上杉家
うえすぎけ
概要
藤原北家勧修寺流の流れを汲む。鎌倉時代中期に6代将軍・宗尊親王の鎌倉下向に陪臣として随行した藤原重房が祖とされる。
その後1266(文永3)年に宗尊親王が帰洛した時に随行せず武士となり、有力御家人の足利氏に仕えた。
室町時代
上杉清子(重房の孫)が足利尊氏の母親であったことから、室町幕府から厚遇を受けた。
清子の兄・上杉憲房は上野守護に任じられ、憲房の嫡男・上杉憲顕は上野に加えて越後、武蔵の守護、さらに関東管領へと任じられた。一門は関東管領を世襲し、上野・越後・武蔵・相模の4か国を治める守護大名となり、上杉家は足利氏の親戚として栄えた。
戦国時代
嫡流の山内上杉家と分家の扇谷上杉家が抗争を続け、共に弱体化。後北条氏という共通の敵ができたために和睦が締結された。1546年の河越夜戦で古河公方、山内上杉家、扇谷上杉家の連合軍は後北条氏に敗れ、上杉朝定が戦死して扇谷上杉家は滅亡した。
1552年、山内上杉家当主で関東管領の上杉憲政は北条氏康に領国を奪われ、越後守護代・長尾景虎のもとへと逃れる。
景虎は武田信玄や北条氏康と対立。信玄との間には五度にも及ぶ川中島の戦いがあり、氏康に対しては北関東の諸氏と連合して討伐のため度々出兵し、1560年には小田原城を包囲した。
1561年、鶴岡八幡宮(鎌倉市)で上杉憲政から山内上杉家の家督と関東管領職を相続し、上杉政虎と改名。ここに長尾上杉家が誕生した。
上杉政虎はさらに上杉輝虎に改名し、最終的に法名・上杉謙信を名乗った。
謙信はのちに氏康とは和睦(越相同盟)して彼の子・三郎(のちの上杉景虎)を養子に迎えた。だがこの和睦は長続きせず、氏康の没後に北条との同盟が再び破綻し、北条氏政(氏康の嫡男)と対立した。
また、信玄とも一時期和睦(甲越和与)していた。信玄の没後、謙信は武田勝頼(信玄の嫡男)との間に和睦(甲越和与)を再締結。これには、織田信長を牽制する狙いがあった。さらに謙信は、武田勝頼に加えて毛利輝元や本願寺顕如などとも連携して信長包囲網を結成。手取川の戦いにて織田軍を撃破した。これにより、謙信は北陸を平定した。
しかし、謙信は信長との決着がつかないまま病没した。
その後、上杉景勝(謙信の養子にして甥でもある)が上杉家を継いだ。その際、前述した上杉景虎(北条三郎)が反乱(御館の乱)を起こしたが、景勝はこれを鎮圧した。
景勝は、武田勝頼との間に同盟(甲越同盟)を締結。その際、景勝は菊姫(武田信玄の娘)と結婚し、彼女を正室にしている。これには、織田軍や北条軍を牽制することを目的としていた。
しかし、上杉家の盟友・武田勝頼は織田・徳川・北条連合軍による甲州征伐によって滅亡。その後、織田軍は3方向から上杉領へと侵攻。魚津城の戦いに敗北した上杉家は窮地に立たされるも、その1日前に織田信長が本能寺の変にて横死していたことにより窮地を脱した。
その後、景勝は豊臣秀吉に臣従。彼と共に後北条氏を小田原攻めによって滅ぼし、秀吉が天下を統一すると五大老に任命された。のちに秀吉は、徳川家康や伊達政宗を牽制するために、景勝に会津へと移封加増させる(このときの上杉家は120万石を誇った)。
そして秀吉の没後、家康は豊臣政権の乗っ取りを画策。その一環として、家康は景勝に対して言いがかりをつけた。上杉家重臣・直江兼続が直江状を家康に送り弁明を図ったものの、家康は会津征伐を実施。景勝は窮地へと立たされた。しかし、毛利輝元や石田三成ら反家康派・西軍が挙兵したために、徳川本軍は会津征伐を中止して西進を開始。これにより景勝は窮地から脱した。そして、景勝は西軍として慶長出羽合戦を戦う。しかし、西軍主力が関ヶ原の戦いに敗北したことにより家康の天下が成された。
これにより、景勝は家康に降伏。彼は米沢へと減封された。