赤松則祐
あかまつそくゆうまたはあかまつのりすけ
赤松則祐とは播磨国(現在の兵庫県)出身の武将である。鎌倉時代末期から、南北朝時代、室町時代にかけて活躍した。護良親王に従って討幕に功があり、建武政権下の赤松氏冷遇を経て足利尊氏の軍勢で活躍し、足利義詮、足利義満と三代の将軍に有力守護として仕えた。
正和三年(1314年)の生まれで、父は赤松円心(俗名は赤松則村)、三男である。赤松氏は村上源氏の流れにして播磨佐用荘を支配する豪族であったとされる。しかし系図に異論もあり、楠木正成や名和長年と同じく悪党と呼ばれた新興武士ではないかとも言われる。
護良親王の忠臣
少年期には比叡山延暦寺に入っており、天台座主(延暦寺の長のこと)である護良親王に仕えていたらしい。元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒を目指して挙兵すると、親王に従って笠置山から赤坂城へと転戦する。楠木正成率いる赤坂城が陥落すると、護良親王に従って落ち延びる。山伏に姿を変えて熊野へと逃れるが、この親王一行には他にも小寺相模(頼季)、岡本三河(祐次)といった赤松一族の武士が加わっていたらしい(『太平記』巻五)。地元の豪族に擁立され大和国十津川で再挙兵するも、鎌倉方につく豪族もあって危険となったため、高野山から吉野へと転戦する。芋瀬という土地を通過する時に、中立派である芋瀬の領主が「親王の軍勢をお通ししたいが、そうなると鎌倉からどのような御咎めが下るかもしれない。鎌倉へ弁明する為に、軍中の名のある武士を捕虜として引き渡すか、さもなくば官軍の証たる錦の御旗を渡して欲しい。どちらの条件も飲めないならばやむを得ない、ここで一戦交えるまででござる」という非情の交渉を持ちかけてきた。この時に則祐は、漢王劉邦の身代わりとして降伏し斬られた紀信の故事を挙げ、自分が捕虜となることを申し出る。親王の判断で御旗が渡されて窮地を脱したが、後に親王は則祐の忠義を「劉邦が天下を取るのに貢献した蕭何・張良・韓信の三傑の一人にも匹敵する」と称賛している(『太平記』巻五)。
桂川の戦い
親王が吉野の要害に三千の兵を連れて落ち着くと、則祐は父・赤松円心の下に親王の令旨をもたらして赤松一族の挙兵に加わる。幕府の京都・六波羅探題は近江守護佐々木時信等の軍を送るが赤松氏の軍はこれを破って、京都に攻め上る。六波羅は二万騎の大軍を集めて郊外の桂川に防衛線を築いた。赤松勢三千騎は、この大軍を恐れて対岸から矢を射るだけで日が過ぎる。則祐は「兵力の劣勢のままで持久戦となれば、いずれ敗れてしまいます。勝算があるとすれば、敵の不意を衝くしかありません」と主張し、父の制止を振り切って単騎で桂川に乗り入れる。これを見て五騎の武士が続いた。六波羅勢は、この無謀な渡河をとても人間業ではないと呆れかつ恐れたようで、五人が河を渡っても攻めかかる者すらなく、川岸に並んでいた盾の群れも、そこだけ退いて隊列が乱れた。これを好機とみた赤松勢は「味方を討たすな」と一斉に渡河し、決死の覚悟で気を呑まれた六波羅勢に襲いかかった。六波羅勢二万騎もこれには圧倒されたようで、京都の街へと退散していった(『太平記』巻八)。赤松勢はそのまま京都に攻め込むが、六波羅探題の北条時益(南探題)と北条仲時(北探題)は敵が少勢であることを見抜き、市街戦に持ち込んで各個撃破する。赤松の軍は退却し、山崎と石清水八幡宮(いずれも京都府)とに陣を構えて、六波羅の追撃軍を撃退し続けた。
建武政権での冷遇
さて苦戦する六波羅に答えて鎌倉から攻めのぼった足利高氏が、後醍醐天皇の綸旨を受けて天皇側について六波羅を攻め滅ぼし、幕府の本拠・鎌倉には新田義貞、高氏の嫡男・千寿王らが軍勢を率いて攻略する。元弘3年(1333年)5月、鎌倉幕府は滅亡し、建武政権が成立した。それぞれ軍功のあった足利尊氏(高氏を改名)や新田義貞、楠木正成、名和長年らには破格の恩賞があり、複数国の守護・国司に任ぜられる。しかし功績では彼らにも劣らない赤松円心ら赤松家は、いったん播磨守護に任ぜられるも召し上げられ、わずかに本拠地佐用荘の領有を認められただけであった。これではまるで功臣どころか、降伏した武士並みの扱いである。万里小路藤房が後醍醐天皇に奏上して建武政権の失政を諫言した時も、この恩賞の不公平が例に挙げられている(『太平記』巻十三)。この処遇に激怒した円心は播磨に帰ってしまったらしい。かくして建武二年(1335年)、中先代の乱の戦後処理を巡る対立から足利尊氏が後醍醐天皇の追討を受けると、赤松一族は尊氏に味方して挙兵することになる。
感状山城の合戦
尊氏は建武政権打倒の兵を挙げて上洛するも北畠顕家や楠木正成らに敗れ、筑紫(九州のこと)に敗走する。これを見て慌てて政権側に降伏した武士も多かったが、赤松家は足利側を支え続ける道を選ぶ(『梅松論』)。東国の足利勢は北畠顕家に蹴散らされ、西国の諸勢力の多くは政権側と足利側の形勢を見守る者が多かった。筑紫では僅かな敗残兵しか率いていない尊氏を二万騎ともいう菊池武敏らの官軍(建武政権軍)が襲う。この窮地にあって足利方の最前線たる播磨を任された赤松一族は、新田義貞率いる官軍の西国討伐軍六万騎という大軍を迎えることになった。本陣を白旗城に置き、各所に出城を築いて少しでも尊氏再起までの時間を稼ぐ戦術である。建武三年(1336年)、則祐は後に感状山城と呼ばれることになる出城に入り、僅かな手勢と共に義貞の本隊を迎え撃って凄まじい激戦を繰り広げた。後日、尊氏から則祐の奮闘を称える感状が与えられ、それゆえこの城を感状山城と呼ぶ(『播磨鑑』)。続いて義貞は白旗城をも包囲し、赤松家は総勢八百人ともいう少勢で50日に及ぶ義貞の猛攻を耐え続ける(『太平記』巻十六)。かくして多々良浜の戦いで菊池勢を破って筑紫を制した尊氏のもとへ、則祐が使者として出向いて急を告げている。この頃になって西国の武士たちの多くが、足利側に味方して兵を送り、大軍となった足利勢は湊川の戦で新田義貞、楠木正成を破って建武政権を崩壊させ、室町幕府を開く。まさに赤松勢の奮闘のお蔭で幕府は成立したともいえる訳で、赤松家は念願の播磨守護、摂津守護等に任ぜられる。観応二年(1351年)、父・円心と長兄・範資の相次ぐ死に伴って、則祐は赤松家当主・播磨守護となる。また、時期は不明だが佐々木道誉の娘を妻に迎え、後に嫡男の赤松義則が生まれている。
観応の擾乱
この頃、室町幕府は再び存亡の危機にあった。尊氏と副将軍格であった尊氏の弟・足利直義との内乱、観応の擾乱である。尊氏と直義との合戦を経て尊氏の執事・高師直が討たれる等の混乱の最中に、則祐は佐々木道誉と共に南朝に寝返ったとして尊氏の嫡子・足利義詮に討伐を受ける。しかしどうやらこれは、尊氏や道誉らと連携した計略であったようで、義詮と合流して尊氏、道誉と共に直義を討つ計画であったらしい(森茂暁『佐々木導誉』)。ただし、青年期に護良親王に従って戦っていた則祐としては、親王に何らかの思い入れがあったのかもしれない。この頃、護良親王の子である南朝方の陸良親王が則祐に迎えられて播磨入りしたという記録がある(長崎県対馬市、陸良親王墓所案内による)。直後に尊氏自身が南朝と同盟する正平一統が起こっているので、この交渉の仲介を則祐が行った可能性もある。さて直義は正平一統に敗れて鎌倉で世を去るが、文和四年(1355年)にその養子の足利直冬(高氏の庶子、義詮の異母兄)が西国で山名時氏、桃井直常らを率いて京都に攻め込んでくる。『太平記』によれば、山名勢は義詮の本陣にまで攻め入ってくるが、則祐は道誉と共に悠然と腰を据えていたらしい。義詮に「御自害は我らの討死を見物された後になされよ」と言い放ち、控える兵士たちに「これぞ天下分け目の合戦ぞ、命を惜しむな、義詮殿の前で討死して名を後世に残せ」と叱咤し、ついには山名勢を敗走させたという。
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