石田三成(史実)
生涯
- 生誕:永禄3年(1560年)
- 死没:慶長5年10月1日(1600年11月6日)
永禄3年(1560年)に近江(滋賀県)で石田正継の次男(三男とも)として生まれる。幼名は佐吉。
元は近江で寺小姓をしていたが、羽柴秀吉にその才を見出されて配下となる。
後に豊臣政権が発足すると五奉行の一人に抜擢される。
秀吉の九州征伐では二十万とされる兵士の輜重を大過なく運営するなど内政面の手腕に長けていて、
『鋭利なる吏僚』と呼ばれた。
太閤検地の推進に務め、朝鮮出兵では朝鮮半島まで渡海。
秀吉没後、五大老筆頭の徳川家康と対立し、雌雄を決するべくついに「関ヶ原の戦い」に臨むも、敗走。「関ヶ原の戦い」後は敗走するが追捕隊に捕縛され、六条河原で斬首された。享年41。
なお勘違いされがちであるが、関ヶ原の戦いにおける西軍の総大将は石田三成ではなく、毛利輝元である。
ただし、これは大大名である毛利家に配慮したものであり、実際に挙兵を主導したのは三成とされる。実際、輝元は当時大坂城にいて関ヶ原には出陣していない。
人物
内政の手腕には特に優れ、豊臣政権による五奉行として強い権勢を振るった人物。
主君に対しては誠意を持って仕え、部下に対しては人を遇する道を知っていたとされる。
また、領地でも善政を敷き、領民にも強く慕われていた(まぁ、当時の時代は基本的に名のある大名は自国民には慕われていたが)。
日本では合戦時において、民衆を巻き込まないことが掟とされ、戦国時代も例外ではなかったが、中には“合戦の間の気晴らし”として近隣の農村に押し入り、食糧や資財の略奪や婦女暴行などを行う者もおり、三成はこうした無辜の弱者への横暴を働いた部下を厳しく罰し、さらに法度まで設けて諫めたといわれる。
だが、毛利・上杉・島津などの大大名も秀吉への取り成しは自身を通じる形に行っていた為か、秀吉が権力を強めていくにつれて、三成も次第に傲慢な考え方に陥っていったとされており、豊臣家への忠義の為には、秀吉の意向に背く行動に出る事さえあったとされている。
上司や部下など、身内に対しては誠意を持って当たった一方、それ以外の多くの人物に対してはいささか配慮に欠けた態度が目立っていたらしく、その差の目立つ態度故に、特に福島正則や加藤清正からは反感を買い、嫌われていた。
後に関ヶ原の戦いで雌雄を決する徳川家康の事は、彼が秀吉の臣下になった当初より酷く嫌っていたとされており、その臣下達に対しても目くじらを立てる傾向があったらしく、嫌われていた。また、家康を庇おうとし、朝鮮出兵にも明確に反意を見せていた浅野長政の事も嫌悪していたらしく、後に五奉行・五大老の合議制が設けられ、秀吉が没した後は、同じ五奉行であった長政だけを除いた五奉行達の間で起請文を交しており、これは秀吉が生前に言っていた「徒党を組んではならない」という遺命に反する行動で、後に家康が無断で大名同士の婚姻を結ぶ遠因になっているともされている。
ただ、定説に言われるような「武断派と文治派の対立」「朝鮮出兵を行った武将との対立」と言ったものは無く、豊臣秀次、小早川秀秋を讒言によって貶めたと言う説も以前は存在したが、現在ではほぼ否定されている。
三成と諸将の対立は、彼自身の人柄も無関係とは言わないが、それ以上に「秀吉の家臣筆頭」であった三成派と「秀吉亡き後最も有力な大名」であった家康派の、政治的な対立と言った趣が強い。
現在の印象としては「生真面目だが、それゆえに嫌われ者」「秀吉に対する忠義心は厚い」とされるが、こういった印象は江戸時代に作られ、司馬遼太郎の小説によって形成されたイメージが強い。ここまでに触れた定説の多くや、後述する逸話の数々の多くに創作が混じっている。
加えて、豊臣政権の筆頭内政官と言う立場上、どこまでが秀吉の意向で、どこまでが三成の独断なのかわかりにくい。その知名度に比して、実の所案外実態が見えにくい人物であったりする。
近年特に研究が進んでいる人物であるため、今後の研究の成果が期待される。
ちなみに、額が出っ張っていたらしく、周りから「才槌頭」と言われていたらしい。
また、かなりの倹約家だったようで、関ヶ原の合戦の3日後に居城の佐和山城が落城した後に、城に乗り込んだ小早川秀秋、脇坂安治らの武将は、19万石の大名で秀吉に寵遇された三成の城は、さぞかし豪勢で私財を貯えているだろうと期待していたが、壁は板張りで上塗りされずむき出しのままで、庭には風情のある植木もなく手水鉢は粗末な石、金銀は少しもなく、あまりの質素さに驚いたという。
逸話
この時代の多くの武将同様に、創作の逸話が非常に多い。
三杯の茶(三献茶)
鷹狩りの帰りにのどの渇きを覚えた秀吉が近江国長浜の観音寺(伊香郡古橋村の三珠院という説もあり)に立ち寄り、寺小姓に茶を所望した際、最初に大振りの茶碗にぬるめの茶を、次に一杯目よりやや小さい茶碗にやや熱めの茶を、最後に小振りの茶碗に熱い茶を出した。
まずぬるめの茶で喉の渇きを鎮めさせ、後の熱い茶を充分味わわせようとする寺小姓の細やかな心遣いに感じ入った秀吉は彼を連れ帰り、それが後の三成であったとされる逸話。
三成の逸話としては非常に有名であるが、創作である可能性が非常に高いとされている。
大谷吉継
大人数の茶席で茶碗を回し飲みしていた際、大谷吉継が口をつけた(または茶の中に膿が落ちた)茶碗を誰も飲むのを嫌がって、次の人へ回して行ったが、三成はためらわず茶を飲み干した。
この時以来二人は強い友情を持ったといわれる。
これまた有名ではあるが、「大谷吉継はハンセン氏病ではなかった可能性が高い」「そもそもこの逸話は、初出では三成ではなく秀吉が登場していた」など、複数の観点から創作の可能性が高いとされている。
島左近
筒井家から出奔した島左近を部下として射止めた際、当時まだ出世街道駆け出しであった三成は自身の俸禄4万石の内の2万石を与えるという、破格の待遇で左近を手中に収める。
その後、二人三脚で出生街道を突き進み有力大名となった三成は、左近の俸禄を30万に引き上げようとしたが、左近は『自分はあなたの心意気に惚れて仕えている』といい、その申し出を断ったとされる。
なお、この逸話の真偽ついては不明な点も多いものの、三成が左近を重用したことは事実であり、左近もまた関ヶ原の戦いでは三成の敗走を助けるべく、東軍へ特攻を仕掛けて散っている。
また、三成の悪癖である「相手を見かけで判断するクセ」をたしなめる役も担っていたという。
似たような話ではあるが、三成がまだ500石の俸禄の折に、柴田勝家、豊臣秀吉からの仕官の誘いも蹴った渡辺勘兵衛新之丞を召し抱えた。それに驚いた秀吉がどうやって雇えたのか聞いたところ、「500石、すべて彼に与えました。今では私が彼に養われております」と答えたという話もある。もっともこの契約には、将来、三成が100万石を所有する折には10万石を与えるという約束もしていたという。
その後、三成は俸禄も増えたので、何時までも500石という訳にはいかないだろうと勘兵衛の俸禄を上げようとしたが、彼は三成が100万石の大名になった折に10万石を頂くので今はいらないと固辞し続けたと言う。
真田信之
信之の叔母は三成の妻であり、二人は懇意の仲で手紙のやり取りが多く、信之は手紙を寝ずの番を付けてまで保管していた。後に明治に入った頃、真田家伝来の家康拝領の短刀が入っていると思われていた長持に、信之宛の三成からの書状など、真田家にとって不利になる危険な機密書類が納められていた事実が判明し、長野県「真田宝物館」に保存されているという。ただ、特に隠す事なく普通に整理されていたとも言われる。
詳細については真田信之の項に詳しい。
佐和山
三成治下の佐和山はその善政によって民は豊かになり、「三成に過ぎたるものがふたつあり。島の左近 (島左近)と佐和山の城」と言われるほどだった。 ちなみに三成の善政を示すものとして、古橋の領民が凶作で苦しんでいたとき、三成は年貢を免訴して領民を助けたり、様々な法令を制定して領内を整備するなどの手腕を発揮している。三成が関ヶ原で敗れ、その後処刑されたことを知った佐和山の民衆は三成の死を悲しみ地蔵を作ったという(亡くなる以前に作られ、彼が念持仏としていたとも言われる)。
この地蔵は「石田地蔵尊」と呼ばれ、現在も彦根城のそばにある浄土宗の寺院・宗安寺に安置されている。
また、領民が三成を慕っていた為、彼の後に領主となった井伊直政は、敗将となった三成を処刑直前まで手厚く保護し、三成の統治法を踏襲すると領民に伝え、三成を弔うことも黙認したという。
戦略眼
明治の頃に来日し、陸軍大学の教官となり、日本の参謀本部を作ったドイツ参謀本部の将校クレメンス・W・J・メッケル少佐は、関ヶ原の戦いでの東軍と西軍の陣の配置図を見て、「どちらが勝った戦だと思いますか?」と聞かれた時、迷わず西軍を指したが違っていたことに大変驚いたという逸話。三成が武略に劣っていなかった事を示す逸話とされている。
現在では司馬遼太郎の創作として知られる。司馬自身は創作と考えていなかったと言う話もあり、何らかの資料に当たった結果、こうした逸話を知った可能性も有るが、その「何らかの資料」が不明であるため、推測の域を出ない。
また、関ヶ原の趨勢には小早川秀秋(以前は裏切り説が有力だった。現在は最初から東軍とされ、そもそも秀秋の布陣地には毛利輝元が布陣するはずだった)や、吉川広家(東軍に内通していた)の動向が大きく影響を与えたため、これを西軍として扱っていれば、西軍の勝利を確信するのは当然であり、布陣図だけを見て勝敗を判断する事にあまり意味はない。
加えて、実際に関ヶ原の戦いは三成が負けている訳で、仮にメッケルが説明を受けていたとしても「三成に武略があった」と言うよりは「メッケルに武略がなかった」と言う話にしかならない。
大将の器
三成が斬首される前、家康は捕虜となった三成を呼び出し、「どのような武将でもこういうことは昔からあることだ。恥じることはない」
と言って慰めたが、三成は臆した様子もなく、いかにも打ち解けた様子で
「ただ天運によってこうなったのであるから、さっさと首をはねてくだされ」
と語り、それを聞いた家康は
「三成は流石に大将の器量がある。源頼朝に助命嘆願した平宗盛とは違うな」
と感嘆したといわれ、三成の肝の据わった人物像が伝えられているが、「斬首寸前の逸話」と言うのは、三成に限った話ではなく、創作のものも多いため、どこまでが真実かは不明とされる。
創作物上の扱い
石田三成(戦国無双)
CV:竹本英史
『戦国無双2』から参戦。
詳しくはこちらを参照。
石田三成(戦国BASARA)
CV:関智一
『戦国BASARA3』より参戦。
詳しくはこちらを参照。
石田三成(采配のゆくえ)
豊臣家に忠誠を誓い、自分の信念に誇りを持ち、敵味方問わず誠実に相対する熱血漢。
真っ直ぐすぎて窮地に立たされることもままあり、若干ヘタレ。
石田三成(へうげもの)
CV:関俊彦
漫画『へうげもの』に登場、堅物で無愛想な人物として描かれている。
秀吉への忠誠は人一倍強い生真面目で、わずかに人間味を見せるが、数寄への理解は示さない。
眉毛がなくて何が悪い。
石田三成(かいこ)
うっかり戦国漫画かいこに登場する。眼鏡とヘアピン(?)、おおきなおみくじが特徴。
分かりづらい冗談を飛ばすことも。
石田三成(殿といっしょ)
秀吉の家臣にして漫才の相方(ボケ担当)。糸目。秀吉に三献茶で三段オチのボケを披露して才能を見出されて家臣となった。
大谷吉継とは「みっつん」「よしぶー」と呼び合う仲で、お笑いつながりの親友。一方で武断派武将に対しては「ギャグが面白くない」ということで「不暖派」と皮肉り、我慢バカの家康のことを「単純に我慢するだけで笑いを取るとは美学に反する」と蛇蝎の如く嫌悪しているなど、悪い意味で第2秀吉となりつつある。
石田三成(戦国☆パラダイス)
ゲーム『戦国☆パラダイス』に登場する武将(主君)。
友の大谷吉継や部下の島左近と共に西軍を率いて、関ヶ原で東軍と戦いを繰り広げている。
ツンデレキャラであり、プレイヤーや他武将を振り回すこともしばしば。
石田三成(BRAVE10)
CV:緑川光
豊臣側の一人。太閤(秀吉)を尊敬しており、家康は「狸」と呼びバカにしている。中性的な(童顔ともとれる)顔立ちで右目の下に泣きほくろがある。口が悪く、伊達政宗を蛇扱いしていた。作者曰く「小悪魔」。
直江兼続とよく一緒にいる。兼続と幸村とは親友。忠実では幸村より7つ年上であるが、外見年齢二十代くらいの若い外見をしている。刀を持っているが抜いているシーンはない。
『BRAVE10S』において関ヶ原の戦いで敗死。
石田三成(信長の忍びシリーズ)
『信長の忍び』では小坊主時代のみ登場。この頃は剃髪しているが、『軍師黒田官兵衛伝』にて羽柴一門に下った後には髪を長く伸ばしている。
イケメンで気も回るが、自身の算術(算盤)に絶対の自信を有しており、空気の読めない発言も目立つ。同門である大谷吉嗣とは仲がいいが、正則や清正からはかなり嫌われている様子。妻は『真田魂』に登場する山手殿の妹 。黒田官兵衛からは「いつかコイツ『私の算術を超えるだと!?』とか言って負けそう」などと呆れられている。
石田三成(妖怪ウォッチ)
CV:羽多野渉
アニメ47話及び、ゲーム『真打』に登場する人物。ある妖怪と深い関係にある。
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戦国無双 戦国BASARA 采配のゆくえ 信長の野望 太閤立志伝 創作戦国 風雲児たち
いしだみつにゃん(ご当地キャラ)
山本耕史(2016年NHK・大河ドラマ『真田丸』にて三成役を担当。ちなみに、山本氏は同じ脚本家の前の大河ドラマにも、土方歳三役で出演している。)