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概要編集

面積約30万9500平方km、人口500万人、首都マスカット

アラビア半島東端に位置しホルムズ海峡辺りまでの北東部を領土とする君主制国家。アラビア半島の東部、ペルシャ湾の入り口に位置する。西にサウジアラビア、南にイエメン、北にはアラブ首長国連邦(UAE)が位置する。ペルシャ湾岸でもさらにUAE領のムサンダム半島先端に飛び地を有しており、石油輸出ルートの要衝であるホルムズ海峡をも領海とする。つまり、中東の海上交通の要所を国土としている国という事になる。


海に面していることに加え、特に水深が深く周囲を岩山に護られた良港を擁していたので、砂漠の遊牧と交易が主なアラビア半島でも昔から特に海上貿易が盛んである。その為、アラビアンナイトの物語にある船乗りシンドバッドの冒険の舞台としばしば想定されている。その多数の帆船を擁する海軍力を生かして一時は東アフリカ全土を支配し、オマーン帝国と呼ばれる植民地帝国でもあったことで知られる。

他の湾岸諸国と同じく石油を算出し、輸出の多くを占めている。ただし可採年数は残り十数年と言われ、石油以外の産業開発が課題となっている。


国名編集

正式名称はオマーン国。現地のアラビア語ではスルタナトゥ・ウマーン。アラビア語の発音では2番目の母音「マ」は長母音であるため、「オマーン」というカタカナ表記が正しい。「オマン」と発音を縮める表記は他の外国語でもありえなくはないが、英語表記を英語読みしたものを日本語にした「オーマン」のようなアラビア文字の綴りやアラビア語の音韻を逸脱した表記は日本語では間違いとされる。正則アラビア語に従った仮名表記では「ウマーン」になる。スルタンを敢えて邦訳すると「皇帝」や「王」を意味するので、「オマーン帝国」「オマーン王国」などと呼ぶのが直訳に近いだろうか。


かつては「マスカット・オマーン土侯国」と邦訳された。カーブース前国王の代よりオマーン国と表する(丁度この頃より土侯国の名も首長国と表するようになる、土人部族のような響きが原因か)。なお、マスカット・オマーンと首都名をつけていた理由は、同国と長く競合関係にあった休戦オマーン(トルーシャル・オマーン)土侯国があったため(休戦オマーンとはつまりこのマスカット・オマーンと休戦状態であったから)。実はこれ、現在のUAEである。


地理編集

北がペルシャ湾(オマーン海とも呼ぶ)、東南側はアラビア海(インド洋)に面する海洋国家。

全土が砂漠気候に属する。内陸部に広大な砂漠が広がる。北部ではやや海岸寄りにハジャル山脈という高山地帯があり、そこから海までがバーティナ平野という平地だ。どちらも厳しい気候のせいで緑は少ない。ただし山地には各所にオアシスがあり、またファラジュという灌漑施設が設けられて農業が営まれている。南部のドファール地方はモンスーンの影響を受けて、アラビア半島には希少な緑が広がっている。


国民編集

民族構成・宗教構成は多様である。王室と多数派はイバード派に属するが、他にスンニ派アラブ人も二割以上を占め、南部ドファール地方を中心に暮らしている。さらにザンジバルやアフリカなどの植民地から帰国した人々は英語力を生かして欧米系企業で、商人としてインドから渡来した人々も財閥を形成するなどで活躍する。民族的出自は多様であるが、いずれにせよ国民はほぼ全てイスラム教徒である。また国籍を与えられない短期移民が実質人口の四割を越えている。こちらはフィリピンキリスト教徒、インドのヒンズー教徒、スリランカ仏教徒など宗教的にもさらに多様な人々が短期就労ビザを更新して実質的な住民となっている。


歴史編集

起源編集

メソポタミア文明の時代には既にマガンという古代文明が主に青銅製品の産出で栄えていた。ムハンマドイスラム帝国を築いた後はイスラム圏となる。カリフたちの争いからウマイヤ朝が成立すると、オマーンは反ウマイヤ朝の立場を取るイバード派の拠点となった。

イバード派の教主はイマームと呼ばれるが、シーア派とは異なりムハンマドの血縁であることを求めず、スンニ派カリフとも異なりメッカのクライシュ族出身であることも求めなかった。オマーンは長年に渡って有力者がイバード派のイマームに選ばれて王朝を開き、治める土地となった。だが16世紀に入ると大航海時代を迎えたポルトガルが侵入し、オマーンの海岸部を支配するようになる。


ポルトガル統治編集

1624年に内陸でイマームに選ばれたナースィル・ビン・ムルシドはヤアーリバ朝を開いてポルトガル勢力の打倒を掲げて各部族の支持を集める。ナースィルは内陸のニズワを都とし、次々とポルトガル人が抑えていた都市と要塞を奪取する。二代目イマームのスルターン・イブン・サイフは1650年ついにマスカットを攻略してオマーン全土をポルトガル人から解放する。ポルトガルは当時千トン級の大型帆船をマスカットに停泊させていたが、スルターンはこれを鹵獲した上に、はるばるインドから大型帆船を購入して強大な艦隊を築いた。オマーンの艦隊は東アフリカ各地を遠征してポルトガル領を攻撃する。早くも1652年にはポルトガル領のザンジバルを攻撃している。1655年にはインドのポルトガル領ボンベイまで攻撃している。これに対してポルトガル艦隊が1652年にマスカットを襲いオマーンでも内乱が続くなど一進一退の攻防が続くが、次第にアフリカ大陸東部にオマーンの拠点が増えていった。第4代イマームのサイフ・ビン・スルターンは20隻以上の艦隊を有し、うち5隻が大型帆船であったという。サイフはこの強力な艦隊を率いて1696年にポルトガル領(今でいうケニアにあった)モンバサのジェズス要塞を包囲陥落させる。さらにサイフは勢いに乗ってペンバ島、キルワ島、ザンジバル島などを領土に加えてポルトガル勢力を一掃し、東アフリカ全体の覇者となった。これ以降のオマーンをオマーン帝国、オマーン海上帝国とも呼ぶ。大航海時代に東洋でこれ程の海洋帝国を築いた国は極めて稀である。この頃、イギリスオランダの商人もインド洋に進出してきたが、主な敵はポルトガルやスペインであったので、オマーンとは協力関係にあったようだ。オマーンは奴隷を中心に象牙などのアフリカの産物を西洋人と貿易して繁栄する。しかしその後、ヤアーリバ朝は内紛から衰退し、ついには内紛に介入したペルシャの支配を受けることになった。


交易国家へ編集

マスカットを占拠したペルシャ軍の攻勢に対し、ソハールという街の将軍であったアフマド・イブン・サイードがこれを政略軍略を巧みに用いて破り、ついにはオマーン全土を取り戻した。この功績によりアフマドは1749年にイマームに選ばれ、ブー・サイード朝を開いた。これが現在のオマーン王室にあたる。内乱により東アフリカでの勢力はモンバサを失うなど弱体化していたが、アフマドは30隻以上の艦隊を建造してペルシャ湾岸の貿易に力を注ぐ。当時の東西貿易は紅海からエジプトを経由していたが、アフマドはエジプトの混乱に乗じてペルシャ湾経由の貿易を主要ルートにすることに成功した。アフマドの後、ブー・サイード朝は首都を歴代イマームが拠点とした内陸からマスカットに移し、称号も宗教指導者としてのイマームではなく世俗的に高貴な人物を指す「サイイド」と名乗るようになった。18世紀末にはインド西部のグワーダルという港(現在のパキスタンバローチスターン州沿岸部に位置する)を領土に加えてさらにインド洋貿易が栄える。1806年に即位したサイイド・サイードの代に最盛期となり、ソマリアからモザンビークに至る東アジア全土をオマーン帝国の領土とするに至った。サイードはアフリカ・タンザニアの大きな島であるザンジバルに遷都した。1856年のサイードの死後に王室は分裂し、ザンジバル側とマスカット・オマーン側に分かれた。この頃から、イギリスが本格的にインド洋各地の植民地化を進めており、やがてオマーンの命運に関わるようになる。


ザンジバルとの対立編集

ザンジバルは一時はマスカット・オマーン本国を凌ぐ勢いを誇った。貿易の富をほぼ独占してマスカット・オマーンを経済援助していた程である。しかし貿易の柱であった奴隷貿易が取引相手イギリスの禁止により大きな打撃を受ける。また海軍力も世界的な蒸気船化には対応しきれなかった。弱体化の中で内紛が起こり、1896年には王位継承に介入したイギリスに敗れてついには保護領となる。その後はイギリスお約束の現地住民間の争いを推奨する政策でオマーン人とアフリカ人との対立が深まった。この結果、イギリス保護領から1963年に脱却し独立した途端にアフリカ系を中心とした革命が発生(1964年)してザンジバル側の王族は亡命。更に統治能力の無かった革命政府を見かねた隣国タンガニーカとの合併によって現在のタンザニア連合共和国となった。


独立編集

マスカット・オマーン本国は内陸部部族の統制を取れずに勢力を海岸部に限定され、さらに一族内での内紛にも悩まされる。1913年に内陸の部族は独自にイバード派のイマームを選出して海岸部のブー・サイード朝に圧力をかけた。イギリスはオマーン王家を支援し1960年代にようやく内陸部の反乱はほぼ収まる。しかしこの過程で王家は次第にイギリスの傀儡となっていった。こうしてオマーンは19世紀から第二次世界大戦後までイギリスに支配され、1971年に独立する。


近代編集

独立までスルタンであった先代のサイード国王時代は抑圧された社会で経済も停滞傾向にあったが、1972年にクーデターが発生し長男のカーブースが父王を廃して新たなスルタンとなった。カーブースは当時開発が進んだ石油産業を背景に病院や学校、道路などを建設して急速な近代化を成し遂げた。また、カーブースは建築基準法で外見をアラブ・イスラム様式に従って設計するよう定めたので、高層ビルが少ない独特の景観が形成されるようになった。

2020年にカーブースは崩御、跡継きがいなかったので叔父・ターリクの子(つまりカーブースの従弟)ハイサム・ビン・ターリクが即位した。


王室編集

王室はブーサイード朝。18世紀以降同地を治めている。19世紀以降はそれまでのサイイドに代わってスルタンを称号に採用している。カーブース以降、国王が首相や国防大臣、財務大臣などを兼任して権力を集中する体制をとっている。国王が大臣を兼ねる省庁は担当大臣が置かれて国王の仕事を代行する。


ブー・サイード家の人々が広義の王族にあたるが、手当を受け取るなどの特権があるのはアフマド・イブン・サイードの子孫に限られる。よって、旧ザンジバル王室成員も広義の王室メンバーである。ただし王位継承権を有するのは第十代のトゥルキー王の子孫に限られるので、旧ザンジバル王室はこれに含まない。


日本との意外な関係編集

カーブース王の祖父に当たるスルタン・タイムールは退位後諸国漫遊の旅に出、1935年日本の神戸にて日本人の大山清子に一目惚れし1936年に結婚、二人の間の子がブサイナ(アラビア語で美しいを意味する)王女。(カーブース王にとっては叔母にあたる)

タイムールは当初自分をオマーンの富豪と名乗って半ば清子に身分を偽ったまま一緒になる約束をしたが、当時は外国人が珍しく国際結婚など一般的で無かった時代。当然清子の両親は猛反対、最終的に「日本で暮らす」という条件で許可。これを聞いたタイムールはなんと王室の権限を投げ捨てて日本で清子と暮らすことを決意したという。


二人の暮らす邸宅は電気冷蔵庫に電気で湯を沸かす風呂など当時では最先端の道具が揃っていた。清子の妹の一人、大山昌子(ブサイナの叔母)はその豪勢な暮らしぶりに驚きを隠せなかったと語っている。

しかし清子は1939年に結核のため若くしてこの世を去る。タイムールは娘を育てるため一度オマーンに戻り必要な準備を整え再度日本にも訪れる予定であったが、奇しくも日本は太平洋戦争に突入、父娘とも日本への帰国が果たせないまま、タイムールも1964年に崩御した。


タイムールの息子で当時既に王位を受け継いでいたサイードは閉鎖的な人物で、タイムールの結婚当初こそ父を祝うため弟のターリク王子(後に首相を務めた、ハイサム現国王の父)と共に来日したものの、父の死後ブサイナを王宮に軟禁した(これはブサイナだけの話では無い。カーブースも父によって軟禁された時期がある)。

カーブースによるクーデターによりサイードが退位し、漸くその禁は解かれ、昭和53年頃には母の墓参りのためブサイナはターリクと共に久方ぶりの来日を果たし、大山家の家族とも会っている。なお、1973(昭和48)年にターリクと共に正面から撮影された写真、また恐らく同時期に昌子と共に写った写真が残されているが、恐らく顔がはっきりと映った写真はこれが最後であると思われる。


しかしその後は再び王宮にこもりがちになり(理由は不明だが、王宮内でも頼れたターリクが1980年に薨去したことも理由と考えられる)、平成時代初期に当時の皇太子同妃両殿下が来訪した際も面会しなかったとされる。後に互いに高齢になったこともあり、叔母昌子の切なる願いもあって40年ぶりに手紙によるやり取りが行われたという。


2011年3月に東日本大震災が日本で発生した際には、オマーンの王族系の企業から迅速な支援のために南相馬市原町区の落合工機に26億円の発注がされて話題となった。なお、オマーンによる東日本大震災義援金の即時用意額はアメリカ・台湾・タイと言った馴染みある国家に次いで4位だったという。

2019年にはターリクの長子で現国王の兄、アスアド王子(副首相)が「即位礼正殿の儀」にあたって来日、この際兵庫県稲美町にある節子の墓に参っている。


渡航編集

日本国籍者は14日までの短期滞在の場合査証は免除。残存有効期間6ヶ月以上のパスポート、復路航空券、ホテル予約確認書が必要。

日本の外務省は危険情報はないが強盗や薬物犯罪に注意してほしいとのこと。


余談編集

どうしても知りたい連中がいるようだから言っておくが、オマーンには湖は存在しない。国土全土が砂漠地帯で湖どころか河川すらなく、わずかな化石水が染み出してくるオアシスだけが水源である。

ついでに言うと海(オマーン湾)に面した地域には港はあるが、オマーン港という名の港も存在しないし、オマーン国際空港も存在しない。

残念だったな!


オマーンという国の話


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