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概要

フローレンス・ナイチンゲール(Florence Nightingale)

生没年:1820年5月12日 - 1910年8月13日

「クリミアの天使」、「ランプの貴婦人」と呼ばれ親しまれてきた女性。

よくナースに対して比喩される「白衣の天使」という呼び名は元々は彼女の異名である。

しかし、実際のナイチンゲールの性格はそんな天使とは程遠い、不撓不屈の精神と激情を孕んだ信念の女性であった

そして一般的に看護師として知られる彼女だが、看護師とは彼女のほんの一面にすぎない。

ほとんどの人はナイチンゲールが看護師と知っていても、先進的な統計学者だと知る人は少ないだろう。

生涯にわたり病人の為に行動し、近代看護の基礎を築き上げた医療の変革者である。

生涯

少女時代

1820年5月12日イギリスの地主階級である両親の新婚旅行中にフィレンツェ(フローレンス)で生まれる。

当時上流階級の女性はあまり教育は行わず、早く結婚して夫に仕えていればよいという考えが主流だったが、父ウィリアムは女性にも教育は必要であるという考えからナイチンゲールにイタリア語・ラテン語・ギリシャ語などの外国語をはじめ、哲学・数学・天文学・経済学・地理、心理学、文学などの本格的な教育を受けさせた。

母フランシスからは音楽や花の活け方、礼儀作法、刺繍といった貴婦人としての教育を受けたが、ナイチンゲールは父から教わる学問のほうを好んでおり、特に数学が大好きであった。母や姉パーセノープが夢中になっていた流行の恋愛小説には見向きもせずに、学問書を読み耽る勉強好きな彼女を周囲は変わった子だと思っていたという。

また、とても綺麗好きで家族が部屋を散らかすのを苦々しく思っていたり、論理的に納得できないことがあれば大人にまでしつこく議論をふっかける等、多くの大人達からは頑固で気難しいわがままな少女として扱われていたそうである。

この頃、幼いナイチンゲールは父が行っていた慈善事業の一環で、屋敷近くの農村を母と共に薬と食料を持って慈善訪問して回っており、そこで農民や労働者の悲惨な生活環境を目の当たりにしたことをきっかけに、人々を救うための生き方をぼんやりと考えるようになる。(当時のイギリスは産業革命に伴う社会構造の激変期であり、社会のアンバランス化による貧富の格差や公衆衛生の悪化が問題化していた時期でもあった)

10代半ば頃にナイチンゲールは社交界デビューを果たすが、生まれと育ちの良さはもとより、若く容姿端麗で高い教養と鋭い知性を持ち併せ、他の多くの女性達とは異なる一風変わった気性の持ち主であった彼女は、男性貴族達にとって大変魅力的な存在で、すぐにちょっとした有名人となり、政財界における多くの著名人達と知り合いになった(ちなみにこの頃のナイチンゲールを描いた肖像画が数点存在するが、1854年の従軍前後に撮影された有名な写真の厳しい表情からは想像がつかないほど、いずれも柔和な印象のスレンダー美人である)。

一方、ナイチンゲール自身も一時期は舞踏会や旅行にハマる等、年頃の少女らしいところもあったものの、内心では「自分はこんなことをしていていいのだろうか?他にもっとやるべきことがあるのではないか?」という疑問を抱き続けていたという。

ある日、知人に連れられたローマ旅行で保養所の所長、シドニー・ハーバートと知り合ったことで彼女の人生が動き始める。

看護の道へ

17歳のある日、ナイチンゲールは神の啓示を受けたらしいが、その時の彼女はどうすれば神の求めに応えられるのかがわからなかった。24歳の時に修道女のように看護師として病院で病気やけが人の世話をするという答えに行き着く。

しかし、看護師の研修に出たいと家族に話したナイチンゲールは猛反発を喰らい、お目付け役無しでの外出を禁じられるなど半ば軟禁同然の状況に追いやられてしまう。

というのも、当時は往診が基本で、病院は貧しい病人を押し込める最低限の慈善施設に過ぎず、病人の看護もクビになったメイドや未亡人、年をとって働けなくなった娼婦といった行き場の無い最下層の女性達が最後に辿り着く卑しい職業と認識されていたためであった。

それでも看護師の道を諦めきれなかった彼女は、ままならない境遇に鬱屈した想いを抱きつつも医学調査会のレポートや医療記録、医学書、論文、果ては衛生局のパンフレットまで大量の文献を貪り読み、社交行事の合間に家族の監視の目を盗んでは病院や救護所に忍び込んで見学し、旅行に出れば滞在先をこっそり抜け出してその土地の貧民窟を訪ね歩き、独学で勉強し続けて知識を蓄えながら辛抱強くチャンスを待った。

そして30歳を過ぎた頃、精神を病んだ姉の看護をするのに必要という口実で家族の猛反対を振り切り、ごく初期的ではあるが看護師の訓練所が設置されていたドイツのカイザースヴェルト学園に入学。家族や親戚との仲はますます険悪なものとなったが、父だけは理解を示し生活費を出したそうだ。

(後に母や姉は活躍を応援するように)

具体的な看護実務を学んだナイチンゲールは、間もなくシドニーの妻リズの紹介でロンドンの婦人病院の運営責任者となり、そこにおいてナイチンゲールは看護を行うのみならず、施設のさまざまな問題点を見つけて改善し、病院運営の効率化・健全化まで成し遂げることに成功する。

クリミア戦争

1854年、クリミア戦争が勃発すると、シドニー・ハーバートは婦人病院での彼女の活躍を聞き、彼女にクリミア戦争の戦病者・戦傷者の看護を依頼する。丁度、ロンドン・タイムズの報道でクリミア戦争の負傷兵達の悲惨な状況を聞いて従軍の意思を固めていたナイチンゲールは、シドニーの依頼を快諾した。

かくして10月21日、イギリス陸軍病院看護婦監督に任命されたナイチンゲールはシスターと看護師で構成される計38名の女性達を自らのチームとして率いて、後方基地と病院があるトルコのスクタリへと乗り込んでいった。

彼女が看護師として働いたのはこの戦時中の2~3年という短い期間だったが、その間の活動は完全に常軌を逸していた。

病人の大群が雪崩込んでくれば、彼女は24時間ぶっ続けで立ち働いた。昼は怪我人につきっきりで看病し、夜には傷ついた兵士たちの元へ灯りを持ち、何千人という患者たちの見回りを行った。戦場では時に馬上で何日も過ごし、時に何十キロ先の小屋まで歩いて仕事をしたこともある。体力の限界がきて熱病にかかっても無理して働き、完全に動けなくなってもメモなどを書いていて、そのせいで神経組織を破壊され、心臓も弱まっていったが、それでも彼女はずっと働き続けた。

軍医達は「男でも辛い仕事なのに、女に務まるわけがない」と軽く見ており、中には彼女のことを、ハーバート大臣の密命を受けた監査官ではないかと疑う者もいたが、結局彼女の気迫に根負けし従うようになった。衛生環境の改善が大事だということを軍の上層部に理解してもらうため、ナイチンゲールはこの野戦病院での死亡統計などを視覚的にわかりやすいグラフとしてまとめ提出した。ヴィクトリア女王はハーバートに対し、ナイチンゲールからの報告を直接届けるよう命じ、彼はすぐにこれを戦地に送り、病院内に貼り出させた。

さらに新陸軍省衛生委員会の査察団を引っ張り込んで、自分の報告が正しかったことを立証し、病院を衛生的に保つことを命令させた。

自分の個人資産からの出資、実家や社交界で築いたコネによる根回し、女王の威光を借りた(殆ど恫喝に近い)説得、統計学的証明など、ナイチンゲールは使えるあらゆる手段を駆使し、もはや「看護師」の範疇を超えて野戦病院改善のために全力で活動した。

彼女と看護師一行が病院に入って6ヶ月後、死亡率は42%から5%と目覚しく改善され、兵士達は彼女を「ランプの貴婦人」と呼んで敬愛し、母のように慕った。

終戦後

1856年4月にクリミア戦争が終結。最後の患者が退院していくのを見送った後、帰国したナイチンゲールは自分のチームを再度集めて、戦時中の記録とレポートを基に野戦病院の状況分析を開始する。

もっと多くの人々を救うためには制度そのものを改善しなければならないと考えたナイチンゲールは、今度は統計学という論理を武器に、官僚主義的無気力と旧弊が横行する陸軍上層部と非効率的な医療制度に戦いを挑んだのである。

従軍中の過労とストレスの後遺症でフラフラになりながらも、療養を勧める周囲の声を一切無視して、彼女は働き続けた。

この時に作成され、政府当局に提出された数々の統計資料と報告書はイギリスの医療・保健制度だけでなく陸軍組織全体への改革に繋がり、これらの業績によって彼女は1859年にイギリス王立統計学会初の女性メンバーに選ばれ、さらに後にはアメリカ統計学会の名誉メンバーに選ばれた。

病院や兵舎といった施設の改善も進め、下水道、調理設備の完備、換気や暖房、照明器具の設置なども徹底した。陸軍管理官たちの管理規定も改め、個人の健康管理も考慮に入れるという当時としては画期的な発想で規定を作りあげた。

クリミア戦争からこの頃にかけてのナイチンゲールは、生涯を通して見ても一際その厳格さが目立った時期であった。

改善が遅れている箇所があれば関係者をつかまえて容赦無く問い詰め、反論を唱える者がいれば広範な知識と正論を以って冷静に論破し、論理的で辛辣な批判を厳しく浴びせかけたため、政府高官達の間でも恐れられたという。

直接の上司や部下だけでなく支援者達すらもナイチンゲールに散々振り回されて既に疲労困憊していたが、何せ彼女のバックには女王が付いていたし、何よりも彼女自身が全てを犠牲に文字通り粉骨砕身で働いている姿を見て、誰も文句を言えなかった。

教育者へ

しかし1857年、37歳の時にとうとう無理が祟って心臓発作で倒れてしまい、以後は病床生活をおくる。

ここから昼間は看護活動や後身の指導に当たり、夜は本を書くという生活を送った。クリミア戦争での劣悪な衛生環境において、戦争による負傷とは関係のないことで亡くなっている人が多いことを綴った「英国陸軍の健康と能率、病院管理の覚書」と、史上最初の看護についての専門書籍「看護覚え書」などを発行した。

特に「看護覚え書」は看護婦の教本としてのみならず、主婦たちにとっても必読書の一つとされ、ベストセラーとなった。

彼女は生涯に150の本と12000通の手紙を書いていたとされる。

1860年、クリミア戦争中にナイチンゲールの協力者達が開設したナイチンゲール基金に集まった4万5千ポンドを元手に、ロンドンの聖トマス病院内にナイチンゲール看護学校が設立された。校長は知り合いの病院婦長に任せたが、運営や指導に関してはナイチンゲールが協力し、現在に近い看護師教育体制が整えられていった。

また、彼女はナイチンゲール看護学校の卒業生を自宅に招き、その中からリーダーとしての素質のある生徒を選び出して積極的に支援した。

これを境にイギリス各地に同様の看護師養成学校が作られるようになり、それまで雑用係同様に扱われていた看護師という職業が、専門知識と技術を備えた専門職として世間に認知されていった。

そして、彼女の確立した看護教育は彼女の弟子や孫弟子、影響を受けた者達や著作を通じて、やがて世界へと広まっていった。当時のイギリスが世界各地に植民地を持っていたこともこれに拍車をかけた。

1861年にアメリカ合衆国で勃発した南北戦争において、ナイチンゲールは現地で看護を担当する女性たちにアドバイスを求められた。後の1873年には彼女の長年の盟友であり、共にイギリスに女子医学校を設立した世界初の女性医師エリザベス・ブラックウェルによってアメリカ最初の看護師養成校が設立された。そこで生徒たちの指導を行うことになったのは、他ならぬナイチンゲール看護学校の卒業生達であった。

日本とて例外ではない。1875年から聖トマス病院で医学を学んでいた大日本帝国海軍軍医総監高木兼寛は、ナイチンゲール看護学校で行われていた近代的な看護教育に感銘を受け、帰国後の1885年に日本最初の看護師養成校である有志共立東京病院看護婦教育所(現在の慈恵看護専門学校)を設立することになる。

晩年

52歳の時、自力で生活することが困難になった両親を介護することを決意。

その後も家族の面倒を看ながら仕事を続けていたが、1874年に父を、1880年には母を亡くしてからは活動が少なくなり、90年に姉が亡くなるとずっと自宅にいることが多くなった。

生涯独身で家庭を持たず、家族を喪ったナイチンゲールではあったが、決して孤独ではなかった。彼女の邸宅には姉の子供達やその家族、弟子達、看護学校の生徒や卒業生たちがしょっちゅう出入りしており、とても賑やかだった。

それでも次第に肉体は衰えていき、1901年の81歳の時に完全に目が見えなくなり、しばしば昏睡状態に陥ることもあった。

1907年、エドワード7世よりメリット勲章を授与。これは軍事、科学、芸術、文学、文化の振興に功績のあった人物に英国君主から贈られる最も名誉な勲章であり、ナイチンゲールは史上初の女性受賞者であった。

1910年8月13日に90歳で死去。

彼女自身の遺言により葬儀は小規模にひっそりと行われ、ハンプシャー州の聖マーガレット教会に葬られた。

逸話

  • クリミアへ行く前に何が不足しているか聞いたところ、「全く必要ない」と言われた。信用できずマルセイユでありったけの日用品を購入した。彼女の勘は正しく、必需品は全く足りていなかった。
  • 病院内の衣服・ベットの洗浄が殆ど滞っていると聞き、彼女は近くのボイラー付の家を買い兵士たちの妻を雇って洗濯させた。費用は彼女の個人資産で賄われた。
  • 従軍するにあたって編成された彼女のチームのメンバーは一般から公募され、数百名の応募の中から、その全員をナイチンゲール自身が直接面接して38名を選び抜いた。既に「看護の現場に必要なのはエキスパート」という考え方を確立していた彼女は、専門知識や実務経験の無い者は身分や出自に関係無く落とした。しかし、そうして厳選した看護婦たちも、辛い仕事に耐えきれず次々辞めていき、最終的に残ったのは半分にも満たぬ16名だったという。
  • 彼女の提案で政府から物資が届いたが、役員達から「役員会がないため解梱できない」と言われ、結局開封に2週間かかった。後に同じような出来事が起こった。彼女はヴィクトリア女王の勅命だといった。役員がもたついている間に彼女は開梱を命じた。
  • 兵士たちの軍服が足りておらず、役員に尋ねたが欠品を補うのは自分の仕事ではないと言い張った。彼女は個人費用で兵士たちの軍服を補った。
  • 彼女のあまりの献身振りに感動した負傷兵はナイチンゲールの影にキスをするという奇行に走ることもあった。
  • 500人の兵士が搬送される知らせを受け、既に余裕のない病院内は大騒ぎになった。ナイチンゲールは旧兵舎を改装すれば十分に収容できると考えたが、関係者は責任の所在を誰にするかでもめていた。彼女は軍務大臣に使者を送り、返事を待たずに人を集め建物を改装した。給料および器具等は彼女の費用で賄われた。
  • クリミア戦争での活躍から「クリミアの天使」と呼ばれ国民的女性英雄として祭り上げられた彼女だったが、本人はそれを快く思わず、終戦後は偽名を名乗ってこっそり帰国した。戦時中こそ政府の広告塔となることを厭わなかったものの、あまりに名前を利用されたことから、戦後は有名人扱いされるのを嫌い、自分の墓にはイニシャルのみを刻むよう遺言した。
  • 帰国後、急に動かなくなる四肢や精神の不調が彼女を苦しめた。医師たちは口をそろえて「長期間の休養を取らなければならない」と言った。しかしやるべき事がたくさんあったのでその相談には乗れなかった。医者の忠告も、家族の懇願も、友人の進言も彼女は耳を貸さなかった。「狂気の沙汰だ」という言葉にのみ彼女は頷いた。
  • 彼女の行動力は異常そのもので、周囲の誰もがついてこれなかったが、彼女にしてみれば周囲の人間はあまりにも愚鈍だった。協力者のシドニー・ハーバートがあまりの激務に彼女に懇願したが、彼女は途中で止めることを許さなかった。その後シドニー・ハーバートは過労死した。
  • 超人的な仕事量をこなし、相手が上司だろうが政府高官だろうが必要とあらば直言を叩きつけ、女王をも味方につけたことから、オールドバリントン通りにあった彼女の自宅兼事務所は畏敬と揶揄の双方を込めて「小陸軍省」と呼ばれた。文字通りのワンマンアーミーである。
  • 年老いてゆくと彼女は若い頃のような苛烈さとは見違えるように穏やかな性格になった。一日中笑顔でいながらベッドの上で余生を過ごした。
  • 生涯独身を貫いたナイチンゲールではあるが、10~20代の頃は社交界でとにかくモテまくり、アプローチをかけてくる男性が後を絶たなかった。特に富豪で国会議員のリチャード・モンクトン・ミルズとは互いに敬愛し合う仲で、ナイチンゲールは彼との結婚も視野に入れて約6年間交際したものの、苦悩の末、29歳の時に彼のプロポーズを断り、貴族の妻として家庭に収まるのではなく自らの能力を社会の改善に役立てることを選んだ。彼女の情熱を理解していたミルズは仲間と共にクリミア戦争中にナイチンゲール基金を開設し、後にナイチンゲール看護学校の設立に寄与するなど彼女の事業に助力し続けた。
  • 当時流行していたホメオパシーには極めて批判的だった。「善意で薬を与えたがる女性には、レメディ(ホメオパシーにおける薬に相当するもの)を与えた方がよい」という言葉がしばしばホメオパシーの信奉者などに「ナイチンゲールもホメオパシーの効能を認めている」と歪曲されて引用されることがあるが、実際は「何の知識もない善意だけのバカなご婦人には、毒にも薬にもならない砂糖玉でも与えて満足させておいた方が医療事故につながらない」といった趣旨のものである。

業績

  • 大抵が貧しい病人をようやく収容するための最低限の慈善的施設に過ぎなかった当時の病院を、部屋を広く確保し、天井は高く、窓はベッド一つにつき一つ設置するというように提案した。この構造は今日の病院へも実際に取り入れられている。病人のための特別食やナースコールを考案し、病室にお湯と水がでる水場を設けよと提案したのも彼女である。
  • 兵士たちが死ぬ原因のほとんどが野戦病院における不衛生な環境であることを証明し一掃することで数多くの兵士の命を救った。
  • 陸軍の衛生状態や食事、兵舎設備などについての統計をまとめ、分析を行った。そのデータをもとに上層部を糾弾し、陸軍の衛生政策や組織の変革を提案し、実現した。
  • 女性の社会的地位を上げるよう試みた人権家でもあった。日本における女子教育の先駆者と評価される津田梅子女史と面会し語り合ったと伝わっている。
  • 「看護」を確立させた。それまで職業看護婦は存在せず、学の無い素人の寄せ集めだった看護婦を、専門知識と技術を持つ専門職へとパラダイムシフトさせたのが彼女だった。「看護覚え書」で看護の在り方を説き、ロンドンに看護婦養成所「ナイチンゲール看護学校」を設立し、本格的な看護教育学を始めた。後にナイチンゲール方式と呼ばれる教育システムは今日でも近代看護の基礎として活用され、多くの人々を救い続けている。
  • 彼女が、自分を呼ぶために負傷兵たちに渡したベルが、ナースコールの元となった。

余談

ニコニコ動画など、一部ネット界隈では彼女の奇行、凶行とすら言える献身と奉仕の行動から、活人鬼ぶっ生き返す人などと呼ばれている。

人を活かす為なら文字通りなんでもする彼女を上手く言い表した言葉であろう。

多分本人は困惑してると思うが。

関連タグ

ナイチンゲール

看護師 看護婦 ナース

ワンマンアーミー

クララ・バートン アンリ・デュナン

過労死

フィレンツェ:彼女のファーストネームの由来。

赤十字:彼女の行動に刺激をうけたアンリ・デュナンによって設立。但し、ナイチンゲールは自分の業績は実家が裕福な地主貴族であったことが大きな要因だったことを自覚していたため、「構成員の善意と自己犠牲に依存するシステムは経済的援助無しには決して長続きしない」としてボランティア活動による常設救護団体の設置については真っ向から否定的な姿勢であった。この考えは「犠牲なき献身こそ真の奉仕」という有名な言葉にも表れている。

清水次郎長……正反対の存在だが、同い年(次郎長も1820年生まれ)、苛烈に戦う人生を送ったこと、国の人間とパイプを持ったこと、社会貢献したこと、学問を推奨したこと、病院の開設に携わった(!)ことなどが共通している(ただし、ナイチンゲールは次郎長より早いうちから国の人間とのパイプ・社会貢献・学問推奨・病院開設を行っていたのに対し、次郎長がこれらの社会福祉事業に身を投じたのは渡世家業から足を洗ってからである。さらに、次郎長の子孫には医学博士高田明和がおり、医療関係に縁が深い)。

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