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司馬遼太郎の編集履歴

2023-05-27 09:37:49 バージョン

司馬遼太郎

しばりょうたろう

日本の作家。歴史作家の大家である。

概要

大阪府出身の小説家・評論家。1923年~1996年。本名は「福田定一」で、ペンネームの由来は古代中国の『史記』を書いた司馬遷で、「司馬遷に遼(はるか)におよばず」の意味であると言う。


歴史小説や紀行文を得意とした。行動力もあり、幅広い交友関係も持つ。


司馬の小説は様々な小説家や歴史家に多大な影響を与え、小説によって歴史上の人物の一般的な印象や人物像も変えてしまった。


NHK大河ドラマや時代劇の原作も司馬作品が多い。また、『街道をゆく』のような紀行文や『明治という国家』、『昭和という国家』などの歴史随筆のほかに戯曲も書いている。


大阪府東大阪市にある司馬遼太郎記念館には、生前の司馬が集めていた史料のうち、半分近くの二万冊が常時展示されており、本棚を通り越して本の壁となっている。


作風

緻密な取材と独自の歴史観で様々な歴史上の人物達の小説を書き、基本的に司馬が好意を持った人物しか小説の登場人物として描かない。従って、司馬の扱う題材にはかなり偏りがあり、豊臣秀吉徳川家康の様に別の作品に繰り返し登場する人物もいる。


事実上、歴史小説というジャンルにおいて他作家の追随を許さない不朽のクオリティを誇る。

ただし、その作品影響力の高さゆえの「司馬史観」論争その他の理由により、近年では「フィクション作品という枠組み中では」という注釈が付されることが多くなってきている。


作品の時代の多くは戦国幕末明治を舞台にしているが、生涯、太平洋戦争の戦中とその前後の時代の小説を書くことはなかった。その理由として当時の政府や軍上層部のあまりの愚劣さと出征体験の悲惨さに腹が立ったからだと言われている。

それが高じて、司馬史観と俗称される独自の歴史観を展開した。


詳しくは当該項目にて(大事なことなので二度リンクします)。

特にこの部分がユーザーや知識人の認識の差異や、後述のような司馬本人の無責任ともとれる言動による混乱で、現在まで論争が繰り返されており、近年ではその再定義が課題にされるケースが多くなってもいる。


小説では「筆者は考える」と作者が登場して意見を述べたり、「余談だが...」というお決まりのフレーズに続いて話が脇道に逸れることがすこぶる多い。脱線で語られる蘊蓄や、知られざる人物の繰り広げるサイドストーリーも司馬作品の楽しみのひとつである。だだし、メインストーリーから頻繁に脱線するため目が滑るという声も少なくない。

あと読者を惹きつける、飽きさせないための工夫なのか何なのか、作品中に濡れ場が頻繁に挿入されるなど非常にエロ度が高くて濃い点にも(特に年少読者は)要注意のこと。


エピソード

前述の通り、戦時中に学徒出陣で徴兵された経歴をもつが、その際に戦車兵としての教育を受けている。俗にいう、福田定一少尉である。

ついぴくまとめ2枚

ガールズ&パンツァー』に登場するキャラクター福田はるはそんな彼の経歴をリスペクトしたものである。


『歴史と視点―私の雑記帖』というエッセイ集に含まれる逸話で、本土決戦の打ち合わせ中に大本営参謀に戦車で移動中に避難民で道路が埋まっていたらどうするんですか?」と質問したところ、「轢っ殺してゆけ」と返されたという記述していた。

しかし、他のエッセイでこの事を取り扱ったら、 描写内容や回答した人物が二転三転する という事態となり、それを訝しんだ司馬の元同僚(宗像正吉氏)が戦友会に出席した司馬を問い詰めたところ、

「私は小説家ですよ。歴史研究家ではありません」

「小説というものは面白くなければ、読者は離れてしまいます」

と語り、作家としての「創作」だったことを明かしたという。

あくまでその場に居た関係者の証言だが、このエピソード発表前後から司馬は当時を知る知人のを避けるためにその種の集まりに出席した際には会場中を逃げ回っていたとされる。



これを起因として、司馬が語った「[三式中戦車の装甲にヤスリをかけたら削れてしまって上官と一緒に愕然とした」という実体験もウソではないか?と訝しまれることもあるが、実際問題大戦末期に生産された日本軍の兵器は軒並み低品質だったのでコレは疑う余地のない実話であろう。たとえ他の機体がそうでなかったとしても、司馬の所に来た機体がそうであったのならそれが事実である。

……と考えたいが、前述のように他にも色々とやらかしている御仁なのでこれもうわかんねぇな



このように、世間的には『司馬さんの考えたこと』はほとんど実態に近いものという評価を得つつも、上述の「戦車・この憂鬱な乗物」や「戦車の壁の中で」等のエッセイといった司馬の考察感想回想の中には裏付けや根拠が曖昧な箇所が非常に多く、ほとんど独自研究の域を出ないものであったり場所が場所なら要出典とせざるを得ないだろう部分も多々ある。

既述の二万冊以上の参考資料も、文章によっては具体的にどの書籍を参照したものか不明なケースも多く、よく見ると「知人の知人から聞いた話し」を真実前提で喋ってしまっているものも結構ある。


また、それでも徹底を極めたとされる考察や考証関連は、あくまで「当時の」最新資料に依るものであることを留意する必要もある。

例として、現在では東北地方の侮蔑語とされる「白河以北一山百文(しらかわいほくひとやまひゃくもん)」は、元々は賊軍扱いされた幕末の地元住民が自分たちの奮起のための合言葉として提唱されたものが次第に自虐のものへと変化し、それを戦後に司馬が『街道を行く』の中で「この言葉を最初に言ったのは官軍兵士だろう」とふと根拠も無く『推理』したものが広まってしまった可能性が指摘されている。(参考:河北新報

このように、長らく説得力を有していた司馬の歴史解釈だが、現代の最新研究によって否定されたものも多い。



一方で、戦車に対しては愛憎入り交じった複雑な感情を持っていたらしく、くそみそにけなすこともあれば「九七式中戦車はメカニックとしては大変優れていた」「時々夢に見る。内部で臭う独特の臭気すら夢に出てくる」と素直に愛着を語ることもあった。

「ダメな子ほどカワイイ」といったところか。

ただし、運転は下手クソだったと自己申告している。戦後も「一般車を運転しようとも思わないし、車に轢かれたのが数少ない縁だ」みたいなことを言い放っている。加えて、徴兵当初は機械関連の知識がほとんど無いのにいきなり上官に「スパナ持って来い!」といわれたがスパナが何か分からず、相手にそのスパナでぶん殴られたと、そのほか軍役時の人間関係に関しては恨みがましく綴っている。

唯一、戦車学校生徒時の校長であった池田末男大佐に関しては一流の人格者と評価した。その池田は、終戦直後に千島列島へ騙し討ち同然で侵攻してきたソ連軍を、島の民間人を脱出させた後に司馬がいう「憂鬱な乗物」に乗り込んで占守島の戦いにて迎え撃ち、壮絶な戦死を遂げた。

戦車第十一連隊 北海道占守島  (鉄獅子その21・改)

この戦いは、日本陸軍最後の勝利として後世に語り継がれている。



また、各作中でまるで巨悪古狸さながらに描いていて各方面で風評被害が甚だしい徳川家康に関しても、考察家としてはかなーり複雑な感情を持っていたらしい。

なにせ、自作でのイメージがそれなのに、随筆集『風塵抄』内にて平和を達成するのに人脂のべとつく手練手管を駆使しなければならないのは当たり前で、家康が豊臣秀吉等と比べてさわやかさに欠けるのは仕方ない(要約)」と至極まっとうなことを言っているのである。

……ここらへんの実態は大河ドラマ『どうする家康』にて追求されている箇所であったりする。



こんな感じで、司馬遼太郎という作家は各著作に絶大な信頼が寄せられている反面で、特定の人物や集団、場面によっては無視できないムラが存在しており、司馬作品を参照する際にはどこまでがフィクションノンフィクションで、考察関連ではどの部分が司馬の個人的な思い込みなのか吟味する必要がある。

ただし、物語としてはどの作品も面白く興味深い。だから困るのである。




代表作 (カッコ内は物語の主人公)

平安時代

戦国時代・安土桃山時代~江戸時代初期

江戸時代後期

幕末

明治時代

海外

その他


関連タグ

小説家 歴史 悲しき英雄

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