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永島慎二

ながしましんじ

日本の漫画家、アニメーター、イラストレーター。1960年代には「青年漫画の教祖」と呼ばれた。
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概要編集

本名:永島眞一(1937年7月8日~2005年6月10日)

日本の漫画家アニメーターイラストレーター

ペンネームは「眞一」を「慎二」と誤植されたのがそのままになった。

ヒッピー文化に影響を受け、独特の作風で1960年代に人気を集め「青年漫画教祖」と呼ばれた。

喫煙パイプ製作、鉄道模型将棋制作、紙飛行機制作、ヘラブナ釣り錦鯉飼育、古銭収集などを趣味とした。


略歴編集

1937年7月8日、東京市滝野川区(現在は東京都北区滝野川)に誕生。父は出征して戦死。家は空襲で焼かれ、目黒区に転居。小学生の頃から漫画家を志望。

1950年、目黒区立第一中学校に入学。不良少年として知られ、中学校では番長を務め、高校生相手の喧嘩で警察のお世話になったこともあった。

1951年、家出して職を転々とし、極貧の生活を続ける。「漫画少年」(学童社)に投稿した「こぶたのトンちゃん」が掲載された。


1952年、描き下し単行本「さんしょのピリちゃん」(鶴書房)が出版されて原稿料を貰い、西品川品川区)で揚げ物屋を開業していた家族と共に住む。

1953年、若木書房に出入りしていたつげ義春遠藤政治らと親交を結ぶ。トキワ荘グループや、劇画工房グループとも交友。

1956年、手塚治虫アシスタントを務める。

1957年、杉村篤石川球太深井国らと「むさしのプロダクション」を結成。


1961年、貸本劇画誌「刑事」(東京トップ社)で『漫画家残酷物語』を連載し、人気を得る。「ガロ」(青林堂)や「COM」(虫プロ商事)で発表した漫画で「青年漫画の教祖」と呼ばれるようになる。

1962年、さいとう・プロダクションに籍を置き、絵柄が劇画風に変化。自宅に帰らなくなり、新宿フーテン生活を経験(その体験を元に1967年に『フーテン』が描かれた)。

1964年、虫プロダクションに籍を置き、テレビアニメジャングル大帝』などで演出を担当。

1966年、園田光慶らと共に『巨人の星』(原作:梶原一騎 作画:川崎のぼる)を連載初期に手伝う。

1967年、「週刊少年キング」(少年画報社)で『柔道一直線』(原作:梶原一騎)を連載。大ヒットする。

1968年、梶原との確執から「絵の勉強に行ってくる」と称してアメリカへ逃亡。『柔道一直線』はしばらく休載。

※永島のアシスタントに入る予定だったあだち充は行き場を失ったが、どうにか石井いさみのプロダクションに就職。


1970年、梶原との作家性の違いを理由に『柔道一直線』の連載を降板。続きは斎藤ゆずるが描く。


1971年、「週刊少年サンデー」(小学館)で『花いちもんめ』を連載。同作で第17回小学館漫画賞を受賞。

1973年、テレビアニメ『ワンサくん』(虫プロダクション)、『ミラクル少女リミットちゃん』(ひろみプロダクション)でキャラクターデザインを務めた。

1980年、大麻不法所持で逮捕。この頃から漫画は半ば引退状態となり、主にイラストレーターとして活動。

2000年、糖尿病が悪化し、人工透析を受けるようになる。

2005年6月10日、慢性心不全のため死去。


関連タグ編集

漫画家

宮谷一彦

村岡栄一

岡田史子

あだち充

唐沢なをき


関連作品編集

ミラクル少女リミットちゃん:東映アニメーション作品

漫画家残酷物語

フーテン:手塚治虫のばるぼらに影響を与えている。

旅人くん

ひな子ちゃん

黄色い涙

人間劇場

青春裁判

はだしのブン

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