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概要編集

1878年(明治11年)7月27日に愛知県で生まれる。陸軍士官学校を次席で卒業し、陸軍大学校在学中に日露戦争が勃発したため中退して従軍し、遼陽会戦に参戦している。終戦後は陸軍大学校に復学して卒業している。


1907年よりへ渡り、孫文に共鳴して辛亥革命に協力している。また、蒋介石とも親交があり、国民党が中国を統一した場合(当時は中国共産党と紛争していた)は日本が承認する代わりに様々な権益を得ることを約束していた。しかし1928年に済南事件、さらに張作霖爆殺事件が勃発し、大日本帝国陸軍内で蒋介石批判が強くなっていく。松井は当時総理大臣だった田中義一と蒋介石を会談して事態の打開を図ると共に爆殺事件の首謀とされた関東軍の処分を求めた。しかし関東軍に押し切られてしまい、あげく事態の打開ができないことに昭和天皇が激怒。結果田中は内閣総辞職のうえ直後に逝去してしまい、破綻してしまった。


松井は1933年に大亜細亜協会を設立し、近衛文麿廣田弘毅などをメンバーに加え「欧米諸国に干渉されないアジア人のためのアジア」を実現するため日中関係の改善および強化を訴えている。しかし先述の会談破綻で日本に不信感を持った蒋介石がアメリカに接近し、リットン調査団の報告も受け入れるなど関係は悪化し、1937年の盧溝橋事件を機に日中戦争が勃発してしまった。松井は同年12月の南京陥落を機に再度蒋介石との和平交渉を図ろうとしたが総理大臣となった近衛文麿が「蒋介石を対手とせず」と宣言(要は「蒋介石の国民政府を潰して日本主導で新政府を作る」という意味)したことで松井の目論見は潰れたばかりか陸軍首脳から「松井は中国と通じているのでは」という疑いをかけられ、翌年2月に帰国させられ予備役とされた。


太平洋戦争が勃発すると大東亜共栄圏の国外視察を行なったのみで、病に臥せていたこともあり目立った活動は行っていなかった。太平洋戦争が終戦した1946年3月にGHQによって収監され、A級戦犯として東京裁判に諮られ、7人の死刑囚の1人となり、1948年12月23日に他6人の死刑囚と共に巣鴨プリズンで処刑された。70歳没。


松井の訴因について編集

先述の通り松井はA級戦犯として裁判を受けたが、松井以外の被告の訴因である「済南事件から太平洋戦争までの侵略戦争に対する共通の計画謀議」「満洲事変以後の対中華民国への不当な戦争行為」「アメリカイギリスフランスオランダに対しての侵略戦争」のいずれにも該当せず、唯一A級としての訴因が「太平洋戦争中の捕虜及び一般人に対する条約遵守の責任無視による戦争法規違反」であった。しかし先述の通り太平洋戦争中は予備役でほとんど関与しておらず、これも疑問視が持たれていた。


そして実際裁判が始まるとA級としての本来の訴因と関係のない「南京陥落時に発生した南京事件の首謀者」として審理が行わた。松井は南京事件について反論したが聞き入れられず、「南京市民を保護する義務と権限を持っていたがその履行を怠った結果、多くの市民を虐殺した」という理由で死刑判決を受けた。つまり松井は「A級戦犯として裁かれておらず、B級またはC級戦犯として裁かれた」として「A級戦犯としては無罪だった」という主張が行われることがある。尤も扱いは他のA級戦犯者と同じで、処刑も同時であったことからA級戦犯相当とされている。


南京事件について編集

先述の通り松井は日中戦争における南京事件の責任を問われたが、これについて異説がある。


松井は上海攻略後に南京を攻略するために兵を進めたが、途中マラリアに感染し、蘇州の司令部に病臥で床につくとともに兵に休息の指示を出した。しかし松井の指揮系統下にない第10軍がこれを無視して南京へ侵攻。1937年12月13日に南京は陥落したが、松井はマラリアに罹った状態のためすぐに向かうことができず、南京に入城したのは4日の12月17日である。さらに虐殺や侵略行為があったことを知ると日本軍の中国人捕虜への扱いが人道的でなかったことや武士道が失ったことを嘆いた一方で、虐殺が大虐殺であったことは終戦後に知ったと松井は主張している。このことからもし松井が病臥につかず南京攻略時に指揮をとっていたら南京事件は起きなかっただろうと言われている。


実際東京裁判では南京事件の死者数が下方修正され、さらに代表検事だったジョセフ・キーナンも廣田弘毅の死刑判決と重光葵の有罪判決と共に松井の死刑判決を「馬鹿げた判決だ、松井は平和主義者でどんなに厳しくても終身刑だろう」と批判している。蒋介石も1966年に大亜細亜協会編集責任者であった田中正明との対談で「南京事件はあったとしても終戦後それ以上の虐殺行為があった」「(松井が)冤罪で刑死せしめた悔恨の情がある」と悔やんでいたと田中が述べている。一方中国共産党は南京事件を南京大虐殺としてプロパカンダに利用し、松井の刑死が証拠であると主張している(尤も南京事件とは比較にならない犠牲者を出した大躍進政策文化大革命そんなものはないとしている方々であることを留意すること)。


先述の通り松井は南京事件について反論した一方で道義上の責任を感じて死刑判決を受け入れる姿勢を見せ、判決後は「せっかくこうなったのだからこのまま往生したい」と述べている。

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