが西郷はこれを馬上から叱り飛ばした。そんな厳しくも飾らぬ質素を旨とする西郷に天皇は好感を持った。

しかし、その西郷が政変で下野し、ついには西南戦争の首謀者となってしまい、天皇は事態が沈静化するまで京都御所の後宮で政務も執らず篭り、西郷討死を知ると「西郷を殺せとは言わなかった」と怒りと悲しみを露わにしたという。

その後、憲法発布に合わせて天皇は西郷に正三位を追贈し、上野の西郷象作成にも資金を贈り、西郷の名誉回復に努めた。西郷に感化された天皇は率先して軍事訓練に参加するようになり、質素倹約の生活を送るようになった。


台湾を思う

日清戦争で清国から割譲し、初めての日本の海外領地となった台湾。その最高峰の山を明治天皇は富士山よりも高い山として「新高山」と命名された。後に、天皇は台湾の住民を思い、 「新高の 山の麓の 民草も 茂りまさると 聞くぞ嬉しき」 の歌を詠んでいる。


プライベートな場での会話

明治天皇は生誕から16年間を京都にて過ごしていたため、会話の節々に関西弁が見られたという。

例えば、部下が誤って明治天皇の所有品を壊してしまった場合でもすぐに名乗り出れば「これからは気をつけや」と関西弁で優しく諭していた。一方で名乗りでなかったり後から自分がやったと報告すると「お前今さら何を言うんや⁉️」と怒ったという。

また、明治天皇が公用などで忙しく休む暇もない頃、近習の岩倉具定(岩倉具視長男)が明治天皇が芝居が好きなのを知っていたため勧誘したところ明治天皇は笑って「いっぺん見るとな、またもういっぺん見とうなってあかん」と言ったという。

関連タグ

天皇 日本史 幕末 明治明治時代


皇位

第121代第122代第123代
孝明天皇明治天皇大正天皇

台湾の元首

第11代清朝皇帝第122代天皇第123代天皇
光緒帝明治天皇大正天皇

朝鮮の元首

第2代大韓帝国皇帝第122代天皇第123代天皇
純宗皇帝明治天皇大正天皇
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