概要
生没年:明治(1901年)34年4月29日~昭和64年(1989年)1月7日
在位:昭和元年(1926年)12月25日~昭和64年(1989年)1月7日
生涯
明治・大正
明治天皇の皇太子・嘉仁親王(後の大正天皇)の第一皇子として生誕。
5月5日に親王の命名式が行われ、名を「裕仁(ひろひと)」、称号を「迪宮(みちのみや)」と名付けられた。名と称号は尚書の「裕乃似民寧」と「允迪厥徳」に由来し、寛容で徳の篤い天皇となってほしい願いがこめられている。
幼少時は学習院に通い、院長の乃木希典の教育を受けた。大正元年(1912年)に立太子とともに皇太子妃の選定が進められ、大正7年(1918年)に久邇宮邦彦王の娘・良子が妃に内定した。
大正10年(1921年)に欧州を歴訪。イギリス国王・ジョージ5世から立憲君主制を学び、第一次世界大戦の戦場跡を視察されて戦争の惨さを目にした。帰国後に20歳になり、病床にある父帝の公務を代行するため摂政に就任。
大正11年(1922年)には台湾やサハリンを視察。大正12年(1923年)9月1日に関東大震災が起こると、15日に被災地を視察。
大正15年(1926年)12月25日、父帝崩御を受け即位。新元号は「昭和」と定められた。
昭和前期
大日本国憲法のもとで天皇は国政を総攬し陸海軍を統御する帝国軍大元帥すると定められていたが、同時に天皇を輔弼すると定められている軍部の暴走を抑えることはついにかなわなかった。中国に駐留する関東軍は昭和3年(1928年)に「張作霖爆殺事件」を起こしたことを皮切りに昭和6年(1931年)には南満州柳条湖付近の鉄道を爆破し、これを口実として満州事変を起こして満州を占拠、これらの軍事行動を正当化するために「満州国」を建国、清国最後の皇帝・愛新覚羅溥儀を満州国皇帝に擁立した。
国際連盟は日本の軍事行動を問題視、「満州国」を日本の傀儡国家とみなした。天皇は国際協調を望んだが、この決定に反発した日本政府は、昭和8年(1933年)は国際連盟の脱退、孤立の道を歩み始めた。
国内でも昭和7年(1932年)には「五・一五事件」が、昭和11年(1936年)には二・二六事件に陸軍の若手将校が率いる部隊が政党政治に反旗を翻したにもかかわらず、「二・二六事件」では陸軍上層部が首謀者である青年将校を支持、天皇は怒りを露にして鎮圧を命じたが、これを契機にして「政党政治」は衰退、軍部が政治を牛耳ることとなり、後に軍主導の政治団体「大政翼賛会」が結成された。
日中戦争から太平洋戦争へ
昭和12年(1937年)、盧溝橋において日本軍と中国国民党革命軍との軍事衝突が勃発(盧溝橋事件)、これを契機に本格的な戦闘へと発展、短期で終わらせるとの目論見は外れ、泥沼の戦争へとなっていった(日中戦争)。この事態にアメリカ合衆国・イギリスとの関係も悪化、日本はアドルフ・ヒトラー率いるドイツ・ムッソリーニ率いるイタリアとの軍事同盟を締結、天皇は国際的孤立を憂慮されたが、事態を打開できず、日米交渉は決裂し開戦。第二次世界大戦(太平洋戦争)に突入することとなり、ヨーロッパでは2000万、アジアでは1000万もの犠牲者を出す惨禍となった。
イタリア・ドイツの降伏後も日本は世界を相手に戦い続けた。日々悪化する戦局のなか、昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲で焼け野原となった市内を視察。5月26日の空襲では宮殿が焼け落ちたが、天皇は宮殿よりも職員の安否を案じた。側近から建設中の松代大本営への移転を提案されたが、国民とともに苦痛を分かち合いたいと述べて頑なに拒んだ。
鈴木貫太郎首相とともに終戦への道のりを努め、昭和20年(1945年)8月14日の御前会議でポツダム宣言受諾を決める終戦のご聖断を下し、8月15日の玉音放送において国民に敗戦が伝えられた。
昭和後期
戦後、アメリカ・イギリス・ソ連・オーストラリア・オランダなど連合国の指導部や世論は天皇を戦争犯罪人にすることを主張。GHQ最高司令官に就いたダグラス・マッカーサーは天皇の処遇を含めた占領政策を講じていたが、天皇という人物を探るため日本政府に天皇との会談を提案。9月27日に天皇が駐日米国大使公邸を訪問する形で両者の会談が実現した。
当初、マッカーサーは天皇が自身の保身を求める内容を話すのではないかと考えていたが、天皇は「戦争の全責任は自分にあり、自分を連合国側に委ねる。どうか国民が上に困らぬようお願いしたい」と述べた。
実際の詳細な会談内容は非公開となっているが、マッカーサーは天皇に対する印象を大きく変え、天皇の発言と考えに感嘆・敬服し、「日本最上の紳士」と称した。
また、マッカーサーは本国政府への報告で仮に天皇を処刑すれば進駐軍に対する日本国民の反発や混乱は大きく、そのために軍政を布いてさらなる増兵が必要になると伝え、日本を反共の防波堤にするべく、天皇を生かすことで占領統治を円滑にすることを決めた。
昭和21年(1946年)の正月、「新日本建設ニ関スル詔書」において「五箇条の御誓文」を重んじられる旨を述べられた。
2月から川崎市を皮切りに全国各地を訪れるご巡幸を始められ、戦争で傷ついた国民を慰め励まされた。
昭和22年(1947年)に「日本国憲法」が施行され、第1条で天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」であると位置づけられ、所謂「象徴天皇」の時代が始まった。
天皇は冷戦の下で戦後復興・高度経済成長を歩む日本とともに新たな皇室象・天皇像に努められ、精力的に各地を巡り、外国を訪問し、訪日された各国首脳とも会談。国民との触れ合いも大事にした。
そして、昭和64年(1989年)1月7日午前6時22分、88歳で崩御。歴代天皇の中では架空の天皇とされる神話・古代を除き、最長の在位にして、最も長寿の多事多難な時代を生きられた天皇となった。大喪の礼の後、東京は多摩の武蔵野陵に埋葬された。
人柄
学者
生物学者として著書・論文がある。学者としては粘菌や貝類、ヒドロ虫を専門とされていたが、日本の植物や海洋生物全般に幅広く精通しておられた。道端に生えている野草一つ一つの名前を大切にされ、「雑草という草はない」という言葉はよく知られている。
和歌山を訪れた際に南方熊楠からご進講を受け、標本をキャラメル箱に入れて献上したが、天皇は南方に好印象を持ち、後に熊楠を偲んだ和歌も詠まれた。
改革
近代化を慮られた陛下は後宮・側室制度を撤廃し、女官の通勤を承認するなど宮中のシステムを改革されたことでも知られる(大正天皇の御世に確立していたとされているが明文化はされていなかった)。
今でも皇室を代表する宮中行事の一つである御田植も昭和天皇が始められたものである。ヨーロッパ訪問の際に味わったオートミールやハムエッグなど、その利便性から我々が今も親しんでいる洋朝食の先鞭をつけた、言わば食文化の改革者と言う側面もある。
趣味
プライベートでは蕎麦好き、好角家としても知られた。自らはゴルフを嗜んだ。
短歌も多く詠み、少なくとも1万首は詠まれ、公表されているものは869首。
鉄道に対する造詣も深く、まだ試運転段階だった100系X0編成へ試乗なさったり、新幹線の運転台を見学した時にそれを大変お気に召され、侍従に時間を告げられても離れなかったとか。
生活も極力質素倹約にされ、戦後に貧しい国民を考えて自身は贅沢な暮らしはできないと述べていた。
家族
弟の秩父宮と高松宮は天皇とは性格がかなり違い、秩父宮は天皇の考えに快く思わないこともあったが、兄弟仲は良く、忌憚ない議論もしていた。秩父宮が肺結核で療養するようになったが、見舞いができなかったことを天皇は悔やんだ。
香淳皇后との夫婦仲は円満で、皇后を「良宮(ながみや)」と呼んでいた。生まれた皇子女は乳母の下ではなくできるかぎり二人の手で育てられた。
皇太子明仁親王(後の今上天皇)が戦時中に奥日光に疎開された時は頻繁に手紙をやり取りし、その中には敗戦の原因についても自身の考えをしたためた。
pixivにて
最長の在位期間を誇るためか、皇室関連のタグの中では現時点で33(2016年11月21日)と数もかなり多い。また、記憶に新しい晩年のお姿だけでなく上記の挿絵のように若き日の軍装や終戦後の行幸姿を描いたものも多く、今も多くの人の心に生き続ける偉人の1人と言える。
その背景としては、「終戦のエンペラー」や「天皇の料理番」などで描かれた人間味溢れる陛下を敬慕する風潮も多い。一方で戦争責任問題に関する非難を一身に受けられた「名君」に対する悲哀の情もあるものと思われる。