天狗党
てんぐとう
- 江戸時代の幕末に水戸藩の革新派であった尊王攘夷派に名付けられた名称。
- 藤田東湖の四男・藤田小四郎が筑波山で挙兵した一派から膨れ上がった武装集団。この一団が水戸藩の門閥派(保守派)であった佐幕派の「諸生党」と激しい藩政抗争の末に北関東や北陸を巻き込んで拡大した大争乱は「天狗党の乱」と呼ばれている。
現在はこの「天狗党」から派生した創作集団や創作作品が存在する。他の天狗党と区別するために「水戸天狗党」の呼称がタグとして使われる事もある。
概要
水戸藩の改革派・尊王攘夷派として
水戸藩8代藩主徳川治紀の三男・松平紀教は長兄の9代藩主・徳川斉脩の死後、中下士層の支持を受け10代藩主になる。紀教改め徳川斉昭は「水戸の三田」と呼ばれた藤田東湖・戸田忠太夫・武田耕雲斎ら中士層を側近とし藩政改革を行った。これに対し徳川将軍家との関係強化を目指す上士層は11代将軍徳川家斉の庶子を養子を迎えることを唱えており斉昭の藩主就任に反対していたこともあり対立していき、東湖ら斉昭を支持する中下士層の尊王攘夷派・改革派は「天狗党」、斉昭に距離を置く上士層である佐幕派・門閥派は「諸生党」を構成し派閥抗争を繰り広げた。
ちなみに天狗党の「天狗」とはぶっちゃけ蔑称で「学問を鼻に掛け威張る成り上がり者」という意味から来ているとされている。諸生党の「諸生」とは書生に引っ掛けられており藩校の弘道館で学んだ人物が多かったためである。
安政の大地震で東湖と忠太夫が死亡し、幕閣でも斉昭と仲が良かった老中首座の福山藩主阿部正弘が病死し、斉昭と非常に仲が悪い彦根藩主井伊直弼が大老に就任したことは水戸藩内の動向にも大きな影響を与えた。安政の大獄で水戸藩の尊王攘夷派が多く罰せられ、桜田門外の変の三ヶ月後に斉昭が急病死したことで諸生党が水戸藩の主導権を握った。
天狗党の乱
斉昭という後ろ盾を失ったのみならず、上方以西でも文久三年の政変や天誅組の変に土佐勤王党への弾圧などもあり諸国の尊王攘夷派は公武合体派あるいは佐幕派に押されていた。状況の打開を狙った天狗党は武装蜂起による尊王攘夷を目指そうとするが、軍資金がないので周辺の町や村から略奪行為を行った。水戸藩では門閥派の首魁の市川三左衛門が諸生党を結成して天狗党を攻撃した。天狗党は諸生党ばかりか江戸幕府から若年寄の相良藩主田沼意尊(田沼意次の曾孫)を総大将とする追討軍を差し向けられてしまう。さらに在京中だった斉昭の七男・一橋慶喜も会津藩や桑名藩の兵を率い討伐に向かった。天狗党は北陸道を西進し京を目指したが福井藩領の敦賀で軒並み捕縛されてしまう。
天狗党の略奪行為に激怒した意尊は捕縛した残党をニシン小屋に拘留したため、その劣悪な環境で多数の党員が衰弱死していた。そして天狗党に壊滅を狙う諸生党や水戸藩の尊王攘夷派に直弼を斬殺された彦根藩の報復で、耕雲斎をはじめとした首謀者は軒並み処刑された。
その後、諸生党により天狗党の親類縁者にも過酷な処罰が言い渡され、女子や幼児も数多く処刑されてしまう。
一方若年なのを理由に遠島処分にされた武田金次郎などわずかに生き延びた者たちは、時世が変わり討幕派が本格的に動き始めたところで陸援隊隊長の中岡慎太郎のツテで本圀寺党と合流し官軍となって、諸生党討伐の勅旨をもらい報復を開始。
これにより賊軍となって討幕軍の標的にされた諸生党は必死に抗戦するもあえなく敗退。水戸藩庁を掌握した金次郎を中心とする天狗党改め「さいみ党」は憎悪の赴くままに暴走し権力をかさに報復を開始。今度は諸生党やその家族がことごとく処刑され、密告やいちゃもんによる私刑が横行し地域は荒廃して発展が遅れてしまった。
結局、幕末の一思想として水戸学による尊王攘夷思想を抱き一時は主導権を握っていた水戸藩は率いるトップ不在の内ケバによる抗争により人材のことごとくを失い、生き残った者たちも度量や見識に欠け感情の赴くままに暴走する輩ばかりで失脚し零落する者たちが続出。新政府に有用な人材を送り込む機会を喪い(元幕臣ですら勝海舟・山岡鉄舟・榎本武揚などがいる)、重要な地位を獲得できたものはほとんどいなかった。
「天狗党の乱」の最後の勝者など何処にもいなかったと言っていいだろう。
天狗党の構成員
水戸の儒学者藤田東湖の四男。
筑波山で挙兵し天狗党の乱を引き起こした武装集団「筑波勢」の実質的な首謀者。
那珂湊の戦いで敗れて大子町の山中に逃れた後、中山道を進軍するが福井藩領の敦賀で投降し、加賀藩に捕縛される。敦賀の来迎寺で斬首された。享年25。
何かとあざとい逸話の持ち主であり、乙女ゲームのキャラクターのモデルになったこともある。
→「遙かなる時空の中で5」マコト(マコト(遙かなる時空の中で5))
医師の息子で「筑波勢」の最初期からの参戦者だったが「愿蔵火事」と呼ばれた大火などの数々の暴挙により北関東を荒らしまくり「筑波勢」に対する鎮圧の大義名分を与えてしまった張本人。
「美青年であった」との伝承が残っている。
武田勝頼と運命を共にした跡部勝資の子孫。初名は跡部正生。斉昭から許され跡部から武田へ改姓した。斉昭からは友人の東湖や会沢正志斎・戸田忠太夫と共に用いられた。斉昭死後は水戸藩革新派の長老格として天狗党の代表格となる。
耕雲斎自身は武装蜂起に反対で小四郎から首領就任を懇願されるもこれを拒絶……したはずなのに、諸生党との政争の果てに「大発勢」として争乱に巻き込まれ筑波勢と那珂湊で合流。
結局「天狗党の首領」を引き受ける羽目になってしまい、那珂湊の戦いで敗れた一団を北陸まで牽引。最後は敦賀で斬首された。
耕雲斎の孫の一人で東湖の甥(妹の子)。
耕雲斎に付き従い「天狗党の乱」に参戦。
「敦賀の処刑」時に他の若年者達と供に遠島扱いとなり生き残ったが、水戸藩における「諸生党」による天狗党家族親族に対する残虐な刑罰に対し激怒した末に復讐者となり、大政奉還後に天狗党生き残り一派で徒党を組み水戸藩に帰還。「諸生党なら誰でも構わぬ残虐な仕返し」を果たす暴虐者と化してしまう。
この一派は「さいみ党」と呼ばれ、白昼堂々と襲撃と暗殺を繰り返し、これによって大混乱に陥った水戸藩は事実上、止めを刺されてしまう。
「諸生党壊滅の要因はこの男を激昂させたこと」とも言われている。
廃藩置県後しばらくは茨城県の参事に就くなど職を持っていたが、祖父や外伯父と違って学もなく器も小さかったことから政務をこなすことができず次第に疎まれ始め明治政府からもまるで顧みられなくなり、経済的に困窮。かつて「ニシン蔵」に幽閉された時の後遺症からきた持病が悪化、やがて行方不明となる。晩年(1895年前後)は温泉宿で乞食同然で過ごしていたところを保護され水戸に戻されたが約3ケ月後に、48歳で逝去したという。明治生まれで大正から昭和期の評論家である山川菊栄は金次郎を「無知、幼稚。空虚な名門の思い上がりと、まるで復讐をあおるような朝廷からの甚だふさわしからぬ御言葉だけに支配されていた。五カ条の御誓文など読めもせず、読んで聞かされても、解りはしなかったろうともいわれた」と酷評している。
江戸出身。のちの赤報隊隊長。北陸道を西進する天狗党の軍に加わったが金次郎らと共に助命された。
天狗党関係者
小四郎の父で「水戸の三田」の一人。水戸藩の著名な儒学者であり尊王攘夷思想家だった。
耕雲斎共々斉昭に重用されていたが「安政の大地震」により死亡。東湖が生きていれば「天狗党の乱」は起こらなかった、とさえ言われる事も。
「水戸の三田」の一人。東湖と共に「水戸の両田」と言われた文化人。東湖・耕雲斎や共々斉昭に重用されていたが彼も「安政の大地震」により死亡。このため斉昭の政治力が低下した。安政の大獄で直弼に切腹を命じられた安島帯刀は実弟。
東湖の父・藤田幽谷の門下生。治紀に命じられ幼少の斉脩や斉昭の教育係を務めたことがある。斉昭の藩主就任後は東湖・忠太夫・耕雲斎と共に斉昭の側近となる。東湖と同じく尊王攘夷思想家だったものの、最晩年は過激過ぎる尊王攘夷派から距離を置き、最終的には開国派(ただし斉昭も本音では開国やむなしという考えだったが)に転じたため激派から糾弾された。彼の死の翌年に天狗党の乱が発生する。
その他、水戸藩の諸勢力
諸生党
「天狗党」の敵対勢力で佐幕派。斉昭と対立しており、斉昭晩年は井伊直弼と連携していた。天皇よりも幕府を重んじるべきという考え方であり、市川のように大政奉還後、新政府軍と戦った人物もいる。
諱は朝道。下総結城氏または白河結城氏出身。斉昭の宿敵の一人。元々斉昭や天狗党との関係は悪くなかったものの対立。斉昭が徳川家慶に強制隠居させられ斉昭の長男・徳川慶篤が継いでからは専権を振るったが老中・阿部正弘の命で強制隠居。その後も反斉昭を貫き正弘死後、直弼とも関係が近い水戸支藩の讃岐高松藩主・松平頼胤を水戸藩主に擁立しようとしたため後見役として政務復帰していた斉昭に処刑された。
諱は弘美。寅寿が斉昭に処刑されたあとの諸生党の中心人物。
天狗党の乱の鎮圧後、その親族に対する過酷な処分を主導して猛反発を招く。
戊辰戦争では越後長岡藩・会津藩など奥羽越列藩同盟に味方し各地を転戦した。会津での敗戦後は蝦夷へ渡らず江戸に潜伏する。
1869年にフランスへの亡命を企図したが亡命当日に水戸藩の捕吏に縛されて水戸へ移送され「正に晒し者」として「逆さ磔の刑」に処せられた。