太平洋戦争
たいへいようせんそう
1.の概要
1879年から1884年にかけての南アメリカにおけるボリビア・ペルーとチリとの戦争。原因となった鉱石から硝石戦争とも呼ばれる。
ボリビアとペルーがチリに敗れる形で終わり、当時南米の地域大国であったペルーの没落と南米ABC三大国の台頭を招き、現在に至るまで大きな影響を及ぼしている。
2.の概要
第二次世界大戦での大日本帝国と米・英・蘭・豪・中などの連合国との戦争。
ただし、この名称はPacific Warの訳語であって、日中戦争を含めた「大東亜戦争」とイコールではない(大東亜戦争は現代では「アジア・太平洋戦争」とも呼ばれる)。
太平洋戦争(日米戦争)は、政治・外交・経済・軍事・技術・文化といった、人間社会の色々な要素が絡まりあって起こった。
そのうち一番大きいのは、文化の相違である。ヨーロッパの「法」に基づく契約社会の個人主義・自由主義・民主主義を重視する近代文化と、東洋日本の何千年と伝統のある文化が衝突して戦争が起こったというのが、太平洋戦争の一番の底流となっている。
また外交・軍事面の原因としては、ドイツとの関係、日本の石油問題、そして開戦直前の日米の外交交渉の3点が、戦争に至った理由として挙げられる。
前夜
世界恐慌によって経済が疲弊した日本では議会政治が行き詰まり軍部が台頭。勢力拡大を図って関東軍が昭和6年に満州で満州事変を起こし満洲国を建国した。これを機に日本と中国は対立を深め、中国大陸への権益拡大を目論んでいたアメリカにも対日警戒心を呼び起こした。昭和12年(1937年)には戦闘は中国本土にも飛び火し、日中は宣戦布告なき戦闘状態に陥った(日支事変)。
ヨーロッパでは、ヒトラー率いるナチスドイツが昭和14年(1939年)にポーランドへ侵攻し、英仏の対独宣戦布告で第二次大戦が勃発。翌年には日独伊は共通の対立国である米英ソへの牽制と戦争抑止になるとして枢軸同盟を締結したが、返って両者の対立関係を悪化させることとなった。
開戦
欧米の対中支援「援蒋ルート」を断ち、またさらなる資源獲得を目的に日本は仏領インドシナ北部(北部仏印)への進駐を実施した。これまで中立外交を貫いたルーズベルトのアメリカも満州や太平洋の権益の障害になると察知し、対日石油輸出制限を発動。またチャーチルのイギリスもアメリカの介入を望んで昭和16年(1941年)に大西洋憲章を掲げた。
アメリカは日本に中国撤退を迫ったが、「満蒙は日本の生命線」として大陸進出に固執した日本はこれを一切受け入れず日米交渉は難航。また、日本の主な石油輸入元であったオランダ領東インド(蘭印)との交渉(蘭印会商)も、本国が占領された蘭印の足下を見た日本側の恫喝的な態度によって蘭印側の反発を呼び、オランダに同情的な連合国側に日本の悪印象を大いに広めることになる。
7月、日本は仏領インドシナ南部(南部仏印)への武力進駐を決定する。蘭印を攻略するために飛行場と港湾を確保するのが狙いであった。これを受け、日本の東南アジア征服の企てが確定的となったと判断したアメリカは対日石油輸出禁止を決定し、さらに在米の日本資産を凍結。イギリスもこれに同調した(日本ではこれを米英中蘭による対日経済制裁「ABCD包囲網」と呼んだ)。
このような強硬な制裁措置は、アメリカ側が「日本は米国とは戦争はできない。強力な経済制裁により日本を屈服させるしかない」と信じていたからであったが、日本の政策当局者は英米の強硬な反応に茫然自失となり、「石油禁輸を断行されれば、国家の生存のためいかなる手段を講じても南方油田を確保するよりほかない」と考え、対米開戦への道は決定的となった。
またソ連との日ソ不可侵条約締結と独ソ戦の開始もあって、北側の脅威は幾分か軽減し、心置きなく南進できる状態となっていた。
日米交渉を続けていた近衛文麿は内閣を辞職し、東條英機内閣が発足して日米交渉を引き継いだが、アメリカ側からの「ハルノート」手交を受け、日本は予てより計画していた対米攻撃を実行した。
昭和16年(1941年)12月8日、日本軍は真珠湾攻撃をはじめとするハワイ海戦とマレー侵攻を皮きりに米英と開戦。主に太平洋と東南アジアで戦闘が始まった。
経過
初戦は日本優勢で、日本軍はイギリス支配下の香港・シンガポール・ビルマ・マレーシアやアメリカ支配下のフィリピン、オランダ植民地のインドネシアなどを次々と占領。日本はアジアの欧米による植民地解放と独立を名目とした「大東亜共栄圏」を掲げ、占領地には軍政を敷くか現地親日派政権を打ち立てた。しかしこれにより戦線はアジア太平洋一帯に広がってしまい、艦隊決戦に特化した日本海軍に、広大な占領地を保持するための海上護衛戦の能力は残されていなかった。
緒戦の大勝利に浮かれる連合艦隊は、昭和17年(1942年)6月のミッドウェー海戦でアメリカ海軍に予想外の大敗北を喫し、多くの空母と戦闘機にベテランパイロットを失った。これを境に戦局は変化。アッツ島守備隊の玉砕、ガダルカナル・サイパン・第三次ソロモン海戦など、伸び切った戦線の各地で連合軍に押され、孤立した離島の守備隊が各個撃破されて玉砕していく悲劇が繰り返されることになる。
昭和19年(1944年)、日本陸軍が実施したインド攻略を目指したインパール作戦は2万人以上の死者を出し大失敗に終わった。また同年海軍もマリアナ沖海戦とレイテ沖海戦で一方的な敗戦を喫し、連合艦隊の主力は事実上壊滅。マリアナ・パラオ諸島が米軍の手に落ち、日本本土は空襲の脅威にさらされることになる。
末期
昭和19年10月頃から、圧倒的に不利な戦況の中で勝利への道筋を見失った陸海軍は、将兵に自殺攻撃を強いる特攻作戦を行うようになった。特攻攻撃で陸海軍合わせて1万4000人以上の兵士が戦死した。
昭和20年(1945年)に入ると、いよいよ日本本土に連合国軍の上陸を許す事態となった。2月には硫黄島の戦いで両軍で多大な戦死者を出し、4月には沖縄に米軍が上陸し、沖縄戦では多くの沖縄県民が犠牲になった。
この時既に連合艦隊は壊滅しており、海軍は活躍場所の無くなった戦艦大和を沖縄へ特攻させ撃沈に追い込んだ。陸海軍は本土決戦の体制を整え一億玉砕が叫ばれた。日本近海には飢餓作戦で機雷が投下され、内航海運は麻痺状態になっていた。
このように敗戦必至の情勢が続いていたにも関わらず、連合国軍が日本降伏後の皇室存続を保障するか否かが不明であったために降伏の決断は遅れ、日本は無為に犠牲を重ねていくことになる。
3月10日の東京大空襲で東京が焼け野原になり、続いて本土の多くの都市が空襲や艦砲射撃などで破壊された。8月6日に広島市、8月9日に長崎市に史上初の原爆が落とされ、甚大な被害となった。8月9日にはスターリンのソ連も日ソ中立条約を一方的に破棄して対日参戦し満州に侵攻。
降伏
ソ連の参戦で、それまで日本が期待していたソ連の仲介による講和の望みが断たれたことから鈴木貫太郎首相はポツダム宣言の受諾を決定し、8月14日に御前会議で昭和天皇の終戦大詔が下り、8月15日に玉音放送で国民に降伏が伝えられ対米英戦闘は終了したが、ソ連軍が樺太・千島列島への侵攻を続けたため、樺太や占守島ではこの後も激しい戦闘が続いた。
最終的には、9月2日に戦艦ミズーリ号甲板で降伏文書が調印された。
日本の被害
戦死者・・・約230万人
民間人死者・・・約80万人
焼失家屋・・・230万戸(約1000万人が被災)
沈没商船(100総トン以上)・・・2568隻(保有船腹の88%を喪失)
喪失した文化遺産・・・名古屋城・和歌山城・岡山城・福山城・広島城・首里城など城郭をはじめ国宝級文化遺産多数が消失
なお、外国人に関して言えばアメリカ軍人11万人が死亡したほか、アジア諸国民は戦闘に巻き込まれた民間人を中心に数百万人が死亡する被害を受けている。
太平洋戦争では上記のとおり日本商船の88%が沈没しているが、海軍の軍艦の喪失率も似たようなもので、終戦時に日本で作戦行動可能な大型艦は長門・鳳翔・葛城・酒匂の4隻のみ(駆逐艦や潜水艦、小型艦艇、特務艦艇も含めるともう少し生き残っている)、あとは全て沈没するか大破した状態であった。また残存艦艇も動かせる重油がなく浮き砲台化しており、航路は機雷でふさがれて通れない状態になっていた。