鉄道車両の形式名のひとつである。
鉄道院7100形
1880年から1889年にかけて北海道初の鉄道である官営幌内鉄道に導入された蒸気機関車。
官営幌内鉄道は1889年に北海道炭礦鉄道に譲渡された後、1906年に国有化され全車両が官設鉄道に編入された。
1両ごとに愛称が付されていたことでも知られ、1から順に「義經(義経)」「辨慶(弁慶)」「比羅夫」「光圀」「信廣(信広)」「しづか(静)」と命名された。1889年に増備された2両は無名である。
車軸配置2-6-0の2気筒単式飽和式テンダ―機関車で、炭水車に前述の愛称が描かれていた。開拓長官黒田清隆の筆とも大書記官山内堤雲の筆ともいわれている。
前端部のカウキャッチャーや大型のダイヤモンドスタックを備えた煙突、第1缶胴上のベルなど典型的なアメリカンスタイルの蒸気機関車で、最初に導入された2両は空気ブレーキを備え客車と共に貫通制動が可能であった。
また道外ではピン・リンク式連結器が用いられていた中で自動連結器を備えていたのは特筆事項。
1880年に手宮駅~札幌駅間開業に備えて「義経」、「弁慶」が就役。1881年には明治天皇が乗車し「義経」がお召し列車を牽引した。
1882年11月に札幌駅~幌内駅間が開業したのに合わせて「比羅夫」、「光圀」が増備された。
その後「信広」、「しづか」が増備されたが、1887年に増備された2両はボールドウィン社製のやや大型の機関車(後の7170形)となり、1889年に最終増備車2両が導入された。
そのため本形式としては7・8が欠番となっていたが、後にボールドウィン社製の2両が2代目9・10となり、初代9・10が7・8に改番された。
1889年12月に北海道炭礦鉄道に譲渡され、同社ではA形、後にイ形に改称された。
北海道炭礦鉄道時代には煙室の延長や煙突の改造などが行われ、カウキャッチャーも撤去された。
1899年に7が北海道庁鉄道部(北海道官設鉄道)に譲渡されB2形となったが、こちらは改造されず原形を保っていた。
1909年に国有化され形式名を7100形としたが、実は製造順に車番が並んでいなかった。
というのも製造銘板がボイラーに取りつけられていたことと、北海道炭礦鉄道時代に修繕の効率化のために足回りとボイラーが別々に管理されていたためである。
7103が入換機となり、他は北海道庁建設事務所に貸し出され建設用に運用された。
7103は粘着力向上を目的に先輪を撤去する改造を行ったが、蛇行動が酷くなったため復旧されたとされる。
1917年に7106が廃車となったのを皮切りに、1925年までに全車が廃車となった。
このうち梅鉢鉄工所(後の帝国車輛工業)に譲渡された7104は、高知鉄道(後の土佐電気鉄道安芸線)に譲渡されたが、工事完成後に廃車・解体されたとされる。
1922年に鉄道博物館の開設が決まり、7101は同館への保存に向けて東京に送られることになった。しかし関東大震災の影響で10年ほど黒磯駅構内の機関庫に放置されてしまった。
1936年に7101は大宮工場に輸送され「義経」として復元されることとなったが、そこで島崎英一と川上幸義により7101は「弁慶」であるとの調査結果が出され、1940年に「弁慶」として復元され交通博物館に保存された。
そのころ北海道では「弁慶」を札幌で保存するという流れになった。前述のように「弁慶」は実際には東京に送られた7101だったわけだが、札幌鉄道局工作課ではすでに廃車となっていた7103と7107以外の銘板を調査し、7100は1889年製造の製造番号1010(幌内鉄道10号)、7101が1880年製の製造番号369(「弁慶」)、7102が1884年製の製造番号643(「信広」)、7104が1882年製の製造番号488(「光圀」)、7106が1885年製の製造番号672(「しづか」)と判明した。
7105は銘板が失われていたため不明だったが、その後の調査で7103が1882年製の製造番号487(「比羅夫」)、7107が1889年製の製造番号1009(幌内鉄道9号)であることが判明し、7105が「義経」で7101が「弁慶」である可能性が高いが、なぜか工作課では7101が「義経」、7105が「信広」とされてしまった。
しかし「弁慶」の製造年と7102の製造年が一致しないことから、7106「しづか」の保存が決定した。
その後7100は1950年の北海道鉄道開通70周年記念展に展示されたが、7102は同年に解体された。
鉄道開通80周年となる1952年には、鷹取工場で7105「義経」の復元が行われた。帝國車輛でタンク機関車に魔改造されていた7105だったが、わずか4ヶ月で動態復元が行われた。
1952年9月には日本製鋼所室蘭製作所で不要となった7106「しづか」が国鉄に引き渡された。これまで保存されてきた7100の部品を利用して復元が行われ、2両は10月14日の鉄道記念日に原宿駅の宮廷ホームで展示された。部品取りとなった7100は後に解体された。
1962年に「しづか」は北海道鉄道記念館(現:小樽市総合博物館)に展示された。
1963年には「義経」と「しづか」が準鉄道記念物に指定された。
「義経」は1982年にみさき公園の日本の鉄道博で動態展示された後、1990年には国際花と緑の博覧会でイベント列車として運行された。
その後は交通科学博物館に保存展示されたが、時折梅小路蒸気機関車館でSLスチーム号を牽引することがあった。
現在は京都鉄道博物館に展示されている。
2006年に廃駅となった張碓駅には、「義経」の鈴のレプリカが設置されていた。廃止後もこの鈴のレプリカと記念碑は残されているとされる。
国鉄タム7100形
国鉄が1960年から1962年にかけて導入した貨車(タンク車)。製造は三菱重工業、日立製作所、日本車輌。
104両が製造され、タム7200形との重複を避けるため最終5両は17100番台を名乗っているが、タム7199は欠番である。
液化プロパン専用15t積みタンク車で、1963年にLPガス専用に種別変更された。このためLPガスボンベと同じねずみ色1号に塗装されていた。
1977年までに全車廃車となり形式消滅した。
国鉄タキ7100形
同名の形式の車両が3種存在する。
初代タキ7100形は1958年にタキ300形2両を大鉄車両で改造した貨車(タンク車)。タキ300形は濃硫酸専用30t積みタンク車だが、これをカセイソーダ液専用に改造した。改造により積載荷重は25tに減少している。
1961年に2両とも晒液専用タンク貨車タラ700形に改造され形式消滅した。
2代目タキ7100形は1963年に製造された貨車(タンク車)。製造は新三菱重工業。
セメント専用35t積みタンク車として1両のみが製造された。
試作的要素が強かった車両とされ、1968年には早くも廃車となり形式消滅した。
3代目タキ7100形は1968年に製造された貨車(タンク車)。製造は日立製作所。
メチルメタアクリレート専用30t積みタンク車として3両が製造された。
タキ7101のみ1976年に日本車輌でタンク体が更新され、ステンレス製外板となったことでステンレス無塗装の銀色のタンク体が特徴となった。
1987年の国鉄分割民営化後もJR貨物に継承され、1988年に専用種別をラテックスに変更。
1999年に全車廃車となり形式消滅した。
国鉄クハユニ7100形
大元は大糸線の前身である信濃鉄道が1925年に導入したデハユニ1形。
鉄道省買収後は車番を変更せず形式名をモハユニ1形としたが、1953年の車両称号規定改正に伴いモハユニ3100形に改称。1954年に電装を解除されクハユニ7100形となった。
1955年に廃車となり、長野電鉄に譲渡され同社1100形となった。
弘南鉄道7100形
弘南鉄道に譲渡された元東急7000系(初代)のうち、中間車を先頭車化改造したグループの総称。
1989年に2両編成2本、1990年に2両編成3本が導入された。
前面方向幕は装備されなかったため、後に前面中央上部に方向幕風のステッカーが貼り付けられた。
1990年に導入された3本は前面窓周りに黒いシートが貼られ連続窓風デザインになっている。
3600系を置換え弘南線の主力となったが、1997年に館田駅で衝突事故を起こした7104号車と7151号車が1999年に廃車。残った7101号車と7154号車が編成を組み運用されている。
北陸鉄道7100形
北陸鉄道に譲渡された元東急7000系(初代)のうち、入線と同時に冷房化改造が施された車両。
2両編成2本が導入され、北陸鉄道初の冷房車となった。
その他の特徴は非冷房の7000形と同様である。
ライトケースはFRP製のものを装備しているが、クハ7112は2000年5月の踏切事故でライトケースを損傷、ステンレス製のものに交換されている。
北陸鉄道公式サイトでは7100系と表記されている。
岡山電気軌道岡軌7100型
岡山電気軌道が1981年に導入した路面電車車両。製造はアルナ工機。
前年に登場した7000型の好評を受け増備された車両で、元秋田市電200形である1000型の機器類を流用している。
その後1982年に同様に呉市電からの譲受車の機器を流用した7300形2両、1984年と1985年に同型の車体で完全新造のツリカケ駆動車7400形・7500形各1両が製造された。
2009年から2013年まで7101号車が和歌山電鐵のたま駅長をモチーフにした「たま電車」仕様になっていた。デザインを担当したのは和歌山電鐵2270系「たま電車」同様水戸岡鋭治だが、奇しくも水戸岡は岡山県岡山市出身である。