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ハギノカムイオー

はぎのかむいおー

日本の競走馬、種牡馬。日本で初めてセリ市で1億円超の落札額を記録し「黄金の馬」と呼ばれた。
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ヒーローing編集

いま、夢の途中。

はやく。はやく。君の前には誰もいない。


JRAポスターより


概要編集

日本の競走馬種牡馬

日本で初めて1億円超の落札額を記録し「黄金の馬」と呼ばれた。

主な勝ち鞍は宝塚記念高松宮杯など。

作戦は逃げ切りを得意とした。

マイリーから連なる牝系華麗なる一族」に属し、半姉にハギノトップレディ、叔父にニッポーキング、姪にダイイチルビーがいる。


プロフィール編集

性別
毛色鹿毛
テスコボーイ
イットー
母父ヴェンチア
生産者荻伏牧場
馬主日隈広吉 中村和夫
調教師伊藤修司栗東トレーニングセンター
主戦伊藤清章(上野清章
生涯成績14戦8勝
獲得賞金2億3112万5200円

黄金の馬編集

1979年4月10日、荻伏牧場(浦河町)に誕生。

幼名は荻伏牧場の北東に聳える神威岳から「神威王」となった。

父は大種牡馬・テスコボーイ、母は「華麗なる一族」中興の祖・イットーという良血で、生まれた時から好馬体の持ち主であった。そのため購買希望者が絶えなかったが、テスコボーイは日高軽種馬農協所有馬のためセリ市への上場義務があった。


10月23日、農協主催のセリ市に上場された。当時、仔馬のセリ市での落札額の日本記録は5000万円だったが日隈広吉により1億8500万円で落札され、「黄金の馬」と呼ばれ、内外の注目を集めた。

後に中村和夫の申し入れにより日隈と中村の共同所有馬となる。


1981年4月3日、伊藤修司厩舎に入り、幼名に日隈の使用する冠名を加えて「ハギノカムイオー」と名付けられた。左前脚の亀裂骨折によりデビューは翌年にずれ込む。


戦歴編集

1982年

1月31日、京都競馬場新馬戦(芝1600m)で伊藤清章騎手を鞍上にデビューし1着。

3月14日、桜草特別(400万下)に出走し1着。

3月28日、皐月賞トライアルスプリングステークスGⅡ)に出走し1着。ハギノカムイオーと競ったサルノキングに騎乗した田原成貴騎手のレース運びへの疑念から「八百長ではないのか」との声が挙がった。

4月18日、皐月賞(GⅠ)に出走。ゲイルスポートに騎乗の加賀武見騎手はハギノカムイオーを敵視し「あいつに競馬の厳しさを心底から教え込んでやる」と公言していた。超ハイペースのゲイルスポートに付いて行った結果失速し、アズマハンターの12着に敗れる。

5月9日、東京優駿トライアルのNHK杯(GⅡ)に出走しアスワンの16着に敗れる。ここでもゲイルスポートに執拗に絡まれた。その後、秋まで荻伏牧場で休養に入った。

10月3日、神戸新聞杯(GⅡ)に出走し1着。

10月24日、菊花賞トライアルの京都新聞杯(GⅡ)に出走し1着。

11月14日、菊花賞(GⅠ)に出走。後続を10馬身以上引き離す大逃げを打ったが第3コーナーで失速し、ホリスキーの14着に敗れる。脚部不安から競走馬総合研究所いわき市)で温泉療養に入る。


1983年

5月15日、スワンステークス(GⅡ)に出走し1着。母イットーとの親子制覇となった。

6月5日、宝塚記念(GⅠ)に出走しレコード勝ちを収めた。

6月26日、高松宮杯(GⅡ)に出走し1着。母イットーとの親子制覇となった。

11月12日、東京競馬場オープン戦(芝1800m)に出走しエイティトウショウの7着に敗れる。

11月27日、ジャパンカップ(GⅠ)に出走しスタネーラの16着に敗れる。

12月25日、小島太騎手に乗り替わって有馬記念(GⅠ)に出走しリードホーユーの16着に敗れる。競走後、引退が発表された。


引退後編集

1984年1月8日、京都競馬場で引退式が行われた。中村和夫が経営するスタリオン中村畜産新ひだか町)で種牡馬となるが、目立った成績を残すことはできなかった。


2000年に種牡馬を引退し、本桐牧場(新ひだか町)で余生を送る。

2013年4月10日、老衰のため死亡(34歳)。


関連タグ編集

競走馬 JRA 華麗なる一族

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