解説
創設年 | 1965年 |
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加盟年 | 1999年 |
ホームスタジアム | JITリサイクルインクスタジアム |
クラブカラー | 青 |
マスコット | ヴァンくん、フォーレちゃん |
アマチュア時代
前身は1965年に山梨県立甲府第一高等学校のOBチーム『鶴城クラブ』が日本サッカーリーグ(JSL)への昇格を目指して全国社会人サッカー選手権大会に出場する際に、他校出身選手も交えて創設された『甲府サッカークラブ』(甲府クラブ)。1967年より関東サッカーリーグに参加。1969年には全国社会人サッカー選手権大会において優勝。1972年から新設されたJSL2部に参加、1992年まで「昇格も降格も消滅もせずJSL2部に所属し続けた唯一のチーム」として特別表彰を受けた。
経営は甲府第一高等学校のOBでもある鉄工所社長の川手良萬が私財を惜しみなく出資することで全国リーグの遠征を行なっており、1986年に川手に逝去するとその遺志を継いだ甲府クラブOBが出資して維持されていた。
プロ化と経営難
1992年、ジャパンフットボールリーグ(旧JFL)に参入、1995年に現在の『ヴァンフォーレ甲府』にチーム名を変更、1997年に法人化され1999年のJ2創設に伴いJリーグへ参加した。しかし親会社はおろか、ろくに大型スポンサーもないまま、旧JFL時代と比較しても(どう経費を圧縮しても)5倍から10倍かかるJリーグに参入したことで大幅な戦力ダウンを実施せざるを得ず、特に2000年には26戦未勝利かつ19連敗を喫してしまう。そしてこの年のシーズンオフにクラブの経営難が表面化し、チーム存続が危ぶまれてしまう。経営委員会から存続に向けて現状の2~3倍の数値を達成させるという3つの条件を提示されるが、海野一幸が社長に就任すると経営は安定し、それに比例するかのごとく成績も次第に上がっていき、2005年はリーグ3位に入り、入替戦でも柏レイソルに勝利し2006年から悲願のJ1リーグ参入を達成した。
エレベータークラブとして
2006年シーズンはシーズン順位の予想で全員が最下位での降格を予想したが、蓋を開けるとホームゲームで横浜F・マリノス、鹿島アントラーズ、ガンバ大阪とJ1優勝経験のあるチームをことごとく撃破。15位ながらも残留を決めるが、この年のオフシーズンにエースだったバレーとキャプテンを務めていた倉貫一毅が移籍すると低迷し、2007年は17位となりJ2降格。しかし2009年秋に大宮アルディージャから佐久間悟をGMとして招聘すると「助っ人選手を格安で獲得」「ベテラン選手の再生」「大卒選手の育成」など様々な方針を展開し、2010年に2度目の昇格、翌年は1年で降格したがさらにその翌年は24戦無敗でJ2優勝を達成する。2013年以降は残留力を展開し2017年までJ1に在籍し続けた。
現在の状況
2018年にJ2へ降格すると、降格初年の2018年は9位だったが2019年は5位、2020年は4位、2021年は3位とプレーオフ圏内に入る。しかし2019年はプレーオフ初戦で引き分け、2020年と2021年はコロナの影響でプレーオフそのものが中止になったため昇格できず。すると2021年オフに伊藤彰監督がコーチごとジュビロ磐田に引き抜かれてしまい、代わりの監督人事も難航。結局新監督に決まったのは2017年から2018年まで指揮を執り降格かつJ2でも低迷させた吉田達磨監督であった。甲府サポーターの不安は的中し、2022年は7連敗を喫するなどで22クラブ中18位とJ1昇格どころかJ3降格に足を突っ込んだシーズンとなってしまった。この通りリーグ戦だけを見ると甲府は低迷期に入ったと誰もがそう思った。
しかし、リーグ戦とは別の場所で誰も予想することの出来なかったであろうかつてないドラマが待っていた。詳しくは番狂わせ甲府へ参照。
特徴
経営危機と再建
2000年シーズン終了後、クラブは山梨県と甲府市に「このままだと資金がショートしてチームの存続が危うくなる」と追加の支援を要請したことで経営危機が発覚する。実は法人化以降総収入が1億未満、スポンサー収入にいたっては2000~3000万の状況(2022年時点でJ3の一番少ないチームでさえ総収入は3億以上なので甲府のスポンサー収入がいかに少ないかわかるだろう)が続き、Jリーグ参入前から債務超過であった。
経営難は現場にも影響を及ぼし、選手は本業が公務員や人数合わせのため名前を借りただけのアマチュア選手もおり、練習中にケンカをして退団した選手が出ると(Jリーグの登録規約に合わせるため)代わりにフィジカルコーチが選手復帰して試合に出るという今のJ3でもありえない構成であった。練習場も小学校の土のグラウンドや石が転がっている河原だったり、公園でバーベキューやっている家族に承諾を得たうえで選手がパス回しを始めたというエピソードもあり、当然シャワーも更衣室もなく手洗い場にホースを繋げて体を洗うという現在の地域リーグもびっくりするほどの環境であった。後に甲府のレジェンドと評される石原克哉は「初年度からプロ契約でしたけど月5万円で、それもオフシーズンは一切出なかったですね(笑)」と当時の状況を振り返っている。
こうなった理由は、当時の経営陣は社長が元高校教師、幹部が元公務員や個人商店主という体制で、誰一人として営業回りなどクラブ運営の仕方が判らなかったためである。「経営は知らないけどとりあえずJリーグに参入できればなんとかなる」という当時の県サッカー関係者の甘い考えが招いた結果で、赤字の穴埋めのために社長が教師時代の退職金を充てるだけでなく自分の家を担保に運営資金を借りるという自爆営業までやる有り様であった。筆頭株主の山日YBSグループや山梨県、甲府市などの株主も最初は「大企業もない土地柄で成功するはずがない」と甲府のJリーグ参入に反対してきたが、それでも資本がないからと出資したりスタジアムを改修するなど要望には応じてきており、将来のビジョンを見出せずに金を無心してくるクラブに対して「これ以上は出さない、無理なら解散するしかない」と突き放すのは当然と言えば当然である。どうしてこんなになるまで放っておいたんだを地で行く惨状であろう。
このように外から見れば解散するしか道がない状況であったが、この状況に対しまず動いたのが総務省から山梨県庁へ出向し、サッカーファンでもあった平嶋彰英である。平嶋は株主が主体となって開かれた経営委員会で説得に奔走。サポーターの署名活動や当時のJリーグチェアマンだった川淵三郎も山梨県や甲府市に出向いて説得にあたったこともあり、3つの条件付きながら翌年度のチーム存続に目処を立てることに成功すると、平嶋は山日YBSグループに対して「(経営陣が素人では再建は難しいから)経営できそうな人を社長に据えてもらえないか」と要請。山日YBSグループも筆頭株主の立場上、その責任があると同意し、金丸信の番記者であった海野一幸を送り込むことを決めた。
この要請に海野は渋ったが、ヴァンフォーレが置かれている状況を理解するとすぐにクラブの再建に着手。「スポンサーは少額で数を増やす」「金だけでなく無料でサービスしてくれる支援を探す」「あの手この手で広告を出す」「山梨県内のイベントに選手を積極的に参加する」などの広告戦略を行ない、結果3つの条件をすべてクリアしかつ法人化後初の黒字を達成。2006年には債務超過も解消したことで、無事再建に成功した。
この成功例は親会社を持たないクラブチームのJリーグ参入の手本となっており、Kリーグの新規参入チームも甲府へ出向するほどである。
広告
甲府のホームゲームの特徴としてその広告の多さにある。これは上述の「あの手この手で広告を出す」やり方の一つで、それまでピッチ看板は1段設置が基本であったがが甲府の場合はメインスタンドとバックスタンドが2段、サイドスタンドは多い時には4段重ねとなっている。さらにスタンドには看板より割安の横断幕があったり、走り幅跳びの砂場にも広告の入ったシートを被せたり、極めつけは担架に整形外科の広告を貼って選手が怪我をした時は観客に見せながら向かうという徹底ぶりである。これらは今ではどのチームもやっている当たり前の光景だが、最初に始めたのは甲府である(一方で「特定の時間しか表示できない」ため巻き取り式やLED表示のピッチ看板は消極的)。
ゲーム以外でも広告に気を使っており、例えば選手の移動も専用のチームバスは保有せず、ホームゲームでの移動は山梨県内にある複数のバス会社のバスを割り当てで使用している(アウェーの移動は山梨交通で固定)。その他、選手のユニフォームは地元のクリーニング店が、選手寮のリフォームも地元のリフォーム会社がそれぞれ無償で行ったりしている。
このようなことからサポーターの間でスポンサー批判は他チーム以上にタブーとされている。実際ヴァンフォーレ甲府にも関わったことがある地元のフリーアナウンサーがSNS上で胸スポンサーを揶揄する発言をしたところ炎上する出来事が起きている。
他チームとの関係
オレンジ色のチーム
オレンジ三連星その1。関連会社がスポンサー支援をしてくれたり、大雪で山梨の練習場が使用できない時に練習場を貸してくれたりと甲府にとってはよき兄貴分。同一リーグに所属した場合は富士山ダービーを開催している。
オレンジ三連星その2。J2オリジナル10の同期で、同一リーグに所属した場合は川中島ダービーを開催している。
オレンジ三連星その3。2オリジナル10の同期で、佐久間が甲府にきてから大宮関連の選手やスタッフが頻繁に入れ替わっている。
その他のチーム
甲府クラブ時代の1969年にJSL入れ替え戦で柏レイソルの前身である日立製作所と対戦(結果は2戦2敗)。2005年の入れ替え戦で2戦2勝と36年前の雪辱を果たしたが、2年後の2007年にJ2降格の引導を渡される等色々と因縁がある。伊東純也やクリスティアーノなど選手を引き抜かれることが多い。なお茂なんとかさんの話は双方タブー。
1994年の甲府クラブ時代に公式戦(天皇杯)で始めて対戦したJリーグチーム(試合は0-2で負け)。甲府が2022年の天皇杯決勝に進出した時の相手で、こちらは28年ぶりの雪辱を果たしている。柏レイソル以上に選手を引き抜かれ、元甲府の選手が多かったことから「ヴァンフレッチェ広島」と言われることも。
1972年のJSL2部設立時に関東リーグから昇格した他3チームの現在のチーム(湘南ベルマーレが藤和不動産、東京ヴェルディが読売クラブ、川崎フロンターレが富士通)。甲府を含めた4チームの共通点は天皇杯を制覇したことがある点で、さらに甲府を除く3チームはJリーグカップ(YBCルヴァンカップ)も制したことがある。
松本のスタジアムが使用できなかった時に小瀬を貸したりしている。同一リーグに所属した場合は甲信ダービーを開催している。
JFL時代の1998年に天皇杯で対戦しており、この時は0-3で敗れている。横浜フリューゲルスはこの年の天皇杯を最後に横浜マリノス(現在の横浜F・マリノス)に吸収されたが、この対戦経験があることからJ2オリジナル10としては(1998年からJリーグに参入した北海道コンサドーレ札幌を除き)唯一公式戦でオリジナル10全チームと対戦経験があることになっている(サガン鳥栖の事実上の前身である鳥栖フューチャーズもフリューゲルスと対戦したことがあるが、フューチャーズとサガンは別扱いされているため含まれない)。
マスコット
ヴァンくんとフォーレちゃん。ヴァンくんは、犬ぞり用犬として、川崎フロンターレのホーム、川崎市等々力陸上競技場に出張したことがある。フォーレちゃんはヴァンくんとの関係について、「ただのおともだち」と語っている。
スタジアム
甲府市の山梨県小瀬スポーツ公園陸上競技場(施設命名権名称:JIT リサイクルインク スタジアム、旧称:山梨中銀スタジアム)。最寄り駅の身延線甲斐住吉駅からは約3kmで、歩けなくはないが基本的には甲府駅からのシャトルバスで向かう。
自動車を利用する場合、小瀬スポーツ公園内の駐車場が無料で利用できる。ここが一杯となっても、近隣の環境センター等も無料利用可能。一方でその中間には有料の民間駐車場がある。
一応新スタジアムの構想があり、2015年に就任した当時の後藤斎知事が委員会を結成して準備に取り掛かっていたが、後藤氏は2019年に落選。代わりに当選した長崎幸太郎が「建てても維持費で赤字」「中央新幹線できてからでいいんじゃないか?」とかぬかして白紙化されてしまった。