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通勤五方面作戦

つうきんごほうめんさくせん

高度成長期の首都圏で行われた複々線化などの通勤輸送力増強投資。東海道(横須賀)線、中央線、東北(高崎)線、常磐線、総武線の5方面の路線で行われたことからこの名がある。
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概要編集

国鉄高度経済成長期の東京近郊の輸送需要をさばくために1965年(昭和40年)から展開した、複々線化・バイパス線建設などの諸施策。


現在のJR東日本の東京地区の運行体系を作った。別名東京五方面作戦。単に五方面作戦という場合もある。


戦後の日本は、鉄道による通勤需要が非常に高まり、乗車率は非常に高まった。計画当時の乗車率は300パーセント前後と現在の通勤ラッシュの比ではなかった。


そこで、東京駅上野駅を中心に放射状に延びていく東海道横須賀線総武線中央線東北高崎線常磐線の五つの路線で抜本的な対策を打つことになった。


各方面の施策編集

東海道・横須賀線編集

横須賀線が東海道線に直通していた大船以東がネックとなっており、貨物列車の運行を武蔵野線に振り替えることで既存の貨物線である品鶴線を旅客線として転用、東京駅品川駅間も地下に線路を建設し、横須賀線の電車を振り分けた。平塚駅小田原駅の間でも貨物線と旅客線での複々線化を実行した。


総武線編集

計画当時は秋葉原駅にて総武線から京浜東北線山手線に乗り換える客が殺到していた。そこで、東京駅錦糸町駅間に新線を建設、錦糸町以東は複々線化という形で総武快速線が建設された。この総武快速線は上述の東京品川間の地下線を介して直通運転が開始され、今日の輸送形態となった。当時建設が進んでいた営団地下鉄東西線との直通運転も行われた。


中央線編集

総武線と同じく、営団地下鉄東西線との直通運転が行われた。また、すでに中野以東での複々線化が行われており、複々線を立川駅まで延伸する計画が立てられた。しかし、複々線は三鷹駅までしか建設されず、現在では立川までの延伸は事実上白紙となった。


東北・高崎線編集

京浜東北線と並行して走る赤羽駅から大宮駅の間では、現在と違い中・長距離列車と京浜東北線が同じ線路を走るという有様であった。しかも東北新幹線上越新幹線は開業前であり、特急電車もバンバン走る路線であった。京浜東北線と東北・高崎線の線路で旅客線を複々線化することによって対策した。この時は手つかずであった貨物線は通勤五方面作戦終了後に活用されることとなる。


常磐線編集

東北本線の路線条件の悪さから、上野発東北方面行の優等列車の多くが常磐線経由で運行されていた。その中で沿線の宅地開発が進み、営団地下鉄千代田線との直通及び複々線化にて対処することになった。

しかし、国鉄に対する営団の運賃の高さや、複々線化当時は柏駅が快速通過駅であったこと、三河島駅南千住駅が2004年になるまで中距離電車(交直流車)が全列車停車しなかったことなど完全に対処できたかどうか怪しい箇所があった。そもそも、2005年まで並行路線が存在しないに等しい鉄道路線だったことも一因だろう。


その後編集

通勤五方面作戦にかかった総額1兆3,500億円と言われる莫大な投資は、全額国鉄の自己資金で賄われたが、その公益性を鑑みれば税金を投入して行われるべき事業であった。そのため、インフレ率を反映した運賃値上げを認められなかったこと、鉄建公団が建設した赤字路線の引き受けを強要されたことなどとあいまって国鉄の財務を圧迫、後の国鉄分割民営化への伏線となってしまった。


それでも、別線建設や複々線化、貨物線転用による路線網改良は1970年代以降も行われ、埼京線京葉線武蔵野線湘南新宿ライン、国鉄・JR線としての開業はかなわずともつくばエクスプレスとして今日の通勤輸送を担う路線として、定着している。


関連タグ編集

国鉄 JR東日本 通勤電車 直通運転


杉並三駅天王台駅:この施策において快速電車の停車の可否が争われた駅。前者は未だに問題視する者もいる。

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