プロフィール
生年月日 | 1987年4月3日 |
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性別 | 牡→セン馬 |
父 | ロイヤルニジンスキー |
母 | レーシンググレイス |
母の父 | プルバン |
通算成績 | JRA40戦10勝/地方9戦2勝 |
父ロイヤルニジンスキー
1977年生まれのニジンスキーの直仔で通算成績は米国で8戦3勝の成績を挙げたが重賞は未勝利。1982年より日本で供用開始され1999年に永眠。代表産駒には1993年の小倉障害ステークスを制したバリモススキーもいるのだがこの馬もセン馬である。ロイヤルニジンスキーの産駒は気性難の仔が多かった。
戦績
(馬齢表記は旧年齢表記)
3歳時(5戦1勝)
1989年10月1日に福島競馬場で開催された芝1200m戦でデビューも9頭立ての9着に終わる。3戦目の未勝利戦で勝ち上がり、福島3歳ステークス2着を経て樅の木賞3着の成績を残している。
4歳時(7戦2勝)
牡馬クラシックとは無縁。自己条件戦を地道に使われ、12月9日に京都競馬場で開催された御池特別では、後に京都記念や京都大賞典を制したオースミロッチを下し1500万条件に昇級している。
5歳時(6戦2勝)
金杯・西(現京都金杯)に格上挑戦したがダイユウサクの9着に敗れるも石清水ステークスと陽春ステークスを連勝。生涯最初で最後のGⅠ出走となった安田記念は勝ち馬ダイイチルビーから0.8秒差の8着だった。以降出走した阪急杯とスワンステークスでは最下位に終わり放牧に出された。ロイヤルニジンスキー産駒特有の気性難などが原因で最終的に去勢された。
6歳時(9戦2勝)
去勢明けで出走した洛陽ステークスこそ4着だったが、復帰3戦目の小倉大賞典を勝利。ようやく重賞ウィナーの仲間入りを果たした。これ以降も京阪杯2着、谷川岳ステークス4着、金鯱賞3着と能力を発揮できるようになり、年末のポートアイランドステークスでは9番人気ながらもキョウエイボーガンに勝利した。
7歳時(10戦2勝)
ある日突然目覚める
「迷優」路線に目覚めたのがこの年である。2年ぶりの金杯・西(1/5開催)は13着に敗れたが…
中4日で連闘の珍記録
次走は連闘で1/10に開催された洛陽ステークスに出走し4着だった。正月開催による変則日程だからこそできた記録ではあるが、以降「あの日」までワイドバトルは1度も連闘での出走はない。
京阪杯までの戦績
関門橋ステークスで勝利。2着のパリスハーリーとはこの後も縁が続くことになった。小倉大賞典3着、中山記念7着、産経大阪杯10着を経て京阪杯を迎えた。
京阪杯
このレースでは再び山田泰誠騎手に乗り替わりとなったが、スタート後に落馬競走中止となった。だが…後方をトボトボついていくどころかやる気スイッチが入ってしまい、向こう正面で逃げるロンシャンボーイを一度は抜き去るも3~4角で控えるという味なレース運びを展開。最後の直線では斜行しているもののロンシャンボーイを捉えて抜き去った。競走中止でなければまさに教科書通りのレースだった。
京阪杯以降
金鯱賞、トパーズステークスと大敗したがポートアイランドステークスを連覇している。
8歳時(JRA3戦1勝)
金杯・西14着後に出走した関門橋ステークスでは再びパリスハーリーを引き連れて連覇を達成も小倉大賞典では最下位に敗れた。以降、休養を経て中津競馬場に移籍した。
9歳時(中津4戦1勝・高知3戦未勝利)
中津競馬在籍時
中津競馬移籍初戦は2月19日に開催された耶馬渓賞だった。JRA在籍時にダート戦を一度も使われたことはなかったが2着と上々のスタートを切り2戦目で地方初勝利を飾った。後に2戦出走し着外。高知競馬場に移籍した。
高知競馬移籍後
初戦のA2一般戦を3着。以降も2着、4着と堅実な成績を挙げている。
10歳時(2戦1勝)
年明け初戦のA2一般戦を制して高知競馬でも勝利した。だが、中9日で臨んだガーネット特別で悲劇は訪れた。9頭立ての3番人気だったが骨折を発症し競走中止。予後不良の診断が下された。
余談
- 現役時代に3度レコードを更新しているレコードブレイカーでもある。
- もう一つの特徴が「メンコ」である。クセの強い馬ではあったが、ちびまる子ちゃんやスヌーピー、鯉のぼりなどのかわいいメンコをつけている姿はギャップ萌えの要素があった。
- 京阪杯で騎乗していた山田泰誠騎手の診断結果は異常なしだった。救急車のモニターでワイドバトルの好走を見て「頑張れ~!」と声援を送っていたいう有名なほのぼの話もある。