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オースチン

おーすちん

欧州系の人名であるが、一般的にはイギリスの自動車メーカーオースチン・モーター・カンパニーの略称、あるいは自動車のブランド。
目次 [非表示]

表記ゆれ

ヨーロッパ、特にイギリスおよび新大陸においておよび名前( Austin )として用いられ、さらに地名や会社名などにも使用されているが、表記ゆれとしてオースティンが存在する、ちなみにオースティンには別のつづり( Austen )が存在するが、こちらはオーステンと表記される、この項目では最初にピクシブ百科事典に存在する人名を取り扱い、イギリスに存在した自動車会社およびブランドに関して説明を行う

オースチン

スティーブ・オースチン オースチン・オブライエン

オースティン

ユアン・オースティン クーデルカ・オースティン オースティン オースティン&アリー

自動車会社

この名称はかつてイギリスにおいて1904年から1952年まで存在した「オースチン・モーター・カンパニー」およびその後後継会社等において使用された自動車のブランド「オースチン」に関して説明を行う。

ハーバートオースチン時代( 1905-41年 )

1896年にウーズレー・エンジニアリング・リミテッド( イギリスの会社、自動車部門は売却され、現在でもブランドとして残っていたが消滅、会社自体はファーガソンとして配管や空調関連機器などの製造・販売を行う会社として残っている )で働いていたイギリス人自動車技師、ハーバート・オースチン1905年にロングブリッジ( 現在のバーミンガム )に設立( 後にウスターシャーに移転 )した。

車両

最初に製作した車両は5000ccの直列4気筒エンジンをチェーン駆動( 駆動形式のひとつ、バイクなどに用いられる )モデルの乗用車で、5年間の間に約200台を生産、第一次世界大戦の際当時の英国政府の調達を受け、大砲から飛行機までのあらゆるものを製造、設立当時2500人だった従業員は22000人間で増加、オースチンの大きな成長の第一歩となったものの、戦後、ハーバートは3620ccの20馬力のエンジンをベースにした乗用車( 20HP )、商用車トラックトラクターの製作計画を立てていたものの、大戦中に大型化した工場および従業員の規模を満たすレベルの需要は起きず破綻しかかり、会社を整理して再起、1922年に1661ccのエンジンを搭載した廉価版の12HP、それに続いて7が小型車として自動車市場に投入された。

オースチン7

この車両はハーバート・オースチンが自ら企画したものであり、そのほか1名で8ヶ月で設計、「今までの車両の小型化」であったが、当時イギリスで製造されていた簡易的な自動車「サイクルカー」を駆逐し、1939年までに29万台が製造され、この車両をスポーツカーにするボディーが別メーカーから発売されたり、ドイツではゴータ(鉄道)車両製作所 アイゼナハ車両製作所がライセンス生産を行い、工場を購入したBMWが後に同車両を Dixiとして生産、フランスアメリカ合衆国でもライセンス生産され、デザイン面をぱくった扱いされるダットサンクーペ( ただしこれは形だけで実際には別の会社の車両を参考しているといわれており、十四年式拳銃ルガーP08の関係に近いのかもしれない )。

レナード・ロード時代(1941-67年)

第二次世界大戦においてこの会社はは乗用車と並行して軍事的に必要となるトラックと飛行機を生産していたものの、一段落ついた1944年には戦後型になる車両「16 hp」を発表、翌45年に生産を始めたが、戦前の「16」の車両と見た目の変化はなかったが、エンジンが16馬力のOHV進化していたとされる。

会社の終了

1952年Austin Motorsナッフィールド・オーガナイゼイショングループ( Nuffield Organization、元はモーリス自動車であったが同業他社を買収し、この形態となっており、第二次世界大戦中にはクルセイダー巡航戦車などの戦車のエンジン等も製造している )に吸収合併され、ブリティッシュ・モーター・コーポレーション( BMC )となり、この名称は車両のブランド名となり、このころから複数ブランドのバッジエンジニアリング、すなわちOEMによる姉妹車製造に走ることとなった一方、同年日産と技術提携を結びA40サマーセットとA50ケンブリッジが日産でノックダウン生産( 製品の主要部品を輸入して、現地で組立・販売する方式、ただしこの車両の場合ライセンス生産に近い方式の契約であったため、後のセドリックに技術は生かされたとされる )された。

MINI

1956年アレグザンダー・アーノルド・コンスタンティン・イシゴニス( 自動車のデザイナー、モーリスマイナーの設計などで知られる )に新車の開発を依頼、同時に中東戦争による石油危機にイギリスが見舞われたこともあり、小型自動車が求められるようになっていたが、1959年にミニ( 以後クラシックミニ )が誕生。クラシックミニにはモーリス版であるモーリス・ミニ・マイナー、オースチン版であるオースチン7が存在しており、ミニに採用された横置きFFでギアボックスをオイルパンの中に収めるバイクと似たイシゴニスのコンセプトは1963年の1100、1964年の1800、1969年のマキシは彼の設計であり、後継車両には1973年のアレグロ、1980年のメトロにまで採用されている。

混迷、そして終了(1968-87年)

ブランドとなってからもイギリスの経済は停滞しており、1966年にはジャガー( 1922年にスワロー・サイドカー・カンパニーとして成立、当初外装を手がけておりオースチン7のカスタムカーなども手がけ、その後自社製造するようになりSSジャガー、戦後にジャガーと社名変更している、なおディムラーブランドを買収により入手している )を吸収、ブリティッシュ・モーター・ホールディングス( BMH )となるも、本業の不振および政府の主導により、レイランド・モーター・カンパニー( トラック等の商用車を主として製造していたメーカー、戦後合併によりローバーブランドを手に入れている )との統合を行い国有化、ブリティッシュ・レイランド・モーター・コーポレーション( BLMC )となるも、逆にブランド間の競合や会社併合による高級ラインの低級化、オイルショックの影響などもあり、1975年半国営化、ブランドの整理が進められることとなり、また1979年から1981年の間に本田技研工業と提携、共同開発などを行っているが、1982年にはオースチン・ローバー・グループと名前を変更し、その低価格帯ブランドとなるものの、ラインナップのメトロ、マエストロ、モンテゴの作りの粗雑さ、たとえば防錆処理の甘さなどが仇となり特に海外で人気を失い、ブランドとしてのオースチンは1987年に消滅した。

その後

その後、ブランド自体はローバーが保有していたが、会社自体を1988年ブリティッシュ・エアロスペースに身売り、さらに1995年BMWが買収し、本田技研が所有していた株式も買収し完全子会社化するも、2000年に破綻、会社のブランドは分割され、ミニ、トライアンフ、ライレーを手元に残し、ランドローバー部門はフォードに売却、残りのブランドはイギリスの投資グループに実質的に譲渡されMGローバーとなるも2005年に会社が倒産、会社は分割され、スポーツ部門のMGの知的財産権および工場を南京汽車が買収したため、ブランド自体は現状この会社が保有している(ちなみにローバー部門に関してはブランドをインドのタタ・モーターズ、ローバーのエンジンや車体といった知的財産、それまでのローバー車の生産および販売権等は上海汽車が所有している)

関連項目

欧州人名の一覧 外国人名

自動車 イギリス

参照

wikipedia:オースチン・モーター・カンパニーおよびリンク先、オースティン_(曖昧さ回避)

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