プロフィール
概要
学生時代はボディビルとバスケットボールに打ち込み、新日本プロレス学校(1988年から2年間新日本プロレスが開講していたプロレスラー養成所)を経て、1990年5月に新日本プロレスに入門。
1991年1月11日、今治市公会堂大会にて、本名の山本広吉として松田納(現:エル・サムライ)戦でデビュー。
1993年3月、若手選手を中心としたリーグ戦、ヤングライオン杯に出場し優勝。6月より海外武者修行のため、ドイツ・グラーツを拠点とするキャッチ・レスリング・アソシエーション(Catch Wrestling Association、略称 : CWA)に参戦。現地でランス・ストームを下し、CWA世界ジュニアヘビー級王座に2度戴冠する。
その後カナダ・カルガリーの大剛鉄之助の元で肉体改造を行い、1995年1月4日、凱旋帰国に合わせてリングネームの姓を天山と改め、中西学とシングルマッチで対戦し勝利。
同年2月、当時最年少で橋本真也の保持するIWGPヘビー級王座に挑戦。
その後、越中詩郎が率いる平成維震軍から再三に渡って勧誘を受けるも維震軍入りを拒否、蝶野正洋と結託。後に蝶野&ヒロ斎藤&サブゥーらと共に狼群団を結成、一躍してトップレスラー入りした天山は新日本本隊と抗争を繰り広げる。
1995年6月蝶野とのタッグで空位となったIWGPタッグ王座を賭けて橋本真也 & 平田淳嗣組と対戦。この試合に勝利を収め、第25代王者組に戴冠し、その年同のプロレス大賞では蝶野と共に最優秀タッグ賞を受賞する。
1997年より蝶野が指揮を執るヒール・ユニット、nWo JAPANのメンバーとして合流。
同年8月より開催されたG1では準優勝。しかし10月、蝶野が怪我で離脱し代理で指揮を執る武藤敬司がnWoに小島聡を勧誘し異を唱えるが和解、『テンコジ』タッグを結成し翌年1月天龍源一郎&越中詩郎組が保持するIWGPタッグ王座を奪取。
以降小島と共にタッグ戦線を大いに賑わし、2000年のプロレス大賞では最優秀タッグ賞を受賞、
2001年11月より開幕したG1 TAG LEAGUEに優勝するといった活躍を見せたが小島の全日本プロレス移籍で活動休止。再び蝶野と組む。
2003年8月、G1 CLIMAXに出場。初戦こそプロレスリング・ノアの秋山準に敗北を喫するも、その後は勝利を積み重ねて決勝トーナメントに進出。準決勝で[[高山善廣」」を制し、決勝戦で再び秋山と対戦しギブアップ勝ちを収め、優勝。
11月3日には高山が保持するIWGPヘビー級王座に挑戦し、第33代王者に。自身初となるIWGP王座の戴冠だったが12月に初防衛戦で中邑真輔に敗戦。
2004年2月、中邑の怪我により返上されたIWGPヘビー級王座決定トーナメントにエントリーし決勝で天龍を制し、第35代王者に返り咲いた。
8月に開催されたG1では新・闘魂三銃士と称された中邑、柴田勝頼、棚橋弘至らを決勝トーナメントで順に3タテして史上二人目となるG1連覇を果たす。
12月5日、全日本プロレスに参戦し、川田利明の保持する三冠ヘビー級王座に初挑戦。
2005年2月20日、小島の保持する三冠ヘビー級王座と自身が保持するIWGPヘビー級王座を賭けたダブルタイトルマッチで対戦、試合時間残り15秒となったところで、脱水症状によるK.O.負けを喫し病院に搬送された。
5月、小島と再戦し勝利を収めてIWGP王座を奪取するも7月に藤田和之に敗戦し王座から陥落。
2006年8月、G1ではリーグ戦を全勝で飾り、決勝戦で小島と対戦し勝利して完全勝利で3度目の優勝。その後タッグパートナーである蝶野との確執が起きてしまいタッグを解消。
10月、真壁刀義、越中詩郎らと共にヒール・ユニット、『G・B・H』を結成。後に真壁& 越中と抗争を繰り広げていた矢野通&石井智宏をメンバーとして引き入れ、蝶野率いる『Black』と抗争を繰り広げる。12月、全日本プロレス主催のタッグリーグ、世界最強タッグ決定リーグ戦にテンコジとして出場し優勝。
しかし首を負傷し翌年は精彩を欠く。10月に嘗ての付き人である後藤洋央紀とシングルマッチで対戦したが試合終盤、後藤の変形バックブリーカーを喰らい頸椎を損傷、長期離脱。
2008年2月17日、天山は邪道&外道&石井とのカルテットでレジェンド(蝶野 & 長州力 & 越中 &スーパー・ストロング・マシン)と対戦するも、石井が蝶野にピンフォールを奪われ敗戦。
試合後天山は味方の三人から袋叩きに遭い追放。その後、新日本本隊の飯塚高史とコンビを組むも飯塚は裏切りG・B・H入りし、G・B・Hとの抗争を深めていくが反則による不透明決着が連日続き、さらには天山のタッグパートナーである長州や蝶野からは厳しい言葉を浴びせられ孤立。
7月に飯塚とランバージャック・デスマッチで対戦、勝利するも試合後にG・B・Hによる攻撃に合う中、かつての相方・小島が救援に入る。10月のG1 TAG LEAGUEに小島と共に出場し、決勝戦で真壁 & 矢野組から勝利を収め優勝。更に全日本主催の世界最強タッグ決定リーグ戦では諏訪魔 & 近藤修司組を破り2年ぶりの優勝を果たすが12月に網膜剥離と診断され欠場。
2009年8月、G1公式戦消化中に古傷である首の状態が悪化し、同月14日に脊椎管狭窄症および右肩亜脱臼により無期限の欠場、9月に手術するも10月には右肩腱板断裂と診断され再入院、手術を受けることに。
2010年11月、若手選手中心の興行、NEVER.4を舞台に復帰戦を行いアントーニオ本多と対戦、ギブアップ勝ちを収めた。
その後今後は全日本を退団し、フリーランスとして新日本に参戦している小島を標的とする一方で12月に試合後に飯塚からスリーパーホールドを極められ因縁が再燃した。
以降は第三世代として若手に壁になる一方、小島聡とのコンビ「テンコジ」としてタッグ戦線にも挑戦している。しかし、首を負傷した過去があるため、第三世代の中西学同様動きの機敏さは失われつつある。
得意技
TTD(テンザン・ツームストーン・ドライバー)
かつてはボディスラムの要領で上下逆さまに抱え上げた相手の首に手を回し、そのまま開脚ジャンプした自らの股の間に相手の脳天をマットに突き刺す技だったがオリジナルの技はけが人が続出、膝をつきながらマットに着地し相手を脳天からマットに叩きつける形に改良して封印。そして最終的に膝着きボディスラムになっている。
G1 CLIMAXを制覇した、天山の代名詞的な技。V1アームロックと袈裟固めの複合技。
フィニッシュホールドの1つ。かつて、同じ技を使う武藤敬司とムーンサルトプレス封印をかけた試合を行い敗北した事があるが、その数ヵ月後には使用を再開。その際は「ムーンサルトプレス」ではなく「天山プレス」であると開き直っていた。
ダイビング・ヘッドバット
マウンテン・ボム
天山独自の変形水車落とし。ロープに投げて戻ってきた相手を90度横の体勢から持ち上げ後ろに倒れこむ。凱旋帰国直後の当初は倒れこむ際に全体重を乗せていたが、90年代後半辺りからショルダースルー気味のバックフリップのように相手を後ろに投げ捨てつつ倒れる技になった。
繋ぎで使う事が多い技だが大一番で稀に雪崩式で見舞う事もあった。
モンゴリアン・チョップ
元はキラー・カーンの技。目の前でXの字に手を切ってから相手の両肩・首筋辺りに手刀を振り下ろす。
放つ際には「シュー」と威嚇するような発声をする。ダウンしている相手への喉元へ手刀を振り下ろすものも存在する。
フライング・ニール・キック
普通の頭突きではあるが、モンゴリアン・チョップのモーションを見せ「シュー」と言いながら相手の腹へ頭突きを見舞うなどフェイントも稀に見せる。
地獄突き
アナコンダ・スラム
アナコンダ・バスター
大剛式バックドロップ(アナコンダ・スープレックス)
相手の片足をクラッチしながら抱え上げ、急角度に落としていく変形のバックドロップ。
バッファロー・スリーパー
等。
人物像
- 強面な上、元ヒールという経歴を持つ彼だが、非常に育ちが良いことで知られている。SNSでは親孝行ぶりを見せており、また練習生時代の真壁達にも挨拶を欠かさなかったなど、人柄の良さを示すエピソードは枚挙にいとまがない。
- 一方で、深刻なまでの天然ボケでも知られている。獣神サンダー・ライガーのYouTubeチャンネルでは、信じられないようなエピソードの数々が、概ね事実だったと語られている(下記動画参照)。
- ディズニーやサンリオなど、可愛いものが好きなことでも有名。2020年の「SAVE OUR PRO-WRESTLING TEE」には、相棒の小島ともども起用されている。
- 実は大の妖怪ウォッチ愛好家である。元々は息子のために妖怪メダルを集め始めたのがきっかけであったが、息子以上にハマり込んでしまい、息子に妖怪メダルを強請られても断っている。2014年放送の『アウト×デラックス』では妖怪メダルを獲得するシーンもVTRで紹介され、妖怪メダルのおかげで夫婦仲を良好に保っているという。また、新日本プロレスリングの公式YouTubeチャンネルではなんと『ようかい体操第一』を楽しそうに踊る彼の姿を観ることができる(下記動画参照)。
関連動画
獣神サンダー・ライガーのYouTubeチャンネルゲスト回
その一
その二
その三
『ようかい体操第一』を踊ってみた