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ポケモンの没プロットの編集履歴

2021-11-03 14:49:42 バージョン

ポケモンの没プロット

まぼろしのえいがとさいしゅうかい

ポケモンの没プロットとは、脚本家の首藤剛志氏が手掛けた、没になったポケットモンスター(無印)最終回と劇場版ポケットモンスター第3作の没プロットのことである。

はじめに

今日、誕生からおよそ20年が過ぎた今もなお、日本のみならず世界中から愛されているポケットモンスター


このメディアミックスアニメ版『ポケットモンスター』最初のシリーズ構成を務めた首藤剛志氏は、サトシ・ピカチュウ・ロケット団をはじめとするキャラクターを考え、伝説の1話「ポケモン!きみにきめた!」やキッズアニメに留まらない内容の映画第1作『ミュウツーの逆襲』を執筆するなど、20年以上続くシリーズ展開に大きな影響を残した。


しかし実は首藤氏によって構想が練られていたものの、放送の長期化・世界観への影響など諸般の事情で没になり、現在では実現不可能な最終回のプロットが存在した。

このプロットは、過去に担当した作品『アイドル天使ようこそようこ』が理不尽な打ち切りにあった経験を持つ首藤氏が、もしポケモンというゲームが人気が出ずに終わり、販促ホビアニらしく突然アニメも終わったり打ち切りになったりしてもいいように最終回を構想していたためである(もしアニメが長期化したとしても1年半〜4年くらいだろうと考え、運良く打ち切りにならずゲームとアニメ人気が出たとしてもアニメ「ポケモン2」として仕切り直せば良いとも当初考えていた)。


とても衝撃的な内容であるが、その中には製作者が子供たちへ向けた特別なメッセージが込められている。

このプロットを読んだ後、改めてポケモンという作品の奥深さが感じられるかもしれない。


アニメ版ポケットモンスター(無印)最終回(仮)

当時ポケットモンスターシリーズ構成担当であった首藤剛志氏が、WEBアニメスタイルのコラムで存在を公表し、ファンの間で話題を集めた。

テーマは『ポケモンと人間は本当に共存しえるか』。


アニメ脚本のために世界観や設定を煮詰めるにあたり、首藤氏は「ポケモンとはなんなのか」を考えていた。

というのも、「プレーヤーとゲームのこの関係をそのままアニメに持ち込むと、主人公がなんの苦労もせずにポケモンを捕まえて、そのまま自分の代理でポケモンを戦わせる代理戦争のように見えてしまう」ため、ゲームをそのままアニメ化するには難しく、なにかテーマを考える必要があったのである。

実際にゲームをプレイしてみて首藤氏はポケモンについて「手間はかかるが、プレーヤーに逆らったり、実際に死んでしまうこともない。失敗してもリセットが可能である。そして、事と次第によっては友達になってくれる。ポケモンが生き物だとしたら、これほど思いどおりになる生き物はない。」と思い、そのあり方・生態を子供向けゲームだからと妥協せず考察し「ポケモンは“夢”のような存在」とある種達観・冷徹な見方も持つようになった。

逆にサトシのピカチュウがゲームと違いトレーナーの言うことを聞かずモンスターボールに入らないのも、これらのゲームに対して端的に「“もの”ではないポケモン」という表現をする意味もあった。「ピカチュウは、サトシとは仲間であっても、サトシの所有物にはなりたくないのである」。


また、元々首藤氏は少年アニメにおける「勝利にこだわること」に対して懐疑的であった。

当然、前述のようにゲームにおいては根本であるポケモンバトルに対してもあまり好感を抱いておらず、「ポケモンバトル闘犬がどう違うか、なぜバトルをしなければならないのか。自分は傷つかない代理戦争の勝敗に喜んでいいのか」という疑問も抱いていた。

そして、首藤氏は、ゲーム序盤に子供達が一夏の冒険をするスタンド・バイ・ミー』をオマージュした場面があることに気づき、ゲームを作った人達の思いがなんとなく分かったように感じた。


そのようなゲームに抱いた感想の経緯や、「勝利にこだわるような作品にはしたくなかった」「子供はいつか大人になり、夢見る虚構の世界から卒業するが、その時広がる大人の世界を、子供たちに殺伐とした目で見てほしくなかった」「かといって、虚構の世界で夢に酔いしれている、外見だけは大人で心はいつまでも子供、という人間を育てたくもない」という思いから、『スタンド・バイ・ミー』のような『“ポケモン”の世界を、サトシ(ひいては視聴者)の少年時代へのノスタルジーにしたい』『子供達が体験する懐かしい冒険の一時期を描きたい』と首藤氏は考えていた。


無印初期でジム戦でサトシが完全に勝利していないにも関わらずお礼名目等でバッジを貰う(ナツメ戦、エリカ戦等)場面が何度かあったのは、その影響と思われる。


余談だが氏の執筆した小説版ポケットモンスターにも氏の特徴・思想が色濃く出ており、子供向けだからと設定をフワフワさせたり妥協したりせずにジム・ジョーイ・10歳で旅立てるポケモントレーナーらがどのような収入を得て暮らしているのか・モンスターボール開発までの経緯といった世界観がシビアながらも細かく設定されている(カントー地方の設定も現実の関東地方に寄せてある)。

他にもサトシが等身大の少年として描かれているなど児童向けアニメを下敷きにしたとしては異質な空気が漂った作品となっている。


伏線

首藤氏はポケモンの放送が1年半、人気になって長くても4年といった放送スケジュールを想定のもと、最終回を構想したとのこと。

実はアニメ本編や劇場版シリーズには最終回の伏線がいくらか用意されていた。

以下がその一例である。


  • アーボとドガースが答えた「悪いポケモンはいない」発言(無印第17話)
  • タマムシジムへの放火による脅迫ネタ作り(無印第26話)
  • ディグダがいっぱい!』(無印第31話)
  • 『ニャースのあいうえお』(無印第71話)
  • 『ミュウツー我ハココニ在リ』(テレビスペシャル)
  • ミュウツーの逆襲』(劇場版第1作)と『ミュウツーの逆襲の嘘予告』
  • 『幻のポケモン ルギア爆誕』(劇場版第2作)
  • 後述の『劇場版3作目没プロット』

第26話を除きいずれも首藤氏が直接脚本に関わっており、特に上記の映画3作のテーマは最終回に深くつながるはずだった。


上記の考えからこうした伏線を描き、首藤剛志氏はゲームにおけるポケモンのあり方を踏まえた上で、後述のような最終回の物語を構想した。


ストーリー

物語の終盤、サトシとの冒険を経てサトシのピカチュウは強力なパワーを持つポケモンに育っていた。


しかし、人間にゲットされたポケモンはゲームで戦いの道具にされること・人間の寵愛を受けたとしてもそれはペットにしか過ぎないことに対してポケモンは怒り、ポケモンと人間との共存は不可能という結論に達したポケモンと人間たちは争いを始める。

最強のポケモンとなったピカチュウはポケモンのリーダーに祭り上げられ、ピカチュウとサトシは争いを止めるのに苦悩する。


その戦いを止めるために奔走するのが意外にもロケット団3人組であった。

彼らはポケモンと人間の共存関係の見本になっており、そして『自己存在の問い』にはミュウツーが答えを見出し、彼らは一つの結論に達する。『自己存在のある限り我々はどんなものたちとも共存できる』と…。





年月がたち老人となったサトシは昔を思い出した。

空想・想像の生き物ポケモンとの冒険や友情や共存。それは、現実の人間の世界では、サトシが出会えなかったものだったのかもしれない。

しかし少年時代のどこかで、確かにピカチュウやポケモンがいて、ムサシがいてコジロウがいてミュウツー達との出会いがあった。

サトシの少年時代の冒険で出会ったすべてが、老人になったサトシの記憶にあり、眼前に見える。


「さあ、早く寝なさい。あしたは旅立ちの日でしょう」


翌朝、母親に叩き起こされたサトシは少年の姿であり、元気に家を飛び出していく。

それはポケモンゲットでも、ポケモンマスターになるためでもない、本当の自分は何かを探し、他者との共存を目指す旅である…。


補足

このエピソードは『ポケモンの反乱』『自己存在への問いかけ』『他者との共存』、そして『ある種の夢落ち』(胡蝶の夢邯鄲の夢)&『サトシ(ひいては視聴者)の少年時代へのノスタルジー』を描いたと言える。


言い換えれば、ポケモン世界に生きるサトシはある意味“夢(アニメ)の”世界に生きるサトシであり、最後に人とポケモンが共存する夢のポケモン世界を離れて旅立つ少年のサトシは、そのアニメを見終え、その思い出を胸に現実世界を歩みだす者(≒アニメを見終えた子供達)として描かれたということかもしれない。

「“自分だけ”の世界を優先して他者の世界を壊そうとせず、他者との共存を目指して現実世界を歩んでほしい」という思いを込めて、あえて夢オチともとられる最終回を構想したものと思われる。


サトシの目標であるポケモンマスターについても、「『ポケモン』のアニメを、勝者になる事に人生の価値があるというような雰囲気の漂うアニメにはしたくなかった。 となれば、『ポケモン』のエピソードの中に、主人公の本来の目的である、ポケモンを戦わせるポケモン使い(?)の最高位であるポケモンマスターになるという事以外に、何か別の価値観を入れる事が必要となる。」と首藤氏は述べていることなどから、「最高位のポケモン使い」の称号は、あくまで「ピカチュウが最強のポケモンとしてポケモンのリーダーに祭り上げられる」最終回の前座であったことがうかがえる。


映画『ミュウツーの逆襲』では自己存在(アイデンティティ)に悩むミュウツーが描かれた。

映画『ルギア爆誕』では、悪意があるわけでは無いが自分のことにしか興味を持たず他者の痛みを気にせず他者の世界を自分のためだけに破壊するゆえに敵役となったジラルダン、それぞれの生き物には分を侵すべきではない住む場所があり世界の安定のために自分が幻であることを願うルギアが描かれた。

これらは、この『自己存在への問いかけ』『他者との共存』を描く最終回のテーマにつながるものでもあった。


そして、ロケット団のニャースが喋れる設定はこの「他者との共存」を描く最終回のために作られたといっても過言ではなく、人間になろうとして人間になれず、ポケモンとしても特異な、人間でもポケモンでもない孤独だったニャースが、戦いの仲裁に生きがいを感じ大活躍するといった構想であった。

首藤氏のひとつの理想としたポケモンと人間の在り方は、実は「ポケモントレーナーとポケモン」ではなく「ムサシとコジロウとニャース」だった。

この最終回こそ幻となったが、ニャースが話せることがポケモンの通訳役として重宝される・ポケモンと人間の会話など今日でも活かされ続けているのは言うまでもない。


ゆえに本来アニポケで重要な役割を担うはずだったロケット団が、日常話の増加により単なる三枚目になったことには複雑な思いがあったため、映画『ルギア爆誕』でロケット団が大活躍し、「あんたが主役~!」とサトシに言うセリフにつながったという。



首藤氏としては、ポケモンやゲームの否定と言うよりは、自己存在の肯定・他者と向き合い生きることを描きたかったものと思われる。

しかし、ともすれば「子供はいずれ『ポケモン』を離れるべき」「『ポケモン』世界の否定」ともとられかねないこの最終回は、実現していれば、首藤氏が以前担当した『ミンキーモモ』最終回以上に物議・賛否両論となっただろう。

下手すれば同じく首藤氏が以前担当した『アイドル天使ようこそようこ』の様に任天堂やスポンサー、視聴者の怒りを買い、ポケモン全般が永遠の黒歴史になっていた可能性も高い

というより、そうした「完全終末」こそ、首藤氏がコンテンツという概念に望んでいた在り方だった節もある。



しかし、ポケモン人気は首藤氏の予想をはるかに超えており、結局この最終回は没になった。

総監督は10年は続けたいと考えており、せいぜい4年を想定していた首藤氏のモチベーションはとてもそれほど続けられるものではなかった。


首藤氏自身、テーマに悩んだり精神状態が安定しておらず早期にアニポケを離脱。

アニポケの長期化にあたり、多くの人々がポケモンを楽しむ姿を見て「ポケモンは水戸黄門ようなものでいいんじゃないか」「自分が追い求めた御大層なテーマやエンディングは必要ないんじゃないか」と、自らが考えたコンセプトへの意義を見失っていった模様。


結果としてサトシと彼のピカチュウが続投し続け、作風が移り変わりながらもサトシが少年のまま成長することなく延々と冒険を続けることに対して、かつてサトシの冒険を見ていた子供・見ている視聴者の一部が今でもその話題で荒れることもあることを考えると、首藤氏が生み出したくないと考えていた虚構の世界で夢に酔いしれている、外見だけは大人で心はいつまでも子供が出てきたようにも捉えられるのは難しい所である。


余談

上記のポケモンの反乱の設定のオマージュともいえる設定がのちのシリーズにも登場している。以下がその一例である。

このほか、映画『キミにきめた!』でもこの没プロットを連想させるシーンが出てくる他、映画『ココ』でも人間とポケモンが争うシーンや、人でもありポケモンでもある特異な存在:ココが物語の中で重要な活躍をする。恐らく、これらの作品は映画のテーマである「原点回帰」を強く意識しているのだと思われる。


ポケットモンスター映画第3作目(仮)

『結晶塔の帝王』の前身にあたる企画。これもやはり、没最終回と同じ方法で公表。

作品のテーマは『進化論』や『本物の動物』、そして『この世界とは何なのか?』である。

これはポケモンシリーズ当初の設定である「ポケモン以前には地球の生き物が存在していた」という設定を応用したもの。

実際に当時のテレビ絵本には子犬が登場するし、赤緑の図鑑説明には『インドぞう』が登場し、

『ミュウツーの逆襲』では、ボイジャーが『カモメ』の存在をほのめかすような発言をするほどだった。

後のシリーズでは、このような人間・ポケモン以外の生物の存在について、設定はなかったことにされたり、されなかったりと曖昧な扱いをされている。

これは脚本づくりにも大いに影響を与えており、首藤氏はヤドンがただのんびりする日常回を書こうとして、小道具としてや蝿のようなポケモンにたかる小虫を出そうにも(それらをモチーフにしたポケモンがいない為)出せずに苦労したとも語る。


ストーリー

ポケモンと人間しか動物のいない『ポケモン世界』において、ある重大な発見があった。

なんと中生代にこの地球上で生きていたティラノサウルス化石が発見され、ポケモン学会は大騒ぎになる。

ここでオーキド博士は重大なことに気づく。

ポケモンがこの世に発生した時期も定かではなく、進化論(ポケモンでいう進化のことではない)はポケモンにも通用しない、新発見のポケモンはどんどん増えていくばかり。

しかも、地球上の動物(など)の記録は残っているのに、なぜか人々の記憶から消えていたのだ!

しかも誰もがそのことに疑問を感じていないのだ。


何かこの世界には秘密があるのか。人々も自分の生きる世界について考え始める。

その最中、突如ティラノサウルスが動き出し、ある場所を目指し進撃を開始する。

ポケモンや人間たちは踏みつぶされていく。とにかく邪魔なものは踏みつぶす。海も川も越え…。

町は破壊されてゆく、オーキド博士は研究所を踏みつぶされても「いつかこんな時が来ると思っていた。何故こうなるのかわからんけど」としかしゃべらない。

実はオーキドにもわかっていないのだ。『いつかこんな時が来ると思っていた』以外は。


ポケモンたちや人間は本能的にティラノを止めようとする。

ティラノを止めなければ『ポケモン世界』が危ういと感じたからだ。

ロケット団たちも協力し始める。

そこにはいつもの敵味方もありはしない。

しかし、冷静なのは『自己存在』をテーマとするミュウツーだけだ。


そしてティラノはある場所で動きが止まる。

果たしてその場所とは…。


以上がストーリーの概要である。

実際のプロットはもっと簡潔らしく、進化論や学会云々の話は大幅に削ってあるらしい。


没になった経緯

首藤氏はこれを企画するにあたり、反対意見はあらかじめ想定していた。それは『ポケモンの世界観の破壊』である。半年構想にかけたこともあり、それに対する反論は当然用意していた。


しかしトップが言い放った反対意見は、首藤氏の予想にはなかった意外なものだった。

それは『無機質なものに、意識が宿り動き出すというストーリーはヒットしない』というもの。

これは以前にトップの久保氏が以前プロデュースした『爆走兄弟レッツ&ゴー!!』の劇場版(ストーリーは意識を持ったミニ四駆が暴走するという内容)がヒットしなかったからである(他に『ティラノサウルスでならポケモン映画以外でも書ける脚本だ。』という意見が出たからという話もある)。


久保氏はそういった経験から首藤氏のプロットを却下した。

首藤氏の想定した反論はあくまでストーリーやアニポケ世界観に関するものであり、ヒットするか否かという反論は予想だにしていなかった。

言い換えれば「興行収入数十億円を目指す、失敗が許されなくなったポケモン映画において、この脚本でそれぐらいのヒットを出せる確固たる自信があるならばいい」と言われたということである(久保氏はエンターテイメント性を重視しており、『ミュウツーの逆襲』のヒットに対しても自分の理論と違ったため驚いていた)。


しかし、全体的に暗く重いストーリーの『ミュウツーの逆襲』がなぜヒットしたか、自分が書きたい話を書いただけの首藤氏自身も理解しておらず、明確に説明もできるわけもなかった。

この3作目のプロットについて、ヒットする自信もなかった首藤氏は、久保氏の反対を否定できるだけの意見を持ち合わせておらず、それを泣く泣く受け入れざるを得なかったという。


止まった場所に対する考察

ティラノが動きを止めた場所はプロットを手掛けた首藤氏以外真実を知る者がおらず、当の首藤氏も種明かしをしないまま他界してしまったため、その真相は今でも闇の中である。

そのため、ファンの間ではこの手の考察が後を絶たない(首藤氏曰く、『動物とは何か?』『人間とは何か?』を考えればさほど難しくないとのこと)。

例として、

  • 『最初にティラノが発掘された場所』
  • 『世界の果て』
  • 『卵』
  • 『母親の元』
  • 『海』(ルギア爆誕の舞台である命の源)
  • ゲームフリーク』(ポケモンの製作会社)

など。


最後に余談

結局没を食らっている上記2作品。

今も「せっかくなら見てみたい」というファンの声がある一方で、「やったところで面白いものになるとは思えない」「流石に作家性が強すぎる」と言った反対意見も多い。

ただし、これらについては普通ゲーム(のアニメ)自体が1年続くか長くて数年程度にもなれば珍しい業界にて、首藤氏自身がポケモンの大ヒットなど想定できるわけもなく「ゲームが短期に終わってもアニメは記憶に残るものを」と考えて脚本を作っていたため、そうしたアニメ製作前の事情を考えない批判は的外れになりかねないことに留意。



他にも、首藤氏は手がけた作品・サトシやロケット団といった生み出したキャラクターに加え、ポケモン史に残る大偉業を成し遂げている。

それは首藤氏の担当した作品に登場したオリジナルポケモンがゲームに逆輸入されたことである。

それこそが海の神『ルギア』である。

金・銀(当初はポケモン2)のゲームの開発時期が遅れていたおかげで組み込む余裕があった、とのこと。

首藤氏個人としては、「海は母性の象徴」と考えていたため男性ボイスのルギアは好ましくなかったらしいが、ルギアはそのかっこよさで以降の高い人気へとつながっていった。

アニポケ一話でサトシが目撃して終わりの、サトシ以外には誰にも確認されていない真の意味で幻のポケモンとして扱われる予定だったホウオウもこれを期に拾われ実装された。


パッケージポケモン(所謂伝説のポケモン)がストーリーに一切関わらないのが金銀のみなのはこのためである(初代はパッケージポケモンが御三家なので一応ストーリーに絡んでいる)。


関連項目

首藤剛志 ポケットモンスター 久保雅一 ホビアニ

スタンド・バイ・ミー


サトシ(アニポケ)


カスミ(アニポケ)…初代歴代ヒロイン。首藤氏はコラムにて「カスミとサトシに恋愛感情はない」とも語っているが、上記のようなストーリーにラブコメを組み込むつもりは当然なかったことが理由の一つ。


タケシ(アニポケ)アイリス(アニポケ)…元レギュラー。サトシの旅から離脱し、続編ではポケモンドクターを目指す姿やゲームにおける設定年齢を超えチャンピオンになっている姿が描かれている。


劇場版ポケットモンスターポケモン映画

結晶塔の帝王 キミにきめた!


映画名探偵ピカチュウ…ピカチュウ「ボルテッカーおれも痛いからヤダ!10まんボルトにする!」

人々とポケモンが共存する世界だが、バトルについては奇しくも没プロットのように否定的な扱い。映画劇中では舞台となる町でのポケモンバトルについて、裏カジノのような違法・闇の興行となっている(合法のポケモンバトルも存在する世界観であるが、実際にポケモンバトルが成立するシーンは無いに等しい)。リアルを追求するとやはりポケモンバトルの描き方は難しかったのかもしれない。


裏設定


黒いゲーフリ 黒い任天堂 サトシリセット


ドラゴンクエストユアストーリー…実際に、唐突にやってしまったケース。しかし「他者との共存」のようなテーマではなく、「ゲームの否定」が劇中敵キャラにより行われたため、すさまじい不評となった。


胡蝶の夢(ウルトラマンマックス)…ポケモン最終回のラストのように現実と空想が目まぐるしく入れ替わる非常に難解な作品。

スーパーヒーロー戦記…中盤で似たような事をした作品。ただし、こちらは対照的な結果になった。


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