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石田三成の編集履歴

2024-10-31 07:32:04 バージョン

石田三成

いしだみつなり

石田三成とは安土桃山時代の武将・大名(豊臣秀吉に仕えた戦国時代の武将)。家紋は「大一大万大吉」、「九曜」・「下り藤に石」など。「佐和山の狐」と呼ばれる場合もある。

石田三成(史実)

プロフィール


生涯

永禄3年(1560年)に近江(滋賀県)で石田正継の次男(3男とも)として誕生。

元は近江で寺小姓をしていたが、羽柴秀吉豊臣秀吉)にその才を見出されて配下となる。

賤ヶ岳の戦い小牧・長久手の戦い等では、槍働き等もこなす形で直接的な戦闘もしている。小田原攻めでは成田長親が籠城する忍城攻略の司令官を務め長大な堤防「石田堤」を築き水攻めを試みたが決壊し失敗。北条家当主・北条氏直が降伏し彼の父・氏政と叔父・氏照が切腹後、延々と開城に持ち込めなかったことで、後年戦下手のレッテルを貼られてしまった。もっとも、近年この水攻めは秀吉の指示によるものであることが分かっている。

秀吉が天下人となるに連れて内政面を中心に活躍して行くこととなり、太閤検地や刀狩りの推進に務める。秀吉の九州征伐では20万とされる兵士の輜重を大過なく運営。「鋭利なる吏僚」として重用される。その後は豊臣政権中央集権化と官僚制を目指して苦心したが、後の秀次事件や五大老・五奉行制導入によって叶わないものとなっている。


朝鮮出兵では朝鮮半島まで渡海。現場支援や連絡を担当する役目を担っていたが、2度目の朝鮮出兵時には、現地状況の悲惨さを強く訴える手紙を日本に送っており、毛利輝元の書状や『看羊録』などからも、三成は朝鮮出兵自体に悲観的であった様子が伝わっている。

この際、命令違反や軍機違反を行ってしまう者を容赦なく批判した上で逐一秀吉に報告していたために、秀吉の怒りを買ってしまったり、処罰されてしまうこととなった加藤清正黒田長政、そして司令官の役割を任され、自らの報告で領地没収・改易寸前にまで追込まれた小早川秀秋から、激しい不信と憎悪を買ってしまうこととなったとされる。


この頃、秀吉死後の豊臣政権を託される五奉行の1人に抜擢される。


秀吉没後

秀吉死後、五大老筆頭格である徳川家康と連携する形で、朝鮮からの撤兵を決定。この辺りの時期で、五大老の1人である毛利輝元と接近することとなるのであるが、五大老・五奉行の中でも知行と官位が段違いに上である家康の存在が、豊臣政権の脅威となると考える様になった三成は、秀吉の死から僅か10日後、輝元を証人に前田玄以増田長盛長束正家の3人との間で、「豊臣政権を守るために、秀頼の意思よりも五奉行の意思を優先させる」という起請文を交わすこととなる。これは「徒党を組んではならない」という明確な秀吉の遺命破りであった。

これに対抗する形で、家康もまた禁止されていた大名同士の婚姻を行うという遺命破りに出ており、これを大きく問題として取上げた三成は、豊臣政権でも強い影響力を持った前田利家に協力を求める形で大勢の大名達を集め、徳川屋敷への夜襲計画を立てて家康を武力によって排除しようと目論む。

しかし、徳川屋敷にもかなりの数の大名が集まり、しかも自身を止めるために交友関係にある大谷吉継までもが徳川屋敷での防衛をすることとなった結果、深刻な武力抗争へと発展することを恐れた利家の意向で、家康との間に和解が成立。目論みは大きく外れた上に、それから暫くして利家本人もまた病没してしまうこととなった。

三成自身は兼ねてより清正・正則・長政以外にも細川忠興浅野幸長藤堂高虎蜂須賀家政池田輝政加藤嘉明脇坂安治から憎まれていたが、利家の死後彼らの襲撃を受ける(七将襲撃事件)。三成は懇意の佐竹義宣の手配により女輿に乗って逃れるものの、家康の差配により、五奉行から外されることとなる。こうして政争に破れた形で、政治の表舞台から退き、自らが城主である佐和山城に帰城することになった。


挙兵

政権から外された三成は、復権と家康打倒を目的とした壮大な計画を考案。長盛・吉継・安国寺恵瓊を佐和山城に呼び集め、秘密会議を行い、朝鮮出兵を機に親交を深めていた輝元を西軍総大将に担ぎ上げる。

吉継は当初、三成の計画を無謀として諌めたが、当の三成は断固として実行することを主張し続けた結果、渋々吉継は自らが折れる形で協力することとなったとされている。

三成と親交があった上杉家・直江兼続が「直江状」で家康を挑発することで、家康が日本各地の大名を呼び集めて会津征伐に乗出し出陣した隙を見計らって、予め協力を呼掛けていた吉継・恵瓊・島左近宇喜多秀家小西行長と共に大坂城に入城。玄以・正家・長盛の3人と共に三奉行連署による挙兵宣言を行い、家康の弾劾状を叩き付け、雌雄を決するべく、遂に「関ヶ原の戦い」へと突入する。


勘違いされがちであるが、関ヶ原の戦いにおける西軍総大将は三成ではなく、毛利輝元である。ただし、これは大大名である毛利家に配慮したものであり、実際に挙兵を主導したのは三成とされる。実際、輝元は当時大坂城にいて関ヶ原には出陣していない。

かくして、実質的な西軍総大将として立ち上がった三成の戦いの幕が上がることとなった。


関ヶ原の戦い

挙兵宣言後、三成は大坂城にいた諸将達の妻子達を人質として1ヶ所に集め、家康と共に行動している諸将達宛てに家康を打倒すべく三成に付く内容を書いた書状を出させる。

しかし、三成は家康打倒にはやる余り、人質とされた妻子達や半ば強引に自軍に引込んだ大名達の動揺の配慮に欠けていたため、忠興の正室・ガラシャ明智光秀の娘)が自害してしまう事態を招く。その結果、忠興は激昂し東軍に付くことを決定した。

その後も、三成は豊臣への忠誠・恩顧という大義名分を用いて各地の武将達に協力を呼掛け、会津の上杉家・上田の真田家からも協力を得るのを確認した三成は、10万もの兵力にまで膨れ上がった西軍を率いて関ヶ原を舞台に家康を中心とする東軍と交戦。


しかし、当初こそ戦闘は有利であったが、西軍の実情はバラバラであった。

毛利家は元々家中統率が取れておらず、三成と家康の明確な力差を理解していた輝元の家臣・吉川広家は輝元に三成に協力しないよう説得し東軍と内通しており、奉行・増田長盛も予想以上に激化して行く戦いを恐れて積極的に協力しようとしなかった。

さらに島津義弘豊久率いる島津家も前哨戦である墨俣の戦いでは三成軍に見捨てられ、夜襲の提案でさえも三成に拒否されたことで堪忍袋の緒が切れてしまい、憤慨した彼等に静観を決め込まれてしまう。

彼らは元々家康に協力するはずであったのを伏見城総大将であった鳥居元忠との行違いから三成になし崩し的に協力していただけとの説もある。

小早に至っては、元々豊臣家で冷遇された上に家康に恩義があり三成には遺恨があったため、伏見城の攻略に参戦しても、やはり三成への協力に抵抗感を抱いていた。

これらの実情を理解出来ず「豊臣家への恩顧」のみ主張して強引に戦力となる味方を集めた三成の計画は、この時点で既に穴だらけな状態とあったといわざるを得ない。

一方の家康は伏見城を守っていた鳥居元忠らの玉砕もあり、徳川家中は士気が上がっていた。また正則や輝政らも家康に協力を約し、正則らを先鋒とした家康本隊は宇都宮から江戸を経て東海道を進み織田秀信岐阜城を陥落させている。


やがて関ヶ原で両陣営は決戦を迎えるが、開戦から暫くして、元々恩義がある家康に付こうとしていた秀秋率いる部隊が、大谷軍に向けて攻撃を仕掛けるという裏切り(小早川軍は元々家康に内通していたとの説もあり)が発生。これに呼応する形で、(こちらも元々家康に内通していた)脇坂安治を始め朽木元綱など西軍側の武将達も、次々と東軍側に寝返る形となり、形成は完全に覆されてしまう。

そして吉継は自刃。自らの懐刀である島左近も敵陣に突撃して消息不明。左近と共に勇武を歌われた蒲生頼郷や前野忠康(舞兵庫)に渡辺新之丞らの家臣達は討死してしまい、三成は敗走を余儀なくされることとなった。


最期

ただ1人敗走した三成は大坂城へと向かうも居城である佐和山城は秀秋率いる軍によって襲撃され兄・正澄や父・正継、そして妻達を失ってしまうこととなった。

やがて、自身の領地にある洞窟で農村民に匿われていた三成は旧知・田中吉政率いる追捕隊に捕縛され家康の元に連行された。最終的には同様に捕縛された行長や恵瓊の2人と共に京都市中引き回しの上、六条河原で斬首され首は三条河原に晒された。享年41。

辞世の句は「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と 共に消え行く 我が身なりけり」。


子女

先述の通り、三成の父や兄、正室らは東軍の佐和山城攻めで討ち死にしているが、子女は生き残っている。


主な子女

  • 長男・石田重家…関ヶ原の敗戦後に出家剃髪し宗享と号する。最終的に1686(貞享3)年に没するが、享年は100歳とも伝わる(諸説あり)。
  • 次男・石田重成…三成と親交があった陸奥弘前藩(津軽藩)初代藩主津軽為信に匿われ杉山源吾と改名。長男の吉成は1,300石で仕え、杉山氏は幕末まで弘前藩重臣として仕えた。
  • 次女・小石殿…蒲生氏や上杉氏に仕えた岡重政の妻。重政は蒲生氏郷の正室で織田信長の娘である振姫とのいざこざから死罪に処せられたが、孫・於振は江戸幕府3代将軍・徳川家光の側室となり、長女・千代姫を産んでいる。小石殿の血脈は昭和天皇以降の皇室に繋がっている。
  • 三女・辰姫高台院の養女となっており、関ヶ原戦後に為信の次男で津軽藩2代藩主となった津軽信枚の正室となった。後に家康の養女が輿入れしたことで側室となっている。

人物

内政の手腕に優れ、豊臣政権の奉行として強い権勢を振るった。ちなみに、額が出っ張っていたらしく、周りから「才槌頭」と言われていたらしい。

主君に対しては誠意を持って仕え、「顔色を窺わずに直言する」と秀吉に評され、部下に対しては人を遇する道を知っていたとされる。また、領地でも善政を敷き、領民にも強く慕われていた。


豊臣秀長同様、かなりの倹約家であった様で、関ヶ原の合戦3日後に居城・佐和山城が落城した後に、城に乗込んだ小早川や脇坂らの武将は、19万石の大名で秀吉に寵遇された三成の城は、さぞかし豪勢で私財を貯えているであろうと期待していたが、壁は板張りで上塗りされず剥き出しのままで、庭には風情ある植木もなく手水鉢は粗末な石、金銀は少しもなく、余りの質素さに驚いたという。


加藤清正や福島正則といったいわゆる「武断派」諸将に、特に朝鮮出兵を機会に憎まれ、こうした「武断派と文治派の対立」が秀吉死後の政争に繋がったとされるが、この時期の行動も諸将によって様々に異なり、ひとくくりに「武断派」「文治派」とくくれるものではない。

また、文治派ということで「政治家としては優秀であるが、武働きが苦手で戦下手」というイメージがある彼だが、賤ヶ岳の合戦では「賤ヶ岳七本槍」と称された清正・正則が活躍するための、大事な土台を築いた先行部隊である「先駆衆」の1人として、大谷吉継らと共に活躍しており、いうなれば先陣を切った三成らの奮闘のお陰で、清正や正則はあそこまで活躍出来た様なものなのである。


日本では合戦時において“合戦の間の気晴らし”として近隣の農村に押し入り、食糧や資財略奪や婦女暴行などを行う者も多かった。三成はこうした無辜の弱者への横暴を働いた部下を厳しく罰し、さらに法度まで設けて諫めたといわれる。この三成の清廉潔白過ぎる姿勢が、同じく幼少期より秀吉に目を掛けられ戦場で必死に戦い続けていた清正や正則には、「傲慢となった」と映ってしまったのかもしれない。


なお、豊臣秀次讒言によって貶めたという説などは現在では否定されている。


評価

三成について残された逸話の多くは、後世の創作の可能性が高いものである。

三成の人物としては暴虐な悪政を働く秀吉に追従する冷徹な奸臣・武断派や家康と対立し結局は身を滅ぼした悪人というイメージが強かった。こういった印象や評価は江戸時代の講談を中心に作られ、その後も三成評価の主流であった。

そんな中でも司馬遼太郎は三成に好意的で、小説『関ヶ原』で「生真面目で、正論で人を厳しく糾弾する、それ故嫌われ者」である、極めて優秀だが青臭く不器用な三成を描き、後世に影響を与えている。

近年は三成に対する見直し、再評価が行われる様になり、ゲームで主役級の扱いをされて人気となり、大河ドラマでも「天地人」や「真田丸」では三成が好意的に描かれ、「豊臣一の忠臣」「悲劇の義将」といった、不器用だが清廉潔白な描かれ方をするようになって来ている。これまでの悪辣奸臣振りとはおおよそ異なり、歴史上の人物の中でも最もイメージが変わった人物の1人といえる。


ただし、余りに見直しや美化が行われ、「義将扱いされている直江兼続(※)と交友関係にあった」という史実から、一部聞きかじりなライト戦国ファンの間では、「石田三成=正義の味方」、「徳川家康とその協力者=全員悪の権化」という極端過ぎる認識を招くことにもなっている。

そもそも、追い込まれた焦りから半ば強行的に戦いを起こし家康に敗北した結果、上杉・毛利という大大名は、戦いを起こした責任を取らされる形で一気に弱体化。真田昌幸幸村親子や長宗我部盛親といった西軍側についた数多くの名立たる武将達も改易や幽閉に追込まれることとなってしまい、さらには東軍として活躍した武将達への論功行賞として、豊臣家の力も大幅に削られ、一大名のレベルに追込む結果になってしまっている。

寧ろ戦いがなければ、これだけのことをするのにどの程度時間が掛かったか分からず、三成が多くの大名や武将達を巻き込んで強引に関ヶ原の戦いを起こした暴挙自体が、結果的に家康の征夷大将軍就任へと繋がり、豊臣を中心とする西側勢力弱体化と共に徳川と豊臣の対立が深刻化するまでに悪化、最終的に大坂の陣にまで発展して豊臣家が滅亡に追込まれるにまで至ったという見方も出来る。

こういった部分も冷静に考慮しておくと、判官贔屓をしてまで三成の遺命破りから始まった関ケ原の挙兵を擁護・賛美してしまうのは、考え物かもしれない。


(※なお、直江兼続についても毀誉褒貶は激しい。詳しくはあちらの記事にて)


実際の所、豊臣政権の筆頭内政官という立場上、どこまでが秀吉の意向で、どこまでが三成の独断なのか分かりにくい。また、関ヶ原での敗残将であることから、手紙の類もほとんど廃棄されていて残っていない。その知名度に比して、実の所案外実態が見えにくい人物である。

江戸時代に作られた信憑性が低いエピソードを排して比較的史実を踏まえたとしても、素直に忠臣として描くことも、「独眼竜政宗」や「軍師官兵衛」の様に秀吉への忠義はあるが他者からは油断ならない人物といった悪役として描くことも可能な、複雑な人物である。

近年のメディアでは善悪双方の月旦評を折半した結果か、「清廉であったが理詰めで考えてしまう世渡り下手」「それに伴う歯に衣着せぬ口吻で相手に嫌われるタイプ」「自らの感情や真意を他者に伝えるのが苦手」など、現代でも割と見掛ける様な生き辛さを抱えた人間として描写される事が多い。



戦国無双シリーズ』や『戦国BASARAシリーズ』といった近年におけるゲーム作品やその他のメディアミックス作品等では、信繁(ゆきむ)や兼続同様、専らイケメン武将として描かれる事が多く、大河ドラマでも善悪どちらでもイケメン俳優が起用されていることが多い。


逸話

この時代の多くの武将同様、創作の逸話が非常に多い。


三杯の茶(三献茶)

鷹狩りの帰りに喉の渇きを覚えた秀吉が近江国長浜の観音寺(伊香郡古橋村の三珠院という説もあり)に立ち寄り、寺小姓にを所望した際、最初に大振りの茶碗にぬるめの茶を、次に一杯目よりやや小さい茶碗にやや熱めの茶を、最後に小振りの茶碗に熱い茶を出した。

まずぬるめの茶で喉の渇きを鎮めさせ、後の熱い茶を充分味わわせようとする寺小姓の細やかな心遣いに感じ入った秀吉は彼を連れ帰り、それが後の三成であったとされる逸話。

三成の逸話としては非常に有名であるが、創作である可能性が非常に高いとされている。


大谷吉継

大人数の茶席茶碗を回し飲みしていた際、吉継が口を付けた(または茶の中に膿が落ちた)茶碗を誰も飲むのを嫌がって、次の人に回して行ったが、三成はためらわず茶を飲み干した。

この時以来2人は強い友情を持ったといわれる。

これまた有名ではあるが、「吉継はハンセン病ではなかった可能性が高い」「そもそもこの逸話は、初出では三成ではなく秀吉が登場していた」など、複数の観点から創作の可能性が高いとされている。

ただ、三成と吉継が親しかったことは事実である。赴任地が同じことも多く、九州征伐小田原征伐では、共に兵站を担っていた。三成が奉行になった際には、吉継はその補佐役となっている。


ちなみに、従来は吉継の生年は永禄2年(1559年)とされ、永禄3年生まれの三成と同世代であったことも親しい理由の1つとして挙げられていた。しかし、近年は、吉継の生年は永禄8年(1565年)ではないかとの説も出て来ており、その場合、吉継は三成より5歳下となる。


渡辺新之丞(勘兵衛)

三成がまだ500石の俸禄の折に、柴田勝家や豊臣秀吉からの仕官の誘いも蹴った渡辺勘兵衛(増田長盛や藤堂高虎などに仕えた渡辺勘兵衛了と区別するために渡辺新之丞と呼ばれる)を召し抱えた。それに驚いた秀吉がどうやって雇えたのか聞いたところ、「500石、全て彼に与えました。今では私が彼に養われております」と答えたという話もある。もっとも、この契約には将来、三成が100万石を所有する折には10万石を与えるという約束もしていたという。

その後、三成は俸禄も増えたので、何時までも500石という訳にはいかないであろうと勘兵衛の俸禄を上げようとしたが、彼は三成が100万石の大名になった折に10万石を頂くので今はいらないと固辞し続けたと言い続けたという。関ヶ原の戦いで討死した。


島左近

筒井順慶の死後、筒井家から出奔した左近を部下として射止めた際、当時まだ出世街道駆け出しであった三成は自身の俸禄4万石の内の2万石を与えるという、先述の渡辺新之丞と似たような破格の待遇で左近を手中に収める。その後、二人三脚で出生街道を突き進み有力大名となった三成は、左近の俸禄を30万に引上げようとしたが、左近は「自分はあなたの心意気に惚れて仕えている」といい、その申出を断ったとされる。

なお、この逸話の真偽ついては不明な点も多いものの、三成が左近を重用したことは事実であり、左近もまた関ヶ原の戦いでは三成の敗走を助けるべく、東軍特攻を仕掛けて行方不明になった。


真田信之

信之の叔母は三成の妻であり、2人は懇意の仲で手紙のやり取りが多く、信之は手紙を寝ずの番を付けてまで保管していた。後に明治に入った頃、真田家伝来の家康拝領の短刀が入っていると思われていた長持に、信之宛の三成からの書状など、真田家にとって不利になる危険な機密書類が納められていた事実が判明し、長野県「真田宝物館」に保存されているという。ただ、特に隠すこと事なく普通に整理されていたともいわれる。

詳細については真田信之の項に詳しい。


佐和山

三成治下の佐和山はその善政によって民は豊かとなり、「三成に過ぎたるものが1つあり。島の左近(島左近)と佐和山の城」と呼ばれる程であった。ちなみに三成の善政を示すものとして、古橋の領民が凶作で苦しんでいた際、三成は年貢を免訴して領民を助けたり、様々な法令を制定して領内を整備するなどの手腕を発揮している。三成が関ヶ原で敗れて敗走している間の動向は諸説あるが、領地の百姓が命懸けで岩窟にかばったエピソードが残されている。

その後、処刑されたことを知った佐和山の民衆は三成の死を悲しみ、地蔵を作ったという(亡くなる以前に作られ、彼が念持仏としていたともいわれる)。

この地蔵は「石田地蔵尊」と呼ばれ、現在も彦根城傍にある浄土宗の寺院・宗安寺に安置されている。

また、領民が三成を慕っていたため、彼の後に領主となった井伊直政は、三成の統治法を踏襲すると領民に伝え、三成を弔うことも黙認したという。


戦略眼

明治の頃に来日し、陸軍大学の教官となり、日本の参謀本部を作ったドイツ参謀本部の将校クレメンス・W・J・メッケル少佐は、関ヶ原の戦いでの東軍と西軍の陣の配置図を見て、「どちらが勝った戦と思いますか?」と聞かれた時、迷わず西軍を指したが異なっていたことに大変驚いたという逸話。三成が武略に劣っていなかったことを示す逸話とされている。

現在では司馬遼太郎の創作として知られる。司馬自身は創作と考えていなかったという話もあり、何らかの資料に当たった結果、こうした逸話を知った可能性もあるが、その「何らかの資料」が不明であるため、推測の域を出ない。

また、関ヶ原の趨勢には小早川秀秋(以前は裏切り説が有力であった。現在は最初から東軍とされ、そもそも秀秋布陣地には輝元が布陣するはずであった)や、吉川広家(東軍に内通していた)の動向が大きく影響を与えたため、これを西軍として扱っていれば、西軍の勝利を確信するのは当然であり、布陣図だけを見て勝敗を判断することに余り意味はない。

加えて、実際に関ヶ原の戦いは三成が負けている訳で、仮にメッケルが説明を受けていたとしても「三成に武略があった」というよりは「メッケルに武略がなかった」という話としかならない。


大将の器

三成が斬首される前、家康は捕虜となった三成を呼び出し、「どのような武将でもこういうことは昔からあることである。恥じることはない」といって慰めたが、三成は臆した様子もなく、いかにも打ち解けた様子で「ただ天運によってこうなったから、さっさと首を刎ねて下され」と語り、それを聞いた家康は「三成は流石に大将の器量がある。源頼朝に助命嘆願した平宗盛とは違うな」と感嘆したといわれ、三成の肝が据わった人物像が伝えられているが、「斬首寸前の逸話」というのは、三成に限った話ではなく、創作のものも多いため、どこまでが真実かは不明とされる。

同じく斬首直前の逸話で、敵兵に喉の渇きを訴え白湯を所望したところ、「白湯はないが柿ならある」といわれて差し出されるも、「柿は痰の毒故食わぬ」とこれを拒んだ。「これから処刑される人間が身体の心配をしてどうする」と笑われるも、「大望を抱く者は最後まで己の命を大切にして、本意を達せんとするつもりである」と毅然として返したという。しかしこれも逸話故、出されたのが普通の柿であったり干し柿であったり、痰の毒であったり胆の毒であったりとハッキリしない点が多い。


創作の石田三成

個別記事あり

  1. 戦国無双シリーズ』のキャラ。→石田三成(戦国無双)
  2. 戦国BASARAシリーズ』のキャラ。→石田三成(戦国BASARA)
  3. 妖怪ウォッチ』のキャラ。→石田三成(妖怪ウォッチ)
  4. Fate/GrandOrder』のキャラ。→石田三成(Fate)
  5. 戦国 A LIVE』のキャラ。→石田三成(戦国ALIVE)

石田三成(采配のゆくえ

西軍のバカ殿さま

DSゲーム『采配のゆくえ』の主人公

豊臣家に忠誠を誓い、自分の信念に誇りを持ち、敵味方問わず誠実に相対する熱血漢。

真っ直ぐ過ぎて窮地に立たされることもままあり、若干ヘタレ。


石田三成(へうげもの

大吉大一大万 【再アップ】

(CV:関俊彦

漫画『へうげもの』に登場、堅物で無愛想な人物として描かれている。

秀吉への忠誠は人一倍強い生真面目で、わずかに人間味を見せるが、数寄への理解は示さない。

眉毛がなくて何が悪い。


石田三成(かいこ

うっかり戦国漫画『かいこ』に登場する。眼鏡とヘアピン(?)、大きなおみくじが特徴。

分かり辛い冗談を飛ばすことも。


石田三成(殿といっしょ

石田さん

秀吉の家臣にして漫才の相方(ボケ担当)。糸目。秀吉に三献茶で3段オチのボケを披露して才能を見出されて家臣となった。

大谷吉継とは「みっつん」「よしぶー」と呼び合う仲で、お笑い繋がりの親友。一方で武断派武将に対しては「ギャグが面白くない」ということで「不暖派」と皮肉り、我慢バカの家康のことを「単純に我慢するだけで笑いを取るとは美学に反する」と蛇蝎の如く嫌悪しているなど、悪い意味で第2の秀吉となりつつある。


石田三成(戦国☆パラダイス

正義を貫く天の邪鬼

ゲーム『戦国☆パラダイス』に登場する武将(主君)。

友・大谷吉継や部下・島左近と共に西軍を率いて、関ヶ原で東軍と戦いを繰り広げている。

ツンデレキャラであり、プレイヤーや他武将を振り回すこともしばしば。


石田三成(BRAVE10

石田三成

(CV:緑川光

豊臣側の一人。太閤(秀吉)を尊敬しており、家康は「狸」と呼びバカにしている。中性的な(童顔ともとれる)顔立ちで右目の下に泣きほくろがある。口が悪く、伊達政宗を蛇扱いしていた。作者曰く「小悪魔」。

直江兼続とよく一緒にいる。兼続と幸村とは親友。忠実では幸村より7つ年上であるが、外見年齢二十代くらいの若い外見をしている。刀を持っているが抜いているシーンはない。

BRAVE10S』において関ヶ原の戦いで敗死。


石田三成(信長の忍びシリーズ)

『信長の忍び』では小坊主時代のみ登場。この頃は剃髪しているが、『軍師黒田官兵衛伝』にて羽柴一門に下った後には髪を長く伸ばしている。ちなみに髪型は長い銀髪に触角のような前髪と、どこかの超有名な悪役そっくり。

イケメンで気も回るが、自身の算術(算盤)に絶対の自信を有しており、また真面目過ぎるゆえ空気の読めない発言も目立つ。同門である大谷吉継とは仲がいいが、福島正則加藤清正からはかなり嫌われている様子。は『真田魂』に登場する山手殿の妹・うた(同作69話にて名前が明かされた) 。黒田官兵衛からは「いつかコイツ『私の算術を超えるだと!?』とか言って負けそう」などと呆れられている。

2022年5月、まんがタウンにて、「石田三成の妻は大変」の連載が発表され、主人公となる。


石田三成(ラヴヘブン

乙女パズルゲームの攻略キャラクター。初期レアリティはSRでの登場。

赤い長髪を一つに束ねている。敵の攻撃ターンを遅らせるレアスキルの持ち主。

異世界の危機を救うため、主人公により召喚された。


石田三成(ミツナリズム)

鈴木コイチPixivユーザー名はまくた)氏による三成を主役とした戦国コメディ漫画。

第1話


石田三成(Xアカウント)

Xアカウント

いわゆる戦国武将なりきりアカウント。

生前での行いから生真面目な人物として扱われやすいイメージとは打って変わってイベントの度にはしゃいだり、徳川家関連の話題がトレンドになると対抗意識を燃やしたり、時事的なニュースを自虐ネタを引っ張り出しながら取り上げたりする御茶目な人物という設定になっている。また、ドラマや映画で石田三成を演じた俳優を応援したり、石田三成が登場する作品を宣伝したりするなど、自分のアピールにも事欠かない。

毎年9月15日になると、「#関ケ原(西暦)」でSNSを大きく盛り上げ、果ては企業X公式アカウントが支援に名乗り出るほど、武将なりきりアカウントでは一番知られている。

最近ではその知名度の高さ故岐阜関ヶ原古戦場記念館にて専用グッズが売られていたり、なんと同館の特別広報係長(仮)に任命されたり、ショート番組「光秀のスマホ」「土方のスマホ」にて登場していたりする。


石田三成(桃鉄シリーズ)

堺を買い占めると味方となる歴史ヒーローとして登場。

味方とすると、便利なカードを贈ってくれる。


御城プロジェクト:Re

御城プロジェクト:RE 敵兜「石田三成」

本人は出て来ないが、彼の居城をモチーフとしたキャラ「佐和山城」が登場する。

三成を「」付で呼ぶなど、好意的である。後に大将兜としても登場する。


刀剣乱舞

三成本人は出て来ないが、三成が佩いていたと伝わる刀をモチーフとしたキャラ「石田正宗」が登場する。

三成を「様」付で呼ぶなど、好意的である。


関連タグ

日本史 戦国時代 戦国武将 関ヶ原の戦い 西軍 佐和山の狐

豊臣秀吉 徳川家康 大谷吉継 前田利家 加藤清正 毛利輝元 小西行長 小早川秀秋 皎月院

戦国無双 戦国BASARA 采配のゆくえ 信長の野望 太閤立志伝 創作戦国 風雲児たち

いしだみつにゃん(ご当地キャラ)


小栗旬 - NHK大河ドラマ天地人』(2009年)で三成役を担当。子役時代の1996年にも『秀吉』で佐吉(幼少期の三成)役として出演しており、『天地人』での回想シーンでは『秀吉』出演時の映像が引用されたこともある。

山本耕史:NHK大河ドラマ『真田丸』(2016年)で三成役を担当。ちなみに、山本氏は同じ脚本家前の大河ドラマにも、土方歳三役で出演している。

藤井亮滋賀県CMに三成を起用(2016年)。

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