宝田明
たからだあきら
人物・来歴
日本の俳優・声優・タレント。日本の昭和を代表する名優の一人。1934年4月29日生まれ。
デビューは「かくて自由の鐘は鳴る」、その同年公開された「ゴジラ」の南海サルベージ尾形秀人役でブレイク。その後のゴジラ映画(⇒ゴジラシリーズ)の常連となった。その後、ミュージカルへと活動の幅を広げ、テレビドラマ、声優、司会などマルチに活躍している。
若い世代にはディズニーのアニメーション映画「アラジン」のジャファーの声で馴染み深い。
経歴
太平洋戦争中は朝鮮総督府海軍武官の父の転勤に伴い2歳の頃に朝鮮から満州へ移りソビエト連邦の満州侵攻で右腹部を負傷する。終戦後ハルピンからひきあげ、博多から新潟へと移る。
11歳の頃、満州へのソ連侵攻時にダムダム弾で撃たれ負傷し、傷口が腐り始めたため、断ち切りバサミを使い麻酔なしで手術した経験がある(宝田は「掴んでいたベッドのパイプが手の形にひしゃげる程の激痛だった」「ジョリジョリと肉が切られる音が忘れられない」と語っている)。この傷は現在も残っており、気圧や天気によって痛むと宝田は語っている。
(「ミンボーの女」で全裸になった宝田のシーンは、傷口を映さないように配慮したアングルで撮られている)
また知り合いの夫人が眼前でソ連兵に強姦されたり、母親がソ連兵に凌辱されたと思しき事態に遭遇したこともある。またソ連軍に強制使役に行って行方不明だった三兄が、再会するも心を閉ざしてしまったりなど、これらの経験からソ連=ロシアに対する嫌悪感が強く、露製作の映画・バレエを見ると「吐き気をもよおすほどゆるせない気持ちが沸き起こる」として観たくないと述べている。
上記の経験から、俳優業だけでなく、戦争の経験者・被害者として各地で戦争体験を伝えようと講演会やトークショーも多く開催している。
1953年、東宝ニューフェース6期生となり「ゴジラ」主演に抜擢される。その当時には珍しく180センチを超える長身で、彫りが深く端正な顔立ちであった。
ゴジラには特に思い入れが深く、当時はCG技術などもなく、ゴジラの登場部分は別撮りだったため、撮影中は漠然としたイメージのみで撮影していたが、完成した映像を試写室で初めて見た宝田は、自身と同じ戦争の被害者であるゴジラが、人間によって海に葬られる姿に号泣してしまったという。
以来、様々な場で「僕はゴジラの1番の親友」と名乗り、自伝『銀幕に恋をして~ぼくはゴジラの同期生~』でも、タイトルにゴジラの名前を入れるほどの愛を注いでいる。
「いずれはゴジラとアイコンタクトを取れるような役をやりたい」と語っていたが、その夢は叶わなかった。
海外でもその名は高く、『スターウォーズ反乱者たち』のベンドゥ役の声優の起用のきっかけは、監督がゴジラのファンであり、そこから宝田が『アラジン』のジャファー役をやっている事を知り、オファーをしたのがきっかけである。
中国でも人気があり、「宝田明(ホウデンメイ)」(デンメイさん)と呼ばれていた。本人も満州時代の経験から中国語が堪能で、若い頃は森繁久彌や三船敏郎と中国語で監督の悪口や下ネタの話をしていたという。
また満州にいた頃の初恋の中国人女性と番組で再会を果たし、号泣したというエピソードもある。
『新平四郎危機一髪』の撮影中に高所から転落し、足首が皮一枚で繋がっている状態になるほどの大怪我を負っており、それ以来足首にボルトを埋め込んでいる影響から正座が出来ないため、時代劇にはあまり出られないと語っている。
(必殺仕事人に出演した際は、座る時は立て膝の状態で演技をしている)
2017年 羽田空港のエスカレーターで転倒し、額を19針縫った。
羽田に到着し、両手に荷物を持ってエスカレーターを降りていたとき、降りる寸前に白いワンピース着た女性に押されてつんのめった。両手がふさがった状態だったためエスカレーターの板に額を強打し出血したが、女性はそのまま立ち去った。
流血した宝田をやじ馬がスマホで撮影したため「失敬な。辞めて下さい」と言いやめさせたという。
晩年は病気がちで入退院を繰り返していたが、それでも尚、俳優・プロデューサーとしての活動を行い、2022年4月1日公開の映画「世の中にたえて桜のなかりせば」にて、乃木坂463期生・岩本蓮加と共にW主演を務め、さらに本作のエグゼクティブプロデューサーを務めた。自分1人では起き上がれない程腰痛を悪化させていたらしく、同年3月10日には、車椅子姿ではありながら完成披露舞台挨拶に出席し、「新人の宝田明です、これから5時間かけて舞台挨拶を行うということですが、皆さん覚悟するように」と冗談を言いながら、映画製作への飽くなき探究心を語っていたり、共演した岩本の演技を絶賛していたりと元気な姿を見せていたが、12日に緊急入院、13日に容態が急変し、翌14日に誤嚥性肺炎により急逝した。享年87歳。4月に迎える米寿を目前にしたあまりにも突然の死だった。
訃報は18日に報道され、葬儀はコロナ禍もあり近親者のみで行われた。
ロシアのウクライナ侵攻にも進言し「社会性のある映画を作らなくては」と意気込み、岩本に「また一本映画を一緒に撮りたい」「お互い20、90になったらまた共演したい」と話していたり、次の仕事にも意欲的だったといい、亡くなる直前の11日も体調を崩しながらも仕事をし続けていたという。遺作の続編や舞台化のプランもあがっていた。
初代『ゴジラ』の「ゴジラ以外の人間の」メインキャストや関係者の中で唯一令和まで活躍していたが、宝田の逝去により初代『ゴジラ』のメインキャストは全員鬼籍に入ったことになった。
平和を誰よりも愛し、昭和・平成・令和に渡って活躍した生涯現役を体現したような人生だった。
家族
2男1女
児島未散(長女 歌手・女優。母はミス・ユニバースの児島明子)
6人兄弟の五人目でもある
(兄三人、姉一人、弟一人。本来は7人兄弟らしいが、長男は幼くして亡くなっている)
兄の1人(三兄)は強制労働に連れて行かれ、引き揚げの際に置いてけぼりにされたことで心に傷を負い、家族と疎遠になってしまったが、唯一宝田とだけ連絡を取っていた。しかし宝田は兄が戦争によって心身共に傷ついてしまったことを生涯悔やんでいた。
また満州時代に犬を飼っていたが、愛犬は引き揚げの際に隠して汽車に乗せたはずが、いつの間にか汽車の外に下ろされ、発車した汽車を必死に追いかける姿が70年以上経った今も忘れられないと語っている。日本で暮らすようになってからも度々犬を飼っていたらしい。
戦時中には豚も飼っていたらしいが、後に非常食になったという(宝田の冗談なのかは不明)
「アラジン」のジャファー役について
ディズニー映画『アラジン』のジャファー役は本人は「もしジャファーが2枚目のキャラクターだったら断っていた。アラジンの中でジャファー程魅力的な男はいない。虎視眈々、慇懃無礼で。役として幅が広くて面白くて、僕も好きなキャラクターだ」と話している。
結果、その声があまりにもハマり役で、ディズニー本社から「今後全てのジャファーの声は宝田明を指名するように」と宝田の元に連絡があったらしい。
それもあり、最後に音声が収録された2021年の約29年に渡り、実写(実写映画・ディセンダント)以外の全てのアニメ、ゲーム、イベント、パーク、CDの音声は全て宝田が演じており、2022年に宝田が亡くなるまでジャファーはディズニーヴィランズで唯一映画公開時から(実写を除く)全てのメディアで声優が変わらないキャラクターだった。最後のジャファーの声の仕事はディズニーのアプリゲーム『ツムツム』の蛇ジャファーと思われる。
また前述したように、ジャファーの声をきっかけに入る仕事も多く、宝田自身もジャファーを大変気に入っていた。
(実写の声を担当しなかったのは、上記の理由により宝田が断った可能性もあるが、詳細は定かではない)
奇しくも訃報が発表された2022年3月18日はアプリゲーム『ディズニー ミュージックパレード』で、ジャファーのライドが期間限定で実装される日だった(声の収録はなし)またこの年は『アラジン』公開30周年の節目の年でもあった。
存命中に公開された実写版では北村一輝が演じていたが、彼が後任を務めるのか不明(実写版の声優が後任になったのはプーさん役のかぬか光明という実例がある)。
「ゴジラ」に登場する尾形秀人について
尾形秀人は南海サルベージ所長。若くハンサムで山根恵美子(演じるのは河内桃子)という許嫁がいる。(しかし二人は結婚しなかったことがのちの「ゴジラVSデストロイア」で判明する)
恵美子の父、古生物学者山根恭平博士(演じるのは名バイプレーヤーの志村喬)を尊敬しているがゴジラの対処方法を巡って口論となる。山根博士は「水爆実験の洗礼を受けてもなおも生き続ける不思議な生命力のゴジラは貴重な資料であり研究もしないまま抹殺すべきではない」と主張、「戦後今もなお日本に覆いかぶさり続ける原水爆と同じ脅威であるゴジラを野放しにすべきではない」という緒方に「帰りたまえ!」と一括する。そのため緒方は山根博士から恵美子との結婚の許しを得る機会を逃してしまう。
恵美子が兄のようにしたう青年科学者芹沢大助(演じるのは名優・平田昭彦)とは恋敵という設定である。しかし芹沢は戦争で負傷し隻眼で顔も焼けていたため恵美子とはうまくいかなかった。結局、芹沢は自身の開発したオキシジェンデストロイヤーを使い、緒方と恵美子に「幸せになれよ」と言い残しゴジラとともに東京湾に消えてしまった。
緒方と恵美子が結ばれなかったのは見る者にとって唯一の救いである。