概要
藤原北家利仁流の武家。利仁の8代後の子孫・季高が美濃池田郡堀村に住んだことから称したとされる。
戦国時代の当主・秀重は最初斎藤道三に、次いで織田信長に仕え5千石を領した。跡を継いだ長男の秀政も信長、その死後は豊臣秀吉に仕え賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦いに参加し越前北ノ庄(福井県福井市)18万石を与えられた。
小田原征伐中に秀政が若くして亡くなった後、長男の秀治が跡を継ぎ、1598(慶長3)年に上杉景勝の会津移封で空いた越後春日山(新潟県上越市、後福嶋城を築城し移動)30万石へ加増移封された。関ヶ原の戦いでは上杉旧臣らの一揆(上杉遺民一揆)鎮圧にあたり戦後は徳川家康より所領を安堵されたが、秀治の跡を継いだ忠俊の時に筆頭家老の堀直清と異母弟の直寄の対立に始まったお家騒動(越後福嶋騒動)により1610(慶長15)年に改易となった。
一方秀政の次男・親良は秀治の越後移封後に蔵王堂(長岡市)4万石を与えられたが、直清・直寄の父で秀政の従兄弟でもある堀直政と対立し出奔(蔵王堂は秀治の次男・鶴千代に与えられたが夭折したため直寄に与えられる)、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の直臣となり、1611(慶長16)年に下野真岡(栃木県真岡市)1万2千石を与えられ、2度目の移封で信濃飯田(長野県飯田市)2万石となって(後1万5千石)明治維新を迎えた。
奥田氏→奥田堀家
奥田氏は足利氏の支流・斯波氏4代当主・高経の曾孫・氏種が尾張中島郡奥田に住んだことから称したとされる。
戦国時代の当主・直純が堀秀重の姉を娶ったことから姻戚関係となり、子の直政は従弟の秀政に仕えて筆頭家老となるとともに堀姓を与えられた。越後移封後に三条(三条市)5万石を、また次男の直寄が坂戸(南魚沼市)2万石を与えられた。
しかし直政の死後、跡を継いだ直清と直寄の対立が表面化し上述の通り堀宗家と直清は改易、直寄は信濃飯山(長野県飯山市)4万石へ減転封された。その後2度目の移封で越後村上(村上市)10万石となったが、1642(寛永19)年に孫の直定が夭折したため改易となった。
分家
※3家とも華族令公布により子爵に叙爵され、また1877(明治10)年に奥田へ復姓した。
- 椎谷奥田家
直政の三男・直之を祖とする家。堀宗家の改易後に将軍秀忠の直臣となり、大坂の陣では直寄の軍に所属し奮戦し、特に夏の陣では薄田兼相を討ち取る功績をあげた。
1642(寛永19)年に直之の跡を継いだ長男の直景が、直之の遺領9,500石と自領500石を合わせて上総苅谷(千葉県いすみ市)1万石の大名となり、1698(元禄11)年に直景の孫・直宥が越後椎谷(柏崎市)へ移封された。
- 須坂奥田家
直政の四男・直重を祖とする家。関ヶ原の戦いの功績により宗家とは別に8千石を与えられ、大坂の陣の功績により4千石を加増され信濃須坂(長野県須坂市)1万2千石の大名となった(後分与により1万石)。
- 村松奥田家
直寄の次男・直時を祖とする家。1639(寛永16)年に安田(阿賀野市)3万石を分与され立藩し、1644(正保元)年に村松(五泉市)へ藩庁を移した。