経歴
現役時代
1966年(第2回)の第一次ドラフト会議にて、広島カープ(当時)より2位指名を受けて入団した。
※この年のみ、ドラフト会議は第一次と第二次の2回に分かれていた。
4年目の1970年に頭角を現し、2番打者・遊撃手のレギュラーとなる。
「鬼軍曹」として知られる大下剛史と1・2番及び二遊間を組み、1975年のカープ初優勝に貢献。
以後も70年代におけるカープのレギュラーとして活躍。
1979年にはカムバック賞も受賞し、翌年と合わせての2年連続日本一にも貢献。
その後は高橋慶彦の成長もあり代打での出場が増え、1983年限りで現役引退。
広島監督時代
現役引退後もそのままカープに残り、コーチとして1984年・1986年・1991年の優勝にも立ち会っている。
1994年に二軍監督から一軍監督に昇格。以後1998年まで5年間カープを指揮する。
監督1年目の1994年は、5月18日の巨人戦(福岡ドーム)で槙原寛己に完全試合を許した。
この年は首位巨人から4ゲームの3位で、北別府学が引退。
1995年は前田智徳がアキレス腱を断裂し離脱するものの、野村謙二郎がトリプルスリーを達成し、江藤智が本塁打王と打点王の2冠に輝き、2位となった。
1996年は7月まで巨人に最大11ゲーム差を付けて首位を独走していたが、巨人に大逆転優勝を許してしまい、中日にも抜かれて3位。俗に言うメークドラマの引き立て役となってしまった。
1998年は5位に転落し、監督を辞任。現役時代から31年間に渡って着続けたユニフォームを脱いだ。
以後カープは2012年まで15年連続Bクラスに低迷することとなる。
監督退任後
1999年から2003年まで野球解説者となる。2004年から2005年までの2年間はヘッドコーチとして復帰するも、2005年は最下位に沈み山本浩二監督と共に責任を取る形で辞任した。
2006年から2007年には再び解説者となったが、2008年より生まれ育った広島を離れ、東北楽天ゴールデンイーグルスの編成本部長に就任した。
しかし、2009年のドラフト会議(10月29日)からわずか4日後の11月2日に体調を崩し、翌日11月3日に61歳の若さで死去した。
元々楽天は野村克也監督の後任として三村を挙げていたが死去により叶わず、マーティ・ブラウンが監督に就任した。
葬儀では山本浩二、衣笠祥雄、金本知憲(当時阪神でプレー)、野村謙二郎(翌2010年より広島監督)、緒方孝市(この年限りで現役引退)など球界関係者が参列し、金本は「三村さんのおかげでレギュラーになれた。」と感謝の念を語った。また、緒方は2015年の広島監督就任にあたり、「理想の監督は三村さん」と名を挙げている。
エピソード
1975年9月10日の中日戦(旧広島市民球場)では、本塁クロスプレーでの判定を巡って激昂し、そこから乱闘に発展した。
この乱闘では観客まで雪崩れ込み、怪我をした選手たちもいた。
ちなみにこの観客の中には、当時13歳の風見しんごもおり、星野仙一に砂をかけたエピソードが知られている。
(上記動画の6:29より)
監督時代の1997年(当時49歳)には、選手達に混じって『筋肉番付』の「ストラックアウト」に挑戦した。記録は3枚。
関連タグ
背番号9の主な選手
達川光男:三村の後任監督。