概要
ソニーでプレイステーションを開発した技術者。1950年生まれ。
名字は「久多良木」と表記されることも多い。
1975年に電気通信大学を卒業し、ソニーに入社。
入社直後の久夛良木は液晶ディスプレイの開発に取り組んでおり、音量バーグラフ装置を完成させている。この装置を見た井深大名誉会長(当時)に声を掛けられ、商品化することが決定された。但し当時液晶は高価だったため、久夛良木はこれをLEDに変更している。
『LED音量バーグラフ装置』はソニー社内外の機器に搭載され、出荷数1000万個を超えるヒット商品となった。
当時のソニーはウォークマン等のアナログ機器が主流だったが、久夛良木は早くもデジタル技術が次の主流になると考えており、森園正彦副社長に頼み込んで1983年に情報処理研究所に移った。
久夛良木はこの時期に発売されたファミリーコンピュータ等のゲーム機と、研究所内に置かれていた業務用3DCGエフェクタ『システムG』に強い衝撃を受けた。当時3DCGは高価だったものの、10年後にはこの技術を家庭用ゲーム機にも導入できるようになると確信しており、「エンターテインメントのためのコンピューター」を作りたいと望むようになった。
当時の久夛良木を知る人々は口を揃えて「若い頃から飛び抜けていた」と認めている。
しかし同時に、社内のあちこちで衝突し、言い争いを繰り広げることでも有名だった。
何事でも強攻してしまう久夛良木は社内でも敵を作りがちだったと言われている。
井深と共にソニーを創業した盛田昭夫は「生意気な人たちの挑戦的な姿勢が、ソニーの原動力です」と語っていたが、久夛良木は正にお手本のような『生意気な人』そのものであった。
その後ファミコン・ディスクシステムのクイックディスクに不満を持ち、任天堂に自ら開発した磁気ディスクシステムの売り込みをかけ始めた。売り込み自体は失敗に終わったものの、これが切っ掛けでファミコン開発者・上村雅之との知己を得る。後にPCM音源の売り込みに成功し、スーパーファミコンにはソニー製の音源チップが搭載されることになった。
同時に久夛良木は任天堂に対し、CD-ROMを導入するべきだと熱心に訴え続けていた。光ディスクに消極的な任天堂は最後まで意欲を見せなかったが、最終的には根負けし「どうにもならないと思うが、CD-ROMをやっていい」と許可を出した。
久夛良木は当初、SFCに接続するCD-ROMドライブを開発するつもりだったが、これではディスクシステムのようなサブ・システムの位置付けとなってしまいインパクトに欠けると考えたため、CD-ROMも扱えるSFC互換機を開発することに決めた。
当時ソニー上層部の大半がゲーム事業進出に反対していたが、大賀典雄社長(当時)が賛意を示していたことで、プロジェクトが実現する運びとなった。
1990年1月に両社間で契約が結ばれ、SFC互換機『PlayStation』の共同開発がスタートした。
SFC用ROMカセットと、スーパーディスクと呼ばれるCD-ROMソフトの両方を扱える互換機になる予定だった。
スーパーディスク用ゲームソフトの開発はソニー・ミュージックエンタテインメント(SME)が担当することになり、ここでSMEの丸山茂雄副社長(当時)と知り合う。
しかし上層部のほとんどは変わらずゲーム事業に反対しており、逆風の強いプロジェクトだった。
プロジェクトに横槍を入れられることを恐れた久夛良木は、ソニー社内の人間にも任天堂との契約書を見せようとしなかった。
1991年に、当時ソニー社内に複数あったCD-ROM開発チームが各々バラバラに動いている状態だったため、一度CD-ROM開発チームを集めて話を聞く会議が行われた。この時に徳中暉久(後のSCE2代目社長)は久夛良木と初めて出会ったのだが、徳中にも契約書を見せてくれなかったという。
同時期に任天堂が『SFC用CD-ROMアダプタ』を発表していたこともあり、ソニー上層部は久夛良木がこっちの方を開発しているものだと思っていた。
1991年6月のCESにて、ソニーはPlayStationを発表。
任天堂もフィリップスと共同開発したSFC用CD-ROMアダプタを発表した。
しかし、これを見たソニー上層部は「任天堂による契約破棄」と解釈し、「破棄されるような交渉をしていた」と久夛良木にも非難の矛先を向けた。
元々ゲーム事業への参入に否定的であり、久夛良木のことを良く思っていなかった上層部はPSプロジェクトに集中砲火を浴びせ、プロジェクトを中止に追いやった。
しかし大賀社長は「ソニー本体に置いておいたのでは、彼の能力が周囲から殺されてしまいかねない」と考え、久夛良木をSMEに一時的に避難させた。
久夛良木はゲーム事業進出を諦めず、ソニー独自でゲーム機を開発するべきだと考えるようになった。
SMEの丸山副社長も同意見であり、久夛良木は丸山副社長を通して大賀社長にこの意見を伝え続けた。
1992年6月にゲーム事業の進退を決める会議が行われたが、大半の役員は「ソニーが負けていい相手は悔しいけど松下電器だけ」「任天堂などという玩具屋と勝負して負けたら格好悪い」という論調でゲーム事業からの撤退を主張していた。
尚も弱腰の役員達に対し、久夛良木は「本当にこのまま引き下がっていいんですか。ソニーは一生笑いものですよ」と説得・・・というより挑発し、最終的に大賀社長が「Do it!(やってみろ)」とゴーサインを出し、ゲーム機開発が決定した。
1993年11月にソニー本体とSMEの合弁でソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)が設立される。
丸山と徳中が副社長に就任。
久夛良木は取締役兼開発部長に就任し、『プレイステーション』開発の指揮を執った。
ソニー本体の盛田昭夫会長(当時)もこの事業に期待しており、プレゼンを聞いた際に久夛良木の手を握り「これは面白い。こういうビジネスを望んでいたんだ」とチームを激励した。
(ただ同時に盛田会長は略称の「プレステ」の「ステ」の部分が「捨て」を連想させるためこの呼称を避けており、「プレイステーション」という名前についても再考を求めていた。盛田会長の病気引退が無ければ「プレイステーション」の名称が変わっていた可能性もあったという)
1994年12月3日に、据え置きゲーム機『プレイステーション』が39800円で発売された。
この時点で競合するセガサターンよりも安価な3Dゲーム機だったが、更に久夛良木は後々技術の進歩で部品が値下がりすること、代替できるパーツが生まれることを見越して設計しており、型番を重ねるごとにPSの部品点数は削減され、製造原価も下がっていった。
これは価格競争においても有効に働き、PSは最終的に15000円まで値下げすることができた。
CD-ROMを採用したためソフトの方も安価であり、極めてリーズナブルな価格で高品質な3Dゲームを楽しめるようになった。
久夛良木がSFC時代からCD-ROM採用を熱心に説いていたのは、ゲームソフトの流通改革が最大の理由だった。CD-ROMはROMカセットよりも低コストかつ短時間で生産することができ、更に音楽CDを長年扱ってきたソニーのノウハウも投入されたことで、ソフトの低価格化・供給の安定化に大きく寄与した。
「いくぜ100万台」から始まったPSは最終的に前代未聞の売上1億台を突破し、記録的大成功を収めた。
1999年に、SCEの社長に就任。
2000年3月4日に後継機の『プレイステーション2』を発売。
初代PSから格段に高性能化された上に上位互換も備えていた。更にDVD再生機能も持ち合わせており、久夛良木理想のエンタテインメントマシンに向けて一歩前進した。
1億5500万台以上を売り上げ、ゲーム機史上で最も売れたゲーム機となった。この記録は2020年現在に入っても破られていない。
PS2を発表した頃にPSシリーズの将来の見通しについて訊かれた際には、ユーザーがいつでもどこでもネットワーク経由でゲームを楽しめる時代が来ると語り、「ネットワークに(ゲーム機を)溶かしたい」と述べた。当時は荒唐無稽だと受け止められたが、現在では久夛良木が語っていた通りのサービスがクラウドコンピューティングという形で一般化している。
2005年辺りにPSの新機種を出す頃には「最大のライバルは携帯電話」になるだろうと語っており、携帯電話の形態がかなり変わっていくことも予見していた。
どちらも1999年の発言であり、久夛良木の先見性が窺える。
2003年4月からはソニー本体の副社長も兼任し、エレクトロニクス・ゲーム・半導体部門の統括を任された。
この頃から、ソニーの次期社長候補と目されるようになる。
PS2時代以降の迷走期
しかし一方で、久夛良木は「増長」したような振る舞いが目立つようになっていった。
1999年3月のインタビューで、ファミコン音源のサウンドトラックは4本で音のディレイがないことに触れ「そんなもんで音楽なんてやれませんよね」「普通の人はそれで感動するかというと、ぼくは感動しないと思う。なぜかというと、それを感動させるのはクリエイターなの。その場合、クリエイターが感動してない、クリエイターがやりたいと思ってない。それで聴いた人が感動するはずがない」と語った。
ファミコン音源は制約が大きかったのは確かだが、そんな制約の中でも多数の名曲が誕生しており、80年代のパソコンやゲーム機風の音源で音楽を制作する『チップチューン』は現在も音楽ジャンルの一つとして定着している。やりたいと思うクリエイターがいて、それを聴いて感動する人も大勢いるのである。
ゲームミュージックを理解しているとは思えない発言であり、ゲーマー層から不興を買った。
(実際、ファミコン時代からゲーム作曲家として活躍しているすぎやまこういちは「1トラックでもメロディ・ハーモニー・リズムを全部表現できるということを、大先輩のバッハがやってるわけですから、「2トラックではできません」というのは、プロのセリフではない」と語っている)
2003年12月に、久夛良木が開発したDVDレコーダー兼ゲーム機『PSX』がソニー本体から発売された。
従来のデジタル家電はインタフェースが無機質で分かりにくいのが当たり前だったが、PSXはGUI「XMB」を採用しており、格段に使い易くなった。一時期はほとんどのソニー製品にXMBが搭載されていた。
しかし、ユーザーから「録画できるPS2」と受け取られたことと、発売直前に一部機能が削除されたことから約8万~10万円という価格に割高な印象を持たれてしまい、売れ行きは芳しくなかった。同時期に同社製DVDレコーダー『スゴ録』が発売され、シェアを共食いする状況になったことも痛手となった。そもそもPSX本体は普通のレコーダーよりも大きすぎる上に、機能面ではPS2本体とDVDレコーダーをそのまま合体しただけの仕様であったため、小型化や低価格化がかなり低速度になったことも原因である。また、PSXの全モデルは地デジレコーダーを搭載していない。
翌2004年に、報道陣から「PSXが意図した『気楽なレコーダー』として評価されず、機能の有無やスペックだけで『ダメな商品』と見られていることをどう思うか」と質問を受けた久夛良木は「何言ってんだ、と思ったね。(マニア向けに作ったのではなく)使いやすさ重視で作ったのだから、そこを見て欲しい。実際、うちでは家族が喜んで使っていますからね」と答えている。
しかし久夛良木の強気な物言いも空しく、PSXは最後まで好転しなかった。分かりやすいCMを打ったスゴ録の方がヒット商品になったこともあり、PSXはその後終息していった。
テレビ部門も久夛良木が統括していたのだが、ここでも薄型テレビ商戦に乗り遅れる失態を演じる。
液晶パネルの自社製造が間に合わず、サムスンとの合弁工場に供給してもらうことで解決を図ったが、低画質パネルだったために市場から無視され、ソニーはパナソニックVSシャープの激戦の中に埋没していくことになる。
2004年12月に携帯ゲーム機『プレイステーション・ポータブル』を発売。
久夛良木が「長男(PS)・次男(PS2)に続く娘(PSP)」と述べて大いに期待を寄せた新機種だったが、発売早々に大量の不具合が発生し、大問題に。
特に□ボタンの効きが悪く、押した時に引っ込んだままになってしまう不具合が多数報告された。
これは基板側の接点とボタンの位置が一致しないという超・初歩的なミスに起因する問題であり、誰がどう見てもすぐに直すべき欠陥であった。
にもかかわらず、久夛良木は「これが私が考えたデザインだ。使い勝手についていろいろ言う人もいるかもしれない。それは対応するゲームソフトを作る会社や購入者が、この仕様に合わせてもらうしかない」「世界で一番美しい物を作ったと思う。著名建築家が書いた図面に対して門の位置がおかしいと難癖をつける人はいない」と述べた。
製造元が果たすべき必要最小限の責任すら放棄した発言であり、当然大炎上した。数か月後にSCEは不具合と認め無償修理を行った。
諸々の失敗を解消できなかったため、2005年3月にソニー本体の副社長を引責退任した。
2006年に後継機『プレイステーション3』を発表したが、同時に価格が62790円になることも発表された。当時はXbox360が39795円、加えてWiiが25000円で発売予定という状況であり、PS3は明らかに高価だったにもかかわらず久夛良木は「安すぎたかも」と発言し、ユーザーから顰蹙を買った。
もっとも、PS3の製造原価は8万円以上だったため久夛良木の発言もある意味では間違ってないのだが、競合との価格差は流石に無視できず発売時には60GBモデルを59980円、20GBモデルを49980円に値下げしたのだが、逆ザヤが大きくなったにもかかわらず引き続きPS3が同世代機の中で最も高価となった。
2006年11月11日にPS3は発売されたが、サードパーティの不足や価格等が原因で普及は伸び悩んだ。
2006年12月にSCE会長に就任。
ゲーム業界に革命を齎した久夛良木氏の末路。
2007年6月にSCE名誉会長に退き、社を去ることになった。
PSPとPS3の逆ザヤはその後もSCEの経営を圧迫し、晩節を汚す形になったと言えるかも知れない。
しかし、技術部門の部下達は久夛良木を深く尊敬していた。
社を去る久夛良木に、技術部門から特別仕様のPS3がプレゼントされた。
当時PS3にはカラーバリエーションは無かったが、プレゼントされたPS3は赤色であり、設計チーム全員の名前が入っていた。加えて内部の様子が見えるスケルトン仕様だった。ちなみに、2023年にジム・ライアン氏がSIEから退社することが決まった際もPS1のカラーリング仕様のPS5本体がジム氏に寄贈されているので前述の話も事実と考えられる。
PSシリーズの開発中、久夛良木は
「エンジニアが"ここぞ"と思った技術とか、部品とか、全部世に出してあげたいじゃないですか」
と語っていた。
半透明仕様のPS3は、久夛良木の無茶な要求に応えた自分達の仕事振りを見せる自慢の一品であり、同時に自分達の成果を限界まで商品に残してくれた久夛良木に対する感謝の一品であった。
退任時に久夛良木はPS3のコスト削減計画・今後2年分の設計モデルのプランを残しており、そのプランも使い切った後の2009年に軽量化・逆ザヤ解消を果たした新型モデルのPS3が投入されている。2010年以降のモデルではYLOD現象をようやく克服した。(スペック面で勝利したわけではないが)PS3はXbox360と互角の市場を形成する程に巻き返し、トップの座の奪還も日本では2012~2014年あたりにかけてようやく成功した。
2009年10月に、人工知能の開発会社サイバーアイ・エンタテインメントを設立し社長に就任。
様々な企業の社外取締役にも就任していたが、2020年にそれまで社外取締役を務めていたアセントロボティクスのCEOに就任。こちらも同じくAIを扱う会社である。
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