概要
小田原組とは、ブラウザゲーム『刀剣乱舞-ONLINE-』に登場する刀剣男士のうち、後北条氏及びその家臣・関係者が所持していたとされる刀剣男士、江雪左文字・山姥切国広・山姥切長義・地蔵行平・日光一文字を中心としたグループタグ。
小田原征伐で後北条氏が滅ぶまでの間に、後北条氏及びその家臣・関係者が所持していたとされる刀剣につけられる。
後北条氏は鎬藤四郎など著名な刀剣乱舞未実装の刀剣を所持していたため、実装された場合は小田原組に含むことになる。
また、武田氏の滅亡後、後北条氏家臣となっていた御宿氏が所持していたとされるソハヤノツルキ、長尾顕長の先代長尾当長が上杉謙信から授かったという説のある小豆長光も、定義上では小田原組に含まれる。
加えて、長らく後北条氏の領内にあり、北条幻庵が別当を務めたこともある箱根神社に伝わる、伝義経奉納の「薄縁丸」を膝丸の集合体の一つと解釈した場合も、上記と同じく定義上では小田原組に含まれる。
上記の通り著名な未実装刀剣が多いため、創作刀剣男士・未実装刀剣男士の作品、長らく実装されていなかった山姥切長義(本作長義)の存在から、創作刀剣男士を含む本科と写しなどの作品が多いことも特徴の一つである。
ゲーム本編での特殊会話などは2018年11月現在山姥切国広・山姥切長義のもの以外実装されていないものの、主家を同じくする刀剣男士のグループとして立項した。
「小田原組」の名称について
他のグループタグならば、前の主や主家に従い後北条組とするのが正しいのかもしれないが、後述の執権北条氏のグループタグと被る可能性を考慮し、後北条氏の別表記である小田原北条氏の名を元に小田原組とした。
執権北条氏が所持した鬼丸国綱・鶴丸国永等を「北条組」と称した場合、「後北条組」では検索に引っかかってしまうという面でも「小田原組」とするのがふさわしいと思われる。
しかし執権北条氏の刀剣男士を「北条組」と称した場合、今度はキーワード検索などで小田原組に関する作品のキャプションに含まれる「北条」の字を拾ってしまう可能性があり、差別化するために執権北条氏の刀剣男士には鎌倉組や執権組という名称を利用することを推奨する。
また、小田原トリオや北条主従は戦国BASARAのグループタグになるので注意が必要。
ちなみに後北条氏は鎌倉時代の執権北条氏との遠縁ではあるものの直接の関わりはほとんどなく、単に相模国の支配の正当性のため、(一説では婚姻を通して)その名跡を継いで「北条」を名乗ったとされる。
歴史的な観点においては、執権北条氏を前北条氏と呼ぶことはない。そのため後北条氏という呼称に異を唱える声もあり、小田原城を拠点としたことから小田原北条氏、戦国大名であったことから戦国北条氏など異称も多い。
余談だが、北条氏政の弟で八王子城主の北条氏照には、武蔵国日野に住む土方某という家臣がおり、この土方某の子孫が土方歳三だと言われている。
実装済刀剣
各キャラクターの解説は該当項目に任せ、ここでは歴史面での伝来に触れる。
江雪左文字
刀帳番号:79/銘 筑州住 左/太刀/国宝
後北条氏の右筆・使僧・評定衆として活躍した、板部岡江雪斎の愛刀。
後に徳川家康に献上され、江雪斎の姪であり家康の側室・養珠院の子である紀州徳川家の祖徳川頼宣の佩刀となり、以降紀州徳川家に伝来する。
刀剣としての来歴は板部岡江雪斎以前のことは不明だが、江雪斎自身は若い頃に三代・北条氏康に右筆に抜擢され家臣として召し抱えられている。
小田原征伐の引き金となった沼田裁定で後北条氏の代表者として豊臣秀吉に面会しており、その時に気に入られ自ら茶を点てもてなされたとされる。
そのせいもあってか小田原征伐後に責任を問われたが、秀吉を前にしても少しも主君を悪く言わなかった忠誠心を気に入られ命を救われ、秀吉の御伽衆(そばに仕えて話し相手になる人)として仕えることになった。
秀吉の死後、家康に仕える息子を頼って家康に仕えた。
余談だが、一説によれば板部岡江雪斎は執権北条氏の末裔だという話もある。
山姥切国広
刀帳番号:95/銘 表:九州日向住国広作、裏:天正十八年庚寅弐月吉日 平顕長/打刀/重要文化財
足利長尾氏の長尾顕長の依頼で打たれた刀。特の姿の時は自身の本歌である山姥切長義を「山姥切」と呼ぶ(現状、極の姿での呼称は不明)。
長尾顕長には、小田原征伐時に足利城に籠城した説と小田原城に参陣して籠城した説があり、また山姥切国広自身にも足利学校で打たれた説と小田原城内で打たれた説がある。
両説はかなり入り乱れているため、どちらかを史実と確定するのはおそらく不可能。
どちらにせよ、銘からして小田原征伐の最中に鍛刀されたことに間違いはない。
山姥切国広は否定しているが、山姥を斬った伝説は山姥切国広にあるという説もあり、その場合は「小田原征伐後、浪人となった北条遺臣の石原某が妻の産んだ子を食らう山姥を斬ったためこの名がついた」とされている。
石原某の後は、関ヶ原の戦いで刀を折ってしまい困っていた井伊家家臣・渥美平八郎に譲られ、以降同家に伝来。
廃刀令により質に入れられ、井伊家臣に買い戻され井伊家に献上、そして井伊家の世話をした旧家臣に与えられたが、この家があまり刀に興味がなかったため、「関東大震災で焼身になった」と戦後に現存が発覚するまで誤認されていた。
その後は国広コレクターであった某氏が虎徹二振りと交換で入手、某氏の死後は別の人物の手に渡り、現在個人蔵。
山姥切国広極も参照のこと。
ソハヤノツルキ
刀帳番号:15/銘 裏:妙純傳持ソハヤノツルキ、表:ウツスナリ/太刀/重要文化財
ソハヤノツルキの伝来のひとつに、御宿氏伝来説がある。御宿氏とは元々今川氏→武田氏の家臣だったが、武田氏滅亡後に後北条氏に身を寄せている。その後小田原征伐で後北条氏が滅ぶと徳川家康に仕え、結城組に含まれるように結城秀康の家臣となった。
大阪の陣の際に大阪方についたことの赦免を願って徳川家康に献上したとされる。
この説を採用した場合、ソハヤノツルキもまた小田原組の刀剣と言える。
小豆長光
刀帳番号:148/銘不明/太刀
上杉謙信の愛刀として名高く、数々の逸話を持つ太刀。
伝来等に謎が多く、名前が変わって伝来している可能性もあり、現在では「小豆長光」がどの刀を指しているのか不明。
ただし2017年3月、小豆長光には、上杉謙信から足利長尾氏に下賜された可能性が示唆された。
長尾家の宝刀「小豆長光」今どこに? 足利の長林寺に写真 - 産経ニュース
曰く、長尾氏の菩提寺である長林寺に、昭和時代に「小豆長光」だとされる刀剣が預けられており、写真まで残っているということである。
この説が正しかった場合、謙信の愛刀と名高い小豆長光が「上杉景勝自筆腰物目録」に載っていないこともあり、上杉景勝の頃には長尾氏に渡っていた可能性もまったくないとは言い切れなくなる。
山姥切長義
刀帳番号:158/銘 本作長義天正十八年庚寅五月三日ニ九州日向住国広銘打天正十四年七月廿一日小田原参府之時従屋形様被下置也長尾新五郎平朝臣顕長所持/打刀/重要文化財
山姥切国広の本歌であるとされる打刀。2018年10月のイベント「特命調査 聚楽第」にて実装。
相伝備前の代表格であり、「長船にありながら最も長船らしくない」と称された長船長義の作。
慣例として「ちょうぎ」と読むことが多いが、「ながよし」と呼んでも間違いではない。これは同名の刀工が多数いるため、呼びわけのために「ちょうぎ」と呼ばれることが多いためである。
長尾顕長が、小田原で北条氏直に面会した際に下賜された刀(※下賜したのは当時隠居とはいえ実権を持っていた北条氏政という説もある)。下賜の意図ははっきりしていないが、当時の後北条氏の敵対大名である上杉・佐竹との戦を見越して味方につけるためだった可能性がある。
元は大太刀であったとされ、大磨上によって打刀となり、銘にあるように天正十八年五月三日に、国広によって銘が入れられた。しかし国広が磨上を行ったか否かは定かではない。
後北条氏、長尾顕長の後は百年ほどの空白期間を経て尾張徳川家に買い取られ、以降同家及び同家の宝物を展示する徳川美術館に伝来・所蔵されている。
なお、刀剣乱舞においては「山姥切長義」とされているものの、文化財登録及び所蔵元の徳川美術館では「尾張徳川家には山姥切伝説を示す史料が伝来していない」ため、「山姥切」とは呼ばれていない。
しかし、後北条氏側に史料が存在しないとも明言されていないため、「小田原征伐までは山姥切と呼ばれていたが、尾張徳川家に買い上げられるまでの間に失われた」という可能性を否定することはできない。
戸隠山で山姥を斬ったとする説があるが、戸隠山は長らく武田氏の領土であったため、実情は不明。
地蔵行平
刀帳番号:184/打刀
刀身に地蔵菩薩の彫り物がある打刀。2020年4月のイベント「特命調査 慶長熊本」にて実装。
公式Twitterの説明文には「地蔵菩薩信仰が盛んだった頃に、地蔵行平は複数本存在したと思われる」とあり、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての豊後国の刀工・行平の刀剣のなかで地蔵菩薩の彫り物があるものの集合体として実装されている。そのためか打刀と太刀の二振りを佩刀しているのが特徴的。
特に知られている地蔵菩薩のある行平の作品は明智光秀伝来のものと高松宮家伝来のものの二つあり、どちらも制作時代から分類上は太刀であるが、刀工行平の特徴として打刀の銘を切る側に銘を切るため打刀として実装されたものと思われる。
また、江雪左文字との回想が実装されている。
明智光秀伝来「地蔵行平」
焼失により現存していない享保名物帳所載の太刀。銘は「行平作」、長さ二尺五寸六分(約97.3cm)。
もと足利義教の所有で、後北条氏二代北条氏綱が地蔵菩薩を彫らせたとされている。
その後経緯不明ながら細川忠興が所有しており、天正九年(1581年)の宮津城での宴の折、細川忠興が正室・ガラシャ(たま)の父である明智光秀に贈った記録が残っている。
その後の経緯は不明だが徳川将軍家にあり、明暦の大火で焼失している。
歌仙兼定や古今伝授の太刀など細川家ゆかりの刀剣と関わりがあるのはこの地蔵行平であり、こちらがベースになっている。
小田原組としては、二代北条氏綱のころから三代北条氏康のころまでは後北条氏が所有している。
高松宮家伝来「地蔵行平」
高松宮家の地蔵行平とされる太刀は、「太刀 豊後国行平作」の名で重要文化財に登録されている。現在は東京国立博物館の所蔵。
銘は「豊後国行平作」、長さ二尺六寸(約98.8cm)であり、明智光秀伝来のものとは別物であることが明確である。
日光一文字
刀帳番号:188/無銘/太刀/国宝
初代北条早雲が日光権現から取り出し、天正十八年に起きた小田原征伐の和睦交渉に尽力した御礼として、五代・北条氏直が後北条氏の宝物である東鑑・北条白貝等とともに黒田官兵衛へと贈った太刀。以降黒田家にて愛蔵される。
山鳥毛と並び、福岡一文字派の最高傑作と名高い国宝の太刀。福岡一文字派の典型作とされる。
小田原組というくくりの中では、初代から五代(最後)まで所有された一番の重宝であり、どの刀剣とも面識があると解釈できる。
ちなみに日光権現というのは現在の日光二荒山神社(祢々切丸の所蔵元)であり、日光東照宮ではない。日光東照宮には日光助真という福岡一文字派から派生した鎌倉一文字派の刀剣が所蔵されている。混同しやすいので注意が必要。
黒田家では東鑑(吾妻鑑)、北条白貝のほかに平家重宝の青山琵琶も贈られている。また、後北条氏頃のものであるという刀箱や小柄・笄という刀装具も現存しているが、舞鶴文入りの黒繻子の刀袋は現存していない。
現在の日光一文字に付属するハバキは江戸時代前期の拵の注文書に基づいて発注されたものと合致するため、この時注文したものが現在でも使用されている。この拵は現存していないが、注文書の記述から現存しないかつてのへし切長谷部の拵と全くお揃いに作られた。
(なお、現在のへし切長谷部の拵は安宅切の拵を本歌とする「金霰鮫打刀拵」である)
現在北条本吾妻鑑と呼ばれる黒田家伝来の東鑑は、黒田官兵衛の嫡子黒田長政によって徳川家康に献上され、現在は国立公文書館に現存しており重要文化財指定を受けている。
北条白貝・青山琵琶はともに福岡市美術館の所蔵で、1990年に福岡市博物館が完成し移管するまでは日光一文字も福岡市美術館に所蔵されていた。
日光一文字の国宝指定には、後北条氏から贈られた時に附属してた葡萄文蒔絵刀箱という刀箱も附属している。この刀箱は安土桃山時代の作風で、今にも蔓が揺らめきそうな写実的な葡萄が箱にまとわりつくようにに大胆に描かれている。刀剣男士・日光一文字の意匠に用いられている葡萄はこの刀箱がモチーフとなっている。
このように、黒田家では付属品も含めて相当丁重に扱われ、現在まで維持・保管されてきた。
刀剣男士・日光一文字の言動は黒田家や福岡一文字派に寄ったものが多いが、後北条氏五代通しての浮ついた逸話の少ない真面目な堅物さ、五代百年にわたり一門内で謀反などが起こらなかった家族仲の良さ、数多の書状に記された「酒は三杯までにしろ(控えめにしろ)」など飲酒をたしなめる逸話など、後北条氏由来の性格を持っている。
未実装刀剣一覧
- 江雪正宗 江雪左文字同様板部岡江雪斎の愛刀。後徳川家康に渡り関ヶ原で佩刀され、明暦の大火で消失したとされる。銘が常と違うため折り紙がつかなかった。
- 鎬藤四郎 織田信長が織田信孝贈り、信孝から北条氏直に渡る。小田原征伐後に黒田如水が買い求め、豊臣秀次に献上。秀次の自害後豊臣秀吉に渡り、秀吉の死後遺品として伊達政宗に渡った。政宗の死後、子の伊達忠宗は遺言通り徳川家光に献上、その後徳川将軍家に伝来し、明暦の大火で消失した。
- 百足切 「むかできり」と読む。後北条氏の伝来で、後に四代・北条氏政の弟北条氏規が藩主となった狭山藩主北条氏に伝来する。
- 蜘手切 「くもてきり」と読む。二代・北条氏綱の差料で、後北条氏が滅んだ際高野山に寄進。その後前田家など大名家を転々とした後、関東大震災で焼身に。
- 祢々切丸・柏太刀・瀬登太刀 日光二荒山神社の御神刀の三口の大太刀。日光権現社は小田原征伐時に後北条氏に与しており、特に柏太刀は討死した後北条氏家臣のものだったという説がある。三口とも現在も同神社の所蔵。