アタリショック
あたりしょっく
概要
簡単に言ってしまえば、クソゲーが大量に流入したことでユーザーおよび販売店が興味を失った結果、家庭用ゲーム市場が崩壊した事件である。転じて消費者や小売が「付き合いきれなくなり」市場が衰退する現象をこう呼ぶこともある。
現在では様々な誇張や誤解により、半ば都市伝説的に語られることも多い。
また、崩壊したのはあくまで家庭用ゲーム機市場であり、それなりにお金もかかる大人の趣味であったPCゲームはそれほど影響を受けていない。寧ろライバルになる家庭用ゲーム機がファミリーコンピュータ登場まで消えたため、ゲーマーがパソコンを所有するようになり市場が拡大したとも言われる。
発端
そもそも「アタリ」とは、ノーラン・ブッシュネルという人物が立ち上げた会社の名称である。
当時のゲームはピンボールとエレメカが主流であり、市場そのものもまだまだ小規模だった。そんな中、アタリ社が片手でプレイできるテニスゲーム『PONG』を開発し、コンピュータゲーム市場を一気に活気付かせる。
この波に乗ろうと、次々とゲーム業界に参戦する企業が増える中、ブッシュネルは次回作開発のために予算の融資を受けたがっていた。しかし当時のゲーム市場は認知度が低く、業界のルールも未成熟だったために、既存のゲームのプログラム改変OK、コピーOKという無法地帯だった(そもそも当時はコンピューター関連の著作権や肖像権はまだ無かったのだ)。そのため他企業からは「得体の知れないよく分からない企業」と敬遠され、なかなか融資を受けられずにいた。
しかし、当時ゲーム市場の覇権を狙っていたワーナー・コミュニケーションズ(以下、ワーナーと表記)がアタリを買収。アタリはワーナーの連結子会社となる。
ワーナーからの融資を獲得したアタリは1977年に、家庭用ゲーム機「AtariVCS(=Video Computer System)」を発売。これは、現在では珍しくもない「一つのハードウェアが複数のソフトウェアに対応している」という、当時としてはかなり画期的な発明を導入したものだった。だが、この種のゲーム機および家庭用パソコンが複数のメーカーから大量に発売されていたという状況もあり、ユーザーは混乱し、売り上げは伸びなかった。
ワーナーがVCSを育てようとする一方で、ブッシュネルはさっさと次の開発を行うべきだと考えており、ワーナーと袂を分かったブッシュネルは5年間ゲーム業界に関わらないことを条件に、退職金を貰ってアタリを退社する。
大量の在庫を抱えるワーナーとアタリ社だったが、そんな時に奇跡は起こった。タイトーが開発した日本製のアーケードゲーム『スペースインベーダー』(通称・インベーダーゲーム)がAtariVCS用に移植されたのである。家で手軽にインベーダーゲームが楽しめるとあってAtariVCSは飛ぶように売れ、年末であったことも拍車をかけ、アタリは4000万ドル分もの在庫消費に成功した。
これがあの事態の引き金になるとは誰が予想できただろうか……。
栄光
インベーダーゲームのヒットを受け、総合利益の三分の一を占めるまでになったため、ワーナーが始めたのはアタリの綱紀粛正だった。
というのもアタリ社は元々ブッシュネルの個人経営会社であったため、ポン生産のために数多くの人間を採用したが、生産を急がせる余り採用面接をほとんど行わず、職安にいた人間をそのまま引っ張って来たり、案内を見て会社前に立った人間を即採用していたために、社内はゲーム開発に長けていながらもヒッピーの様な者が大多数を占め、工場内にはマリファナの臭いが立ち込め、大音量でロックが鳴り響いていた。
ワーナー側からすればそんな者達が働いていれば会社の信頼に関わると思ったのだ。
しかし自由な社風を求めて反発した一部の社員はアタリを抜け、新しい会社を設立する。これがアクティビジョン社である。
アクティビジョンは当初、アタリの許可無しにAtariVCS用のソフトを開発していたため、アタリから訴訟を起こされ長く争うこととなる。
そんな折、ライバル会社のコレコ社が1982年にコレコビジョンを開発。AtariVCSを遥かに上回る高性能機だった。更に高い拡張性を備え、AtariVCSの互換ユニットも発売された。ユーザーの需要に応えたコレコビジョンは100万台(一説によると600万台)もの売り上げを記録した。
焦ったアタリ・ワーナー社は新ハードであるATARI5200を開発する。これに伴い、AtariVCSはATARI2600に改名する。AtariVCSは発売から5年が経っており性能的に陳腐化していたので、新ハードを発売すること自体は正しい決定だった。だがATARI5200は(元の8ビットパソコンにもATARI2600にも)互換性が無く、販売は上手くいかなかった。
1982年、アタリ社とアクティビジョン社が長い裁判の末に和解。アクティビジョン社がアタリ対応のゲームを開発・販売する際にはアタリ社へロイヤリティを支払う、ということを条件に双方の合意が成された。ちなみにこれが世界で初めて誕生したサードパーティーである。
この流れを受けて、アメリカ各地にアタリでゲームを出したいサードパーティーが誕生。アタリ社も得られるロイヤリティを目当てに次々と承認していった。これもまた、悲劇への布石となる。
崩壊
ライバルのコレコ社を大きく引き離し、ゲーム業界の覇者として君臨するアタリ。
だが業界の黎明期だけに、その経営は後年から見ると杜撰そのものであった。
1981年、絶好調でハードの生産が追いつかないアタリ社は、各販売代理店に対し、よりによって翌年分の一括発注を求めてしまう。売れ筋ハードのアタリが品切れになることを恐れた代理店は大量の水増し発注を行い、アタリ社はその発注を鵜呑みにして需要を予測し生産を行うのである。この注文が翌1982年になってキャンセルされ、莫大な在庫となることも知らずに……。
1982年、アタリ社自身が販売した2つのビッグタイトルが崩壊の引き金を引いた。
一つは、1980年にナムコが開発したアーケードゲーム『パックマン』。アメリカに輸入され大ヒット(のちにギネスブックにまで載った)したため、アタリはライセンスを得てアタリ2600に移植。これを82年に発売したのだが、これが後に詐欺パックマンと呼ばれる劣化移植。「あのパックマンを家で遊べる」という期待感から飛ぶように売れ、ユーザーにとっての爆弾と化してしまった。更に、当時のATARI2600の出荷台数1000万台を上回る1200万本発注するという状況が発生していた。
と、言うのもATARI2600は大ヒットしたが、その結果市場の需要がAtariの生産能力を大きく上回ってしまい(コレコ等から当初権利無視で発売された互換機を最終的に認めたのも、アタリだけでは市場を支えられなくなっていたというのも一因)、その結果アタリでは発注に対して1未満をかけた割当制度を取るようになっていたのである。
そのため流通業者からその末端の販売店では、実際に発注したい数よりも水増しした数で発注をするのが常態化していた。
問題はアタリ自身がそのことを把握していなかったことである。アタリは需給状態改善のため、1年スパンの長期事前集約発注制度を導入した。しかしこれに対して販売店はこれまで同様水増し発注をかけてしまったのである。
日本でもこのような現象はしばしば起きるが(例:『アイドルマスターDS』)、まだこの頃はアメリカはおろか日本でも「ゲーム単体で赤字を出しても、IP(Image Product)を固定化できれば半分以上成功」という考え方は存在していなかったため、過剰発注はそのまんま負債と化した(IPが固定化されると後々再出荷や次世代機へのリメイク移植が要求されるため、長期スパンにはなるがコストを回収できる)。
この状況で、伝説のクソゲーとして名高い『E.T. The Extra-Terrestrial』が登場することになる。
このソフト、クリスマス商戦に合わせるためになんと6週間という超短期間で開発されたシロモノであるにもかかわらず、バカ売れを確信していたアタリ社とワーナーは、版権元のユニバーサル・ピクチャーズに多額のライセンス料を支払って製作。出荷数400万本の内、90%程が売れるだろうと見込み、業績などの成長率が50%にもなると予測していたようである。
……取らぬ狸の皮算用とは、このことである。
ネームバリューも手伝って出荷数400万本中150万本ほどの売上を記録したものの、そんな短期製作で良作が生まれる訳も無く、伝説級のクソゲーを購入してしまったユーザーの悲鳴は凄まじいものとなり、小売業者からは返品の嵐となった(当然、400万本の出荷分とライセンス料は回収できず大赤字であった)。
更に、増えに増え過ぎた劣悪なサードパーティーも追い打ちをかける。
多くの会社がノウハウ無しでいきなりゲーム市場に飛び込んだため(一部には食品会社やペットフードメーカーまでサードパーティーにあったという)、市場は粗製濫造されたクソゲーで溢れ返り、他社のゲームの丸パクリや、そもそも起動すらしない不良品まで横行する始末であったとされる。
おまけに当時はインターネットはおろかゲーム雑誌すら未発達で、ユーザーは買って実際に本体にソフトを差すまでそのゲームが本当に良いゲームなのかが分からず、購買欲を下げる原因となった。
これらのサードパーティーをホイホイ承認してきたアタリの信用はとうとう地に落ちた。
また、1982年の夏にはコモドール社がゲーム機能を備えたパソコン「コモドール64」を発売。当然ながらATARI2600よりも高性能なうえ、当時としては性能に比した低価格でゲーム機の流通ルートに乗っかり、ゲーム機の需要を食い始めていた。
その一方で前述のコレコビジョンに加え、マテル社の「インテレビジョン」やエマーソン社の「アルカディア」など様々なゲーム機が市場に溢れ、ゲーム機・ゲームソフトとも供給が過剰になっていた。
もっとも、アタリに危機感が無かったわけではない。失敗が明らかなATARI5200の代替品を他社ライセンスで補うことを考え、ATARI2600と同じモステクノロジー製CPU搭載で、なおかつATARIとはすぐには食い合わないビデオゲーム機を比較検討していた。
その頃、日本ではトイ&ホビーベンダーによる黎明期のテレビゲーム機戦争の死闘に決着が付こうとしていた。勝者の名は任天堂ファミリーコンピュータ。
アタリはATARI5200の代替機としてファミコンを市場に供給することを決め、任天堂との交渉に入ったが、アタリの能力やモラリズムを疑問視していた任天堂はハード及びソフトの製造を日本国内に限るという条件を提示し、交渉は難航した(もっとも、アメリカのビジネス交渉の場においては、この程度のハイボールは別に珍しくもないのだが)。
そして……
“突然死”
1982年の冬から1983年にかけて、散々クソゲーを掴まされたユーザー達、売り手である問屋や小売は、ビデオゲームそのものを警戒し、「買い控え」の状態に陥った。それまでの勢いが嘘だったかのように、ゲームが全く売れなくなったのである。市場は急速に冷え込み、意欲のあるゲーム会社がどんな良作を作っても、クソゲーの山の中に埋もれてしまうという負の連鎖が始まった。
市場崩壊のスピードは極めて速かった。
この流れを読めなかった業者は倒産し、それによって市場に流れた不良在庫で各社がワゴンセールを開始。小売店は在庫を処分するため新製品を仕入れる余裕を無くし、商品の流通が完全に焦げ付く状況となった。
株式市場に与えた影響も大きく、栄華を誇っていたワーナーとアタリの天下は遂に崩れ落ちたのである。
同じ時期、コレコはコレコビジョンの事業は好調だったものの、8bitホビーパソコン「Adam」がIBMの新型機発表にマトモにかち合い、更に酷い初期不良を発生させたことで約3000万ドルの損失を出してしまい、Chapter11(連邦倒産法第11章・日本の会社更生法に相当)申請目前まで追い込まれたことにより、コレコビジョンの周辺機器や自社ソフトを供給するための資金を用意できず、惰性で販売を続けた後、1984年に製造終了するという事態になった。
この2大メーカーの衰退により市場全体が急激に縮小、他企業もビデオゲーム市場から撤退。多くの中小企業は投資を回収できずに倒産を強いられ、大手サードパーティーも相当数が倒産に追い込まれた。アクティビジョン社はパソコン用ゲームにも手を出していたため、どうにか倒産は免れた。
また、既にトイ&ホビーベンダーによる死闘でアメリカに先んじて熟成の段階にあった日本市場だが、当時はまだ為替レートが1US$≒¥200~240をウロウロしている時代だったため、任天堂と闘うにもアメリカの既存ハードを買うより国内独自開発に踏み切った方がローコストであったため、これらの資産を金余り日本企業に切り売りすることもできなかった。
当然ながらアタリと任天堂の交渉も無に帰した。
こうして家庭用ゲーム市場は崩壊、というより“突然死”を迎えた。83年こそ何とか踏みとどまっていたものの、84年には市場全体が82年の三分の一を割り込み、85年に至っては市場がゼロ同然となる凄まじい有り様であった。
この頃はゲーム&ウォッチのような携帯ゲーム機の登場や家庭用コンピューターの低価格化が進んでおり、特に家庭用コンピューターにおける82年末期の業界の盟主ともいえるコモドール64はゲーム機以上の高性能を誇り、VCSよりも低価格と美味しい所だらけだった。
そのため当時の中流家庭にもコンピューターが流通し、クソゲーだらけの家庭用ゲームを買う理由が無くなったのだった。
更にはアタリやコレコでは上手く実現が出来なかったRPG(日本ではADVとして分けられるカテゴリーも、北米ではRPGに含まれる)が家庭用コンピューターに現れ、安価な機器で高クオリティなゲームができるというユーザーの要望に叶うものだったことも家庭用ゲーム衰退に拍車をかけたのだった(RPGをビデオゲーム機で本格的に実現したのは、1985年日本発売のファミコン版『ポートピア連続殺人事件』が嚆矢となる)。
もっとも家庭用コンピュータも長い栄華を誇ることはできなかった。規格が濫立して一時期のビデオゲーム機と同様の混乱を起こした後、日本市場においてNECが本来ハイエンドレンジにいるはずの高性能機に16色カラー表示とFM音源を搭載して、アメリカの家庭用コンピュータに当たるホビーパソコンを残らず駆逐する(余録で自社のPC-8801mk.IIもやっちまうが)様を目の当たりにした結果、資本が家庭用コンピューターメーカーから逃げ出し、技術面でNECと正面切って戦えるIBMとその互換機のメーカーやAppleに集中したため、死屍累々を晒すことになる。
ワーナーはアタリの経営再建を試みるが、結局は家庭用ゲーム・パソコン部門をアタリコープ社に、アーケードゲーム部門をアタリゲームズ社に分割し、1985年には経営権を手放すことになる。
アーケードゲームやパソコン用ゲームが生き残った一方で、北米の家庭用ゲーム業界には、長い氷河期時代が訪れることになるのだった。
雪解け
VCS改めATARI2600がアタリショックを引き起こしたのは事実だが、一方で氷河期における下慣らしをしたのもまたATARI2600だった。ユーザーがより高価なパソコンに逃げたことからも分かるように、アメリカではまだビデオゲーム機というのは中高生以上向けのアダルトホビーという認識だった。しかし、アタリショックによって店頭価格が一気に下がったことで子供がお小遣い程度で買えるようになった結果、日本同様低年齢層向けホビーとしての下地が出来上がっていくことになる。
1985年、プラザ合意により円ドルレートが一気に1US$≒¥100~130まで暴騰。本来なら輸出に不利になる状況だが、日本の優良企業にとっては北米において融資が受けやすくなり、日本企業の北米進出を加速させていく。
既にNintendo of America(NOA)を設立していた任天堂は自力での北米進出を試みるが、アタリショックの氷河期を前にしてファミコンをそのまま輸出しても売れないと考え、当初パソコンとして家電流通に乗せるため、キーボードや外部補助記憶装置を持ったホビーパソコンとした「AVS(Advanced Video System)」を発表した。
ところが発表直後に総スカンを食ってしまう。ユーザーや流通業界はこの頃、価格の割には大した性能も無く互換性も無いホビーパソコンに飽き飽きし始めていたのだ。
そこへ、「アメリカ製ホビーパソコンをシャットアウトした日本」から「噂の大ヒットビデオゲーム機」を北米で展開するとの前評判が流れていたため、逆にその期待を裏切ってしまったのだ。
但し、AVSの開発費用は日本国内で取り返している(ファミリーベーシック)。
しかし、任天堂は一方で何とかホビー流通でファミコンを輸出できないかと苦心していた。その結果、ロボットや光線銃型コントローラをバンドルして「ゲームコンソールとは違う、エンターテイメントのためのトータルシステムだ」との売り文句で流通業界を説得し、「NES(Nintendo Entertainment System)」の名で発売にこぎつける。
NESによって北米ビデオゲーム市場は雪解けを迎え、一気に再生していく。
ただし、その代償として北米ビデオゲーム市場はMicrosoftが参入する2001年までの約15年間に亘り、日本企業の独壇場(もしくは、任天堂とセガの代理戦争状態)となった。
「クソゲー」の項目にこっそりと記述されているが、かつてアタリショックによって発生した売れ残りの『E.T. The Extra-Terrestrial』が350万本ほどコンクリ詰めにされてニューメキシコの何処かに埋められたという都市伝説が存在していた。
それ以前からゲームの墓場の噂は存在していたようで「当時の子供達が【ビデオゲームの墓場】から【Atari2600】を盗掘して持ち出していた」といった噂も立っていた。
当時の『E.T. The Extra-Terrestrial』のプログラマーはこの噂を頑なに否定したが、この都市伝説はかつてのゲーム業界の悲惨な事件を象徴するものだ、という認識でまとめられた。
……しかし、近年の発掘調査によってその存在が明るみに出ることになる。
事件の発端は、この都市伝説にまつわるドキュメンタリー番組の制作のための発掘調査。その様子は一般公開されて注目を集めていたが、噂自体が眉唾ものだったので「さすがに本当に発掘はされないだろう」と誰もが高を括っていた。
しかし2014年4月26日に開始された発掘作業中、本当に発掘されてしまったのである(埋められていたゲームの本数には誇張があり、実際に埋められたのは72.8万本だったことが判明した)。都市伝説が真実であることが証明されたため大きな話題となった。この様子は「Atari:Game Over」のタイトルでドキュメンタリー映画化されている。
余談
- この事件を最初に「アタリショック」と呼んだのは米トイザらス副社長を務めたハワード・ムーア役員である。1990年の『日経エレクトロニクス』の同氏に対する取材記事の中にこの言葉が登場し、以後日本ではこの呼称が定着した。
- 海外ゲーマーの間では、この事件は「Atari Crash」と呼ばれることもある。
- アタリ2600は、日本で発売する際に筐体のデザインやコントローラーの形状を変更したため、アタリ2800というタイトルで売られた(ちなみにAtari2700というものも開発はされていた)。
- 『ポン』生産メンバーには、後にアップル社を立ち上げるスティーブ・ジョブズもいた。
- このアタリショックは家庭用パソコン(マイコン)が普及していった時期と重なっており、アメリカにおいてこの種のマイコン、特にヨーロッパや日本製のものが定着しなかった一因ともなったとされている。
- 後に任天堂の社長はこの事件について、「サードパーティによる低品質ゲームソフトの乱発がアタリの市場崩壊を招いた」(山内溥)、「粗悪なソフトが粗製濫造されたことで、お客さんからの信頼を失ってしまった」(岩田聡)と分析している。
- 後年の経済学者達によると、「アタリショックという事件自体が経済学的に曖昧」で、「クソゲーの乱発がアタリショックの引き金になったかは証明されていない」らしい。「そもそもアタリ2600のヒットは『スペースインベーダー』の移植に伴って突然現れた一過性のブームであり、それ目当てでアタリ2600を買ったユーザーの多くは他のゲームに対して興味を持っていなかった」という見方が現在は強い。そしてスペースインベーダーのブームが沈静化した結果、ユーザーはアタリ2600自体に興味を失い、他のソフトが売れなくなったとされる。そして、それはクソゲーの乱発がなくても変わらなかっただろうとされる。
- とはいえクソゲーがユーザーおよび売り手を苦しめたことは紛れもない事実であり、そのため任天堂はファミコンの発売時にアタリの二の舞とならないよう、サードパーティーの管理を徹底したという(管理徹底のためにこの事件自体を任天堂がでっち上げた、という説もあるらしいが、アタリショックという事件と事件をあらわす単語自体はファミコン登場以前から存在していたので、言いがかりもいい所である)。
- なお、この当時アメリカではゲーム&ウォッチなどの「電子ゲーム」は引き続き売れていたとされる。
- 勘違いしてはならないのは「アタリの出すゲームがクソゲーだらけ」だったわけではなく、前述したとおり、ゲームそのものの供給過剰とサードパーティーの劣悪さ、そしてアメリカ経済界の良すぎる引き際(日本でもアタリショック再現の兆しが見えることはあったが、日本企業特にここの往生際の悪さが市場の“突然死”を防いでいる)の合わせ技によって、このショックが引き起こされたという事である。
- 当時にも「ゲームを評価するメディア」は存在していた。
- この事件は特に任天堂、Apple、Google、ソニーに対し大きな衝撃を与えており、任天堂は上記の管理徹底を、ソニーはソニーチェック、AppleやGoogleはAppStoreやGooglePlayStoreを開設しコンピュータウイルスを弾くことで粗悪・危険なソフトを出回らなくし、同時に客から喜ばれない機能の除去(多くのユーザーはIEよりChromeを好んだ)やOSのUI等のシンプル化(例:iPhone、ChromeBook)を行い、それがこれら企業の成功に繋がったとも言われている。