ルノー(Renaud, Renault)とは
pixivでは2.の意味で使用される事がほとんどである。
発音について
フランス語は基本的につづりと発音が完全に一致する言葉であるが、Rで表す音は英語の巻き舌の音ではない。具体的には英語のRの音が日本人にはLの音に聞こえるのに対し、この音はLの音には聞こえず、多くの場合、日本人の耳には不明瞭なHの音に聞こえるが、喉の奥から息を吐き出すところが同じであるものの、摩擦音が入っているところが異なる。
ちなみに摩擦音を伴わないいわゆるHの音は一般的にフランス人には聞き取れない。また、Rに続くeの音はきわめてあいまいな弱音を表し、日本語ではう音に近いが[う]や[お]のように唇が狭まらないあいまい音となる。
従ってフランス語圏での発音に一番近いカタカナ表記は「フノー」、あるいは(auが表す音は日本語のお音より唇が狭まらない[お]であって長さにはよらない)場合により「フノ」である。
しかしながら正確にはHの音でもくちびるを閉じて強く息を吐き出すFの音でもないため、[フ]を当てるとすると、逆に日本語のふ音により近いfeでつづる音との区別がつかない。また、表記のRは一般的にラ行に当てるので、「ルノー」と表記されている。
「ルノー」という名の人物
実在の人物
- ルイ・ルノー … フランスの自動車製造会社「ルノー」の設立者。
架空の人物
- ゲーム『アンジェリーク魔恋の六騎士』の登場人物 → ルノー(アンジェリーク)
- 漫画『原獣文書』の登場人物 → ルノー(原獣文書)
- the_wonderful_101の登場人物 → ジャン・セバスチャン=ルノー
自動車製造会社の「ルノー」
フランスのパリに本社を置く自動車製造会社。事実上の子会社の日産自動車などを含めると、現状ではヨーロッパ最大の自動車会社であるとされる。なお、フランス政府が株式の約15%を保有している。
安全性
市販車で初の四輪ディスクブレーキ採用など、古くから安全性の向上に力を入れている会社である(ヘラジカとの衝突を開発段階から考慮して乗用車を作っていたボルボ並みに)。
また、運転中の危険回避を補助するESP(エレクトロニック・スタビリティー・プログラム)を積極的に採用し、自動車衝突安全性テスト「ユーロNCAP」において、モデュス、クリオ、メガーヌ、メガーヌ・グラスルーフ・カブリオレ、セニック、ラグナ、エスパス、ヴェルサティス、コレオスの8車種が5つ星の評価を得ており、これは当時の世界の自動車会社中最多を誇った。
子会社等
この会社は韓国のルノーサムスン自動車(サムスンが1994年に日産自動車の技術提供を受けて会社を立ち上げたものの、経済危機により倒産、買収される)、ルーマニアのダチア(1966年設立、ルノー車のノックダウン生産や独自開発車両の生産を行ったが、ルーマニア革命の影響で破たん、買収される)、ロシアのAutoVAZ(ロシア最大の自動車メーカー。1966年にフィアットの協力で設立。2008年以降の不振により買収される)の株式を保有し、これらを傘下に収めている。また日本の日産自動車と「ルノー=日産アライアンス」を株持ち合いにより構築、ただし、フランスの国内法の制限により日産は議決権を行使できないため、この会社が事実上傘下に収めている。これらの傘下に収めたグループ企業を含めると、2011年度の新車販売台数の実績では、日本のトヨタグループを抜いて、アメリカのゼネラルモーターズとドイツのフォルクスワーゲングループに次いで世界第3位の規模の会社となる。
1979年にアメリカンモーターズ(AMC)を買収したものの、1987年にクライスラーに売却。
また1993年には当時自動車メーカーであったスウェーデンのボルボと経営統合の予定であったが、破談、結局ボルボは1999年にフォードモーターに乗用車部門を売却、2002年にルノー・ビークル・インダストリーをボルボに株式を交換する形で売却、2012年にボルボ株式はすべて売却された。
会社の略歴
1898年、フランス人技術者のルイ・ルノー(Louis Renault1877-1944)とその兄弟によって「ルノー・フレール(意味は「ルノー兄弟」)」社として設立され、翌年「ヴォワチュレット」(発明されたプロペラシャフト式フロントエンジン・リアドライブ方式の原型である「ダイレクト・ドライブ・システム」を搭載した車両)発表。1908年には馬車の代替としてのタクシー用として8CV(1060㏄、2気筒の小型車)を採用(これに関しては第一次世界大戦の際、ドイツ国境にこの車をドライバーごと運用し兵士を輸送、フランス本国を防衛したという、マルヌのタクシー Taxi de la Marneという逸話が存在する)。
1910年には日本への輸出を行ったり、1914年にはロシアに工場を建てたりした。第一次世界大戦においてはルノーFT-17などの戦車や装甲車、そしてトラックなども製造した。
そして1922年、株式会社化。しかし戦争の反動による需要減や、戦略の失敗(多様なバリエーションを少数生産するという手法や、古臭い設計など)により、イギリスやドイツなどの海外メーカー、そしてプジョーやシトロエンといったメーカーに後れを取ることになった。なお、1933年にコーデュロンという会社を買収し、航空機を製造していた。
そして第二次世界大戦が勃発すると工場を守るためナチス・ドイツ配下であるヴィシー政権に協力するも、そのためにイギリス軍およびアメリカ軍により主力工場が破壊されたり、フランス解放の際ルイ・ルノーが逮捕され獄中で死亡したりした。
大戦終了後、シャルル・ド・ゴールにより国有化されることになる。しかし、その翌年、4CV(フォルクスワーゲンタイプ1を参考として国民車として製造された自動車、750㏄クラスの水冷直列4気筒を搭載した4人乗り。1961年まで製造され1,105,547台作られたとされる。また日野自動車がこの車をライセンス生産した)を発表し、会社を大きく盛り立てた。1956年には商用車専門をSaviem社として分離、のちのルノーV.I(現在この会社はトラックから軍事産業まで行うボルボ配下のルノートラック)において大型トラックや軍用車両の生産を行うことになる。
その後小型車(ルノー4)や中型車(ルノー12)を中心に開発を行い、大いにそれは成功した。1962年に4輪ディスク・ブレーキを搭載した小型車であるルノー8を発売した。また、1965年に発表された中型車ルノー16は1979年まで製造されるくらいの大ヒットとなった。
1979年にアメリカンモーターズを買収し、アメリカ市場に打って出るも、ここでは小型車はあまり受けなかったことや1980年代の不調もあり、会社をクライスラーに売却し、終了(その後クライスラーは買収先のAMCが作っていたジープチェロキーによって一山あてた)。
アメリカ市場の不調と大きなヒットが出ない(1982年にはミニバンの「エスパス」を出してそこそこヒットした)ことにより、会社は傾いていた。そのためこの会社は民営化を目指すこととなったものの、その道は容易ではなかった。まず1986年に当時の会長が暗殺されたり、1990年に当時乗用車を製造していたスウェーデンの会社ボルボと経営統合しようとするが、これも当時株主であったフランス政府の横やりにより破綻。しかしフランス政府も株式を売り続け、結局1996年に民営化された。
1999年に当時深刻な状況にあった日産自動車を株式持ち合いの形で買収、当時副社長であったカルロス・ゴーンを社長として送り込み、会社の整理統合やブランドの一身により立て直した。このころより海外各社の買収に力を入れ始める。
現在は主に中小の乗用車や商用車を手掛け、今日では、PSA・プジョーシトロエン(プジョーやシトロエンなどを所有する持ち株会社)と並び、フランスの二大自動車企業の一角を占め、先進的なデザインと優れた安全性能、高品質が高い評価を受け、1998年以降2004年まで連続でヨーロッパ第1位の販売台数を維持した。
生産販売
拠点
2006年現在、ルノー本体としては本国フランスのほかにスペイン、スロベニア、トルコ(オヤック・ルノー、トルコの退役軍人支援・年金運用組織との合弁事業)、ブラジル、アルゼンチン、コロンビア、モロッコなど世界各国に生産拠点を持つほか、ロシアやポルトガル、マレーシア、ウルグアイ、チリ、イランで組み立て(ノックダウン生産、他国や他企業で生産された製品の主要部品を輸入し現地製造及び販売を行う形式)を行っている。インドでの組み立ては(マヒンドラ&マヒンドラと合弁会社を作ったものの、のちにインドの会社の完全子会社になった)破談。中華人民共和国での生産計画もあるが、これも行く先は不明。
日本での販売
日本市場参入
日露戦争後の1910年に、東京に本社を置く商社・水嶋商会を販売代理店として正式に日本市場に参入した。また1930年代には中外ルノーという会社が輸入業務を行っていた時期があった。
その後1953年から1963年まで、日野自動車が「4CV」を日野ルノーとしてライセンス生産し、多数がタクシーとして使用されたことから「亀の子ルノー」と呼ばれて大衆にも親しまれ、ルノーの名は日本全国に広まった。
そして1977年に東京日産グループのキャピタル企業が輸入権を獲得し、ルノー・5などを輸入した。1983年にはミニなどを輸入していた「日英自動車」も加わり、輸入権は2社体制となった。
1986年には当時フィアット車を輸入していた「ジヤクス・カーセールス(JAX)」 が輸入権を獲得したものの、1991年にドイツのフォルクスワーゲンがヤナセの販売撤退で穴があいた東京地区のディーラー網を獲得するためにJAXを買収したため、ルノーの輸入は宙に浮くこととなる。
1993年、当時独立系インポーター最大手だったヤナセが子会社「フランス・モーターズ」を設立したものの、競合車種の多いオペルとの兼ね合いによりディーラー網を統一できず、またトゥインゴなどの利幅の低い低価格車しか売れなかった。結果的に、これは親会社であるヤナセの経営を圧迫する原因にもなってしまった。
このように日本において輸入代理店が次々と変わった結果、既存の所有者に対して満足な購入後のサービスをすることができないばかりか、新規顧客獲得のための継続的な宣伝活動も出来ない状態に陥ってしまった。
2000年、日本での販売を加速すべく初のルノーの100%子会社である「ルノー・ジャポン」が設立され、ルノーのアジア太平洋統括本部のもとで日本国内での輸入販売業務が強化されたが、ルノー本社のリストラが行われたことを受けて、同社は2007年に日産の子会社「日産トレーディング」に業務移管され、同社の一部門とされた。なおその後も「ルノー・ジャポン」のブランドは継続して使用された。
その後、ルノー車の販売実績が上向きになり始めてきたことからルノー・ジャポンを再分離させることとなり、2012年4月2日より日産自動車の完全子会社として「ルノー・ジャポン株式会社」(RENAULT JAPON CO.,LTD.)が再スタートすることとなった。