旧1000形
きゅうせんがた
1958年に4両が製造された。
少し前に登場した初代700形(後の2代目600形)の3扉オールロングシートバージョンである。
1966年以降は量産化改造が行われ、車番も1000番台に改番された。
地下鉄乗り入れ計画はあったものの、当時は非貫通型でも問題はなかったため、製造当初の前面は初代700形と同じ湘南顔とされた。だが後に貫通扉設置が義務となったため、1973年に貫通扉を設置。各種地下鉄対応工事が行われた。
こうして地下鉄対応工事は行ったものの、実際に乗り入れたのは末期であり、冷房化改造は行われずに1988年に廃車された。
1959年(昭和34年)12月に登場し、翌1960年(昭和35年)1月13日に営業運転を開始した京浜急行電鉄の通勤形電車。
初期型は初代800形と同じ湘南顔で製造されたが、後にメイン画像のような貫通型の前面となった。京急の伝統である、丸目1灯の前照灯に片開きドアは本形式でも引き継がれた。
走行性能は当時としては破格の性能を誇っており、最高速度120km/h、起動加速度3.5km/h/sであった(参考までに、同時期に製造された国鉄の113系は、最高速度100km/h、起動加速度1.6km/h/sである)。
1968年に都営浅草線が泉岳寺駅まで延伸し、京急線との直通運転を開始。それに伴い地下鉄乗り入れ用として当形式が使用され、製造当初の目的が1つ達成された。
種類
1978年までの20年間にわたり、計356両製造。2・4・6・8両固定と、様々な編成が製造・組み換えが行われた。全てが電動車(デハ1000形)であるため、単一形式としては私鉄最多製造車両となった。ここでは全356両が揃っていた時期の車番を記載する。
- 1095 - 1098 上記の800形(初代)として製造された車両。後に1000形に編入され、この車番になった。
- 1001 - 1048 1959・1960年に製造された車両。登場時は運転台正面が非貫通型。
- 1049 - 1078、1101 - 1130 1961・1962年に製造された車両。運転台正面が貫通型となった。1962年製造車は行先表示装置などが装備された。
- 1131 - 1196、1201 - 1206 1964~1966年に製造された車両。前面に行先・種別・運行番号を表示する窓が独立して設けられるとともに、連結面が折妻とされた。
- 1207 - 1242 1968年に製造された車両。連結面後退角が縮小されたほか、換気装置変更などが行われた。
- 1243 - 1298、1301 - 1348、1351 - 1380、1079、1080 1971~1978年の製造車。冷房装置の搭載、空気ばね台車の採用などが行われた。
京急では1966年の番号整理(当形式は整理対象外)以降ほとんど改番がされなかったが、当形式も何度か改番されたことがある。上記の800形(初代)の例もそうだが、使用目的の変更や新1000形との車番重複を避ける目的等で変更されたこともある。
運用
2両編成は主に増結用に使われていた。
4両編成は本線の各種別に使用されていたが、登場当初は400形・500形・700形がメインであり、旧1000形は少なかった。12両編成の運転開始後は編成組み換えで4両固定編成が増やされ、増結や京急大師線の運用にも使用された。終夜運転で京成金町線に乗り入れたこともある。
6両編成は都営浅草線乗り入れ特急用の主力として活躍しており本数も多かったが、1988年に8両編成に増車されたため、数を減らしていき、以降は普通列車に使用された。
8両編成は朝ラッシュ時の12両編成非乗り入れ特急の基本編成や快速特急に使用されていたが、乗り入れ特急が8両化されると乗り入れ運用中心となり、編成組み換えによって数を増やしていった。それでも足りない時は4+4や2+6両を貫通幌で繋いだ編成も使用された。
京成電鉄
1988年にデハ1029~デハ1032・デハ1037~デハ1040の2編成(8両)が京成電鉄にリース(貸出)された。これは、当時の京成電鉄は経営が悪化しており、
- 非冷房車が未だに在籍していた
- 新型車両の投入ペース・予算には限りがある
…という理由から、新車投入までの「つなぎ」として冷房化率を上げるために「京成1000形」として京成藉となった。
塗装は赤い車体に白帯のままであり、社名ロゴや方向幕の色の変更など、最小限の改造に留まった。
京成3700形の増備の進捗により1991年に1編成が京急に返却され除籍・解体、残りの1編成が青に塗装され千葉急行電鉄へ貸し出された。1994年に京急に返却され、除籍・解体された。
北総開発鉄道(現北総鉄道)
1991年にデハ1005~デハ1008・デハ1107~デハ1118の2編成(16両)が譲渡され、7150形として活躍。この編成は京急在籍末期の変則的な編成のまま譲渡され、運行していた。また、カラードアを試験採用している。
7050形(元京成3150形)によって置き換えられ、1998年に引退となった。
なお、定期検査は京急久里浜工場で施工されていた。
高松琴平電気鉄道
1988年~1991年に初期編成が1080形として、2007年~2011年にかけて後期型が1300形として、2両1編成で譲渡され、現在も琴平線・長尾線で活躍している。
2018年、製造60周年(還暦)を記念し有志のクラウドファンディングが行われて費用が捻出され、翌2019年に、ことでん導入の1080形が京急カラーにラッピング。60周年記念ヘッドマークをつけて琴平線を走った、この編成はことでん沿線で還暦の赤い電車と呼ばれ親しまれた。ちなみにこのクラウドファンディングの成功により「赤い電車」は第2弾、第3弾が計画され成功へと導かれている。うち第3弾である追憶の赤い電車もまた旧1000形だった電車を京急ラッピングにしたものであり、こちらは長尾線を走っている。
1975年~1979年までの間、2代目700形のサハ770を中間に挟んだ6両・8両編成が組成された。これは700形が4両で製造した後に3両に減車する計画だったため余剰車が発生し、それを有効活用するために旧1000形に組み込んだ結果、混結編成が誕生したのである。
しかしいざ使ってみると車両ごとにドア数が違うため乗降の際の混乱を招いたり(旧1000形は片側3ドア、700形は片側4ドア)、旧1000形はオール電動車前提だがサハを組み込んだため加速性能が低下したり、車両性能が違うため乗り入れ運用に使えなくなったりと、デメリットが大きかった。
1978年から順次サハ770は外され、休車とされた。その後、700形冷房化改造によって700形は4両編成のみの組成となり、サハは全て700形へ戻された。
1995年、阪神淡路大震災で多数の車両を失った阪神電気鉄道への“援助”として、1000形の譲渡計画が持ち上がった。実現していれば同震災における最大級の支援となっていたはずだが、車両規格の違いや輸送ルートの途絶(陸揚げに必要な港湾施設が崩壊していた)などの問題をクリアできず、断念されたといわれている。
アルピコ交通は、東急から譲受した5000系の置き換えに、本形式か京王電鉄3000系か武庫川車両製の新車の3択で検討を進めたところ、京王重機整備の提案もあって京王3000系の導入に落ち着いたという話がある。仮に実現していたら、狭軌の私鉄へ譲渡された京急のカルダン駆動車(吊り掛け駆動車なら過去に実績あり)として話題になっていたであろう。