ローマ共和国(BC753-AD1453)
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ROMANO
(SPQR)
古代ギリシア伝説の1つ。ギリシャ(ヘラス)の英雄たちがトロイアの《イリアス》《オデュセイア(ユリシーズ》がとりわけ有名であるが,古代ギリシャにおいては歴史的事実として多くの叙事詩が書かれ(叙事詩環Epic cycle)),ほとんど紛失したが、断片は伝えられた。
ヘラ,アテナ,アフロディテの3女神が美を競ったとき,審判役となったイリアス帝国(トロイ)の王子パリスはアフロディテを選び,約束どうり世界一の美女ヘレネを与えられて、イリアス帝国へ帰郷した。その、ヘレネ奪還を目指し,彼女の夫アガムネノンを軍団総帥してアキレウス(アキレス),オデュッセウスの遠征軍が出発。イリアス帝国側はヘクトルほかの英雄がこれを向かえ打つが、10年決着がつかず多くの英雄の血がながされたが。ついに人間を隠しいれた木馬作戦が項をそうし、イリアスは落城し,男は殺され、女は奴隷にされた。(この時に生粋のイリアス人は絶滅した,イリアス人はアジア世界の唯一の土着白人だったかもしれない。)
トロイアの実在を信じた考古学者シュリーマンの発掘以来,伝説の核となる歴史的事件の存在を認める学者も多くなった。トロイア戦争の時代は前13世紀ころとされる。
関連項目
イリアス帝国の指揮官アエネアスは、ギリシャ・ローマの伝説で、イリアス(トロイ)の英雄。またローマ氏族の初祖。ギリシャ名はアイネイアスAineiasないしアイネアスAineas。アンキセスと女神アフロディテの子。イリアス王子ヘクトルに次ぐ有能な指揮官。父アンキセスと子アスカニウスASCANIVSとともにイリアス帝国陥落から逃れて、ギリシャ本土を巡り亡命。ギリシャを離れカルタゴで王女ディドと恋に落ちたこともあったが、啓示をうけてイタリア半島に入り、ラムネス氏族,ケラレス氏族,トリブス氏族を平定し都市国家の王となる。その子孫がロムルス・レムスであるとされた。
関連項目
ロムルス王はローマの建国者で、初代王(レクス)。レムスREMVSは双子の兄弟である、叔父のアルバ・ロンガ王アムリウスよってティべリス川に流されたが、助かり、狼によって育てられた。レムスが家畜を盗もうとして、アムリウス王にとらえられ、そこで自身の生まれを知り、叔父アムリウス王を殺害し祖父を王に復位させる。のちロムルスとレムスは7丘に新たな都市国家(ポリス)を建国する。パラティヌス丘に築いたロムルスの城壁を、レムスが嘲ったのでロムルスは殺害し、ロムルスは単独の支配者となる。またロムルスはカピトリヌス丘で祭りを行い、そこでサビニ人を強奪した。彼は39年ローマを統治したが、ある日の嵐に姿を消してクイリヌス神になったという。ほとんど史実とはみなされていないが、ローマという地名からロムルスという人物が作り出されたと考えられている。
関連項目
ローマはイタリア半島のティべリス川にラテン人がたてた都市国家から始まり、のち世界国家に発展した。西洋史上最大の帝国である。ローマ神話では前753年ロムルスが建設,最初は立憲王政であったが,前510年ころブルータスがローマ統領(執政官・コンスル)となり共和制となった。市民専制の統領政府の共和国初期は、貴族(パトリキ)に対して平民(プレブス)の政治的同権を求める身分闘争が展開され、体外では前260年までにイタリア半島を共和国が平定、ついでカルタゴ(ポエニ)との3次にわたるポエニ戦争)および地中海東方での戦争に連勝を収め、前2世紀末には地中海を完全に共和国の支配下においた。しかし領土拡大の反作用として,ラフランラディウム農民の没落が見られた(兵士)、これを改善し、共和国を維持するため社会改革を進めたグラックス兄弟(ゴルバチョフの元祖)はむなしく殺害された、共和国末期の内乱が1世紀続き、スッラ,ガイウス・ユリウス・カエサルに代表される独裁官政治の常態化し、権力闘争による対立が止まらなかったが。前27年にオクタウィアヌスがアウグストゥス帝に即位し帝政ローマ(プリンキパトゥス)が成立した。帝政初期から五賢帝時代を通じて《ローマの平和(パクス・ローマーナ》が続き、2世紀トラヤヌス帝治世下で版図は最大となった。しかし3世紀後半からローマ戦国時代の大混乱が続いてしまうが、ディオクレティアヌス帝がこれを収集し,複数の皇帝政府が直接統治を始める態勢が始まる(ドミナトゥス,デュアルキア,テトラルキア)。しかしテオドシウス帝死後,395年に帝政ローマは西ローマ帝国と東ローマ帝国(ビザンツ帝国)に分離した。前者は476年オドケアルに滅ぼされたが、後者は1435年まで存続した。ローマ帝国(SPQR)の栄光は長くヨーロッパ統一の理念(ローマ理念)として継承された《第2のローマ・コンスタンティノープル》《第3のローマ・モスクワ》の思想を生んだ他、カール大帝のローマ帝国復活やオットー大帝の神聖ローマ帝国の建国,ナポレオン帝のフランス帝国,ファシズム国家観までに影響を及ぼした。ローマの文化的達成は,しばしは古代ギリシアと対比されて、その実用性やリアリズムの面のみが評価されてとどまるが、ポリスの連合と世界国家は同日の談ではない。世界宗教まで発展したキリスト教,あるいはローマ法やラテン語の継受だけとってみても、後世への影響はひるいなく大きい。
東ローマ帝国は、1453年の滅亡までアウグストゥス帝以来とコンスタンティヌス帝以来のキリスト教世界のローマ皇帝の共和国の元首政治が継続する権威ある大国として存続していた,呼称は首都コンスタンティノポリス(現,イスタンブール)の旧名ビュザンティウム(ギリシア名ビュザンティオン)にちなむ。英語ではByzantine Empire。ドイツ語読みで(ビザンツ帝国)である。また日本では(東ローマ帝国)とも呼ばれる。476年,ローマ帝国西方領土の西ローマ帝国は壊滅したが、東方領土の帝国は依然として残った。そしてオスマン帝国軍団によるコンスタンティノポリス陥落まで正当な〈ローマ共和国〉(SPQR)の命脈を保ったことに注意するべきである。多元語・多民族を抱え,ササン朝,十字軍,イスラム帝国などのいくたの戦争の中,聖俗の最高権威を有する、地上世界最高司令官市民ローマ当局者,世界国家のローマ帝国政府の下で、中世暗黒時代にあっては例外的な中央集権国家の広範囲の版図を維持し、ヨーロッパ世界と外国の盟主のような役割を果たした。特異な行政としてテマ制(軍管統領)がある。宗教はコンスタンティノポリス総主教が主座の東方正教会、8ー9世紀には影響の大きいイコノクラスム運動が起こった,ハギア・ソフィアを代表とする建築,モザイク,イコン,工芸にも見るべきものがるほか,古典ギリシア語を受容した教養文学(機知)にも傑作が好くなくない,外圧とともなう学者の西方への移動が,ルネサンスの起爆剤になった。ヨーロッパでイングランド王国やフランク王国,神聖ローマ帝国でアーサー王物語,や騎士道物語を歌う吟遊詩人の歌が流行っていても,東ローマでは未だにアウグストゥス帝業績録(AD15)、正教会の新約聖書(内容が微妙にカトリックと異なる。)などが延々と読まれまくっていたかもしれない。1453年以前から国家崩壊したり,コンスタンティノポリスのみの帝国政府でも細々維持したのも、もともと都市国家(ポリス)だったからとも考えられる。ついに、オスマン王メフメト2世がローマ皇帝コンスタンディノス11世ドラグシス足下のローマ正規軍を討ち滅ぼし,帝都も無惨に蹂躙された状況は,遠い昔にトロイア戦争で滅ぼされたイリアス(帝国に瓜二つだったのは,だれが想像しただろうか。偶然だったのだろうか。