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タムロチェリー

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たむろちぇりー

日本の競走馬・繁殖牝馬。青森県産で、抽籤馬ながら阪神ジュベナイルフィリーズに勝利した。

概要

日本の競走馬繁殖牝馬

青森県産の抽籤馬だった。

主な勝ち鞍は阪神ジュベナイルフィリーズ(2001年)、小倉2歳ステークス(2001年)など。

略歴

1999年

4月2日、グリーングラスブルーアレツなどを生産した青森県天間林村(現在は七戸町)の諏訪牧場で誕生。

父のセクレトはダービーステークスを勝ったノーザンダンサー産駒で、1985年に4000万$の巨額シンジケートが組まれてカルメットファームケンタッキー州)で種牡馬入りしたものの結果が出せず、1992年に諏訪牧場の間梯三牧場長が購入し、翌年から3億円のシンジケートが組まれて諏訪牧場で種牡馬として供されたが失敗に終わった。

母のミスグローリーは間がキーンランドセール(ケンタッキー州)で購入したグラッドタイディングスが産んだサクラユタカオーの仔で、岩手競馬で2勝を挙げている。

間はこの年に亡くなり、死の直前まで「何故セクレトの仔が走らないのかわからない」と嘆いていた。

2000年

八戸市場セリにかけられたが全く注目を浴びず、JRAが420万円で落札。JRA宮崎育成牧場宮崎市)に送られて育成された。

阪神競馬場抽籤会谷口屯丸福建設代表取締役社長)の代理で来ていた西園正都調教師が指名し、678万円で購入。谷口が「タムロチェリー」と命名した。

栗東の西園正都厩舎に入厩する。

2001年

7月15日、小倉競馬場新馬戦でデビュー。ブイルージュの11着に敗れた。

8月5日、小倉競馬場の新馬戦に出走しユウキャラットの3着に敗れた。

8月25日、小倉競馬場の未勝利戦に出走し初勝利を挙げた。1勝しただけなのに小倉2歳ステークス(GⅢ)に向かうこととなった。

9月2日、小倉2歳ステークスに出走。最低の15番人気だったが1着。重賞初勝利。

11月4日、ファンタジーステークス(GⅢ)に出走しキタサンヒボタンの10着に敗れた。

12月2日、阪神ジュベナイルフィリーズ(GⅠ)に出走し1着。青森県産馬としてはグリーングラス以来のGⅠ制覇となった。鹿児島県放牧され、休養に入る。

2002年

1月、2001年度のJRA賞最優秀2歳牝馬を受賞。

3月2日、チューリップ賞(GⅢ)で始動。ヘルスウォールの12着に敗れた。これ以降、惨敗続きで全く勝てなくなった。

4月7日、桜花賞(GⅠ)に出走しアローキャリーの12着に敗れた。

5月19日、優駿牝馬(GⅠ)に出走しスマイルトゥモローの12着に敗れた。秋まで休養に入る。

9月15日、ローズステークスGⅡ)に出走しファインモーションの14着に敗れた。

10月13日、秋華賞(GⅠ)に出走しファインモーションの13着に敗れた。

11月10日、エリザベス女王杯(GⅠ)に出走しファインモーションの12着に敗れた。

12月15日、阪神牝馬ステークス(GⅡ)に出走しダイヤモンドビコーの16着に敗れた。

2003年

4月26日、オーストラリアトロフィーに出走しテンザンセイザの11着に敗れた。

5月24日、テレビ愛知オープンに出走しテンシノキセキの16着に敗れた。

7月20日、北九州記念(GⅢ)に出走しミレニアムバイオの9着に敗れた。

7月25日、JRAの競走馬登録を抹消し引退。

2004年

生まれ故郷の諏訪牧場で繁殖牝馬となる。

2007年

8月15日、癌のため死去(8歳)。

余談

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