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北条時宗の編集履歴

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北条時宗

ほうじょうときむね

鎌倉幕府の第4代連署にして第8代執権。北条得宗家7代目当主。

曖昧さ回避

  1. 鎌倉時代の武士。鎌倉幕府第8代執権。(1251~1284)
  2. NHK大河ドラマ第40作目『北条時宗』。2001年放送。1.が主人公。→北条時宗(大河ドラマ)

概要

建長3年5月15日(1251年6月5日)~弘安7年4月4日(1284年4月20日)

鎌倉幕府第5代執権にして北条家嫡流(得宗)第6代当主・北条時頼の嫡男として生まれる。幼名正寿。7歳の時に第6代征夷大将軍宗尊親王の加冠により元服し、親王の『宗』の一字を賜って『相模太郎時宗』と名乗った。

母・葛西殿は北条一門の重鎮・北条重時の娘。重時は娘の夫でもある得宗・時頼が執権に就任すると、みずからも連署に就任、時頼とともに幕政を主導した。異母兄として文永9年(1272年)2月に起きた「名越教時の乱」(二月騒動)に連座して滅ぼされた北条時輔、同母弟・宗政、異母弟・宗頼らがいる。

康元元年(1256年)、父・時頼が病を得て出家。嫡男・時宗は幼少だったため、文永元年(1264年)までは重時の嫡男・北条長時が、長時の死去後には一門の長老・北条政村が「中継ぎ」として執権職に就き、時宗は14歳で連署に就任する。


文永5年(1268年)、大陸で版図を拡大していたモンゴル帝国から、国交(実際は従属)を求める皇帝クビライ・カーンの国書を携えた使者が訪れた。幕府がその対応に追われるなか、時宗は18歳の若さで執権に就任する。それまで執権を務めていた政村が連署に就任し、北条実時平頼綱らが補佐役となり、いまだかつてない国難に対処することとなった。

幕府は当初から防備体制を整え、モンゴルからの要求を黙殺する方針を取ったようである。朝廷では返書案が検討されたが新関白・近衛基平がこれに反対した。関白・基平は返書反対の立場から幕府との連携を考えていたようだが、程なく急死。その間にも対馬ではモンゴル側の国信使一行と現地民のあいだで衝突が起こり、日本人2名拉致された後に2度目の国書とともに送還される。この2度目の国書の到来で、院評定にて返書案が作成されたが、幕府側がこれに難色を示したために取りやめになった。3度目には金朝の旧臣であった趙良弼が自ら買って出て使者に立ったが、使者との応対を担当していた大宰府守護所で守護所の責任者達と国書の奪い合いになりかける等のトラブルが発生している。国書の写しを朝廷や幕府に送ることになったが、それでも国書の返事は朝廷からも幕府からも得られず一年程で趙良弼は帰国せざるを得なかった。業を煮やしたクビライはついに、文永11年(1274年)、日本に艦隊を派遣。のちに元寇と称されるようになる「文永の役」が発生する。


九州での蒙古軍と日本勢の戦いを遠方の鎌倉から指揮。鎌倉からも在地に領地をもつ千葉頼胤ら人員を派遣し、九州近在の御家人達を動員して大宰府守護所や鎮西奉行等の兵力を併せる事でこれに対処した。しかしながら、蒙古軍は「鉄砲(てつはう)」(投石機(砲)等から発射される爆発性の投擲兵器)や矢を連射できる「弩」(ボーガンのようなもの)などの新兵器を使用しての集団戦法を駆使するのに対し、日本勢は平安時代から変わらぬ大鎧と「一対一」を基本とし戦いの前に名乗りあいや、一族郎党で任意で突撃する等旧態依然の作法を重視しており、この軍備の差と意識のずれに日本勢は苦戦を強いられることとなる。しかし、蒙古軍の主力は征服した高麗、後の弘安の役では南宋などの敗残兵で構成されていたことから士気が低かったようでもあった。また、文永の役では初めから領土征服を意図していなかったようで、大宰府守護所のあった博多などの沿岸部を攻撃・掠奪しただけで早々に撤退した。


文永の役での蒙古軍が九州沿岸部で上陸した期間について一部議論になっているが、短い期間で撤退した事は確かなようで、日本側ではこの早期の撤退に困惑し、「先年より祈祷の行って来た神仏のご加護によって風が吹き返し、その風が敵方の船を彼らの本国まで撃退したのだろうか?」と思われたようである。これが弘安の役での暴風雨と相まって、後の時代に「神風」と見なされるようになった。実際に、遠征に参加した高麗側の記録によると、撤退途中に風雨にあって多数の損害が出ていたようである。


建治元年(1275年)、時宗は降伏を促す元からの使者を鎌倉で処刑、建治2年(1276年)には異母弟・宗頼を長門・周防の守護に任じて九州に下向させて異国警護に当たらせ、弘安2年(1279年)にも再び訪れた使者を大宰府において処刑。服属を拒む明確な意思表示をモンゴル側に見せた。

このことに激怒したクビライは、弘安4年(1281年)に前回以上の艦隊を派遣、幕府軍と再び戦端が開かれることとなった。文永の役後にクビライは南宋平定をほぼ完了させ、前回の遠征軍に加えて接収した南宋水軍の兵力10万を江南地方から新たに進発させた。鋤や鍬等の農耕具や回回砲などの攻城兵器も多数載せていたようで、前回の文永の役と違い、この時は九州を領土征服して屯田制等を敷くつもりであったようである。これが「弘安の役」である。


一方日本側では時宗の指示により、元軍(蒙古軍)の上陸を阻止するために九州に下向していた御家人や近在の御家人等を動員して博多湾沿岸に防塁を築き、さらに異国警護番役を設置していた。この防塁と輪番制での警備体制を敷き、準備の甲斐あって水際作戦は効を奏し、持久戦の様相を呈した。

そうこうするうちに再び台風の季節が訪れ、台風の直撃を受けた元軍は壊滅することとなった。


幕府は新たなる元の襲来を怖れて博多湾周辺の警備を重視する。しかし、一部の武士を除いて恩賞を与えることができなかったばかりでなく、警備のための費用も武士たちに賄わせたため、武士たちの幕府に対する不満は募ることとなり、幕府はやがて崩壊への道をたどることとなっていった。そのさなかに高麗への逆侵攻を計画したが、その理由は防衛報復だけではなく、御家人へ与える所領を得るためだったとも言われる。


弘安5年(1282年)、時宗は中国(南宋)からの渡来僧・無学祖元を招いて円覚寺を建立。

弘安7年(1284年)には病の床にあって出家し、同年4月4日死去した。死因は結核とも心臓病とも言われる。


後継者・北条貞時と北条師時、北条宗方

文永8年(1271年)12月12日、時宗に嫡男・幸寿が生まれる。後の第9代執権・北条貞時である。貞時にはほかに兄弟もおらず、貞時の後ろ楯にと頼んだ同母弟・宗政も異母弟・宗頼も早世したことにより、時宗は宗政の長男・師時と宗頼の次男・宗方をみずからの猶子(相続権のない養子)とした。すでに元服し長門探題から六波羅探題南方、さらに北方へと転じて要職を歴任している宗頼の長男・兼時とともに貞時の与力となるのを期待したからであろう。


二月騒動

文永9年(1272年)2月11日、時宗は一門の中で反対勢力と考えられていた名越流・北条氏の北条時章教時兄弟に謀反の嫌疑をかけ、自邸に襲い誅殺、15日には六波羅探題南方を務める異母兄・北条時輔を南方探題府に襲ってこれを滅ぼした。これにより、鎌倉幕府は執権・北条時宗による独裁体制が確立することとなった。


連署人事

文永10年(1273)5月18日、一門の長老・北条政村が死去した。父・時頼政権下において評定衆筆頭・連署、北条長時死去後には執権に就任、時宗が執権に就任すると代わって連署に就くなど、一貫して幕政の中枢にあった政権の要ともいえる人物であった。

この重要人物の死後、時宗は後任に祖父・北条重時の四男・義政を据えている。元との対外摩擦が強まるなか、幕府は対策に迫られていたのだが、激務に追われた義政は、建治元年(1275年)10月ころから出仕を怠るようになり、建治3年(1277年)4月4日には出家遁世してしまう。

これには時宗も困惑し慰留に努めたが、ついには義政の連署・武蔵守を解任、弘安6年(1283年)4月に普恩寺業時を任じるまで連署を空席とし、単独の執権として政務をとることとなった。


評価

近世になってから時宗への評価が見え始め、外国からの侵略という空前絶後の国難を退いたという点から肯定的評価が多く、尊皇攘夷論が起こった幕末では評価の傾向は強まり、太平洋戦争が起こった昭和にはさらに礼讃が強まった。

戦後になると代わって否定的評価が出始める。苛烈なほどの体勢固めの粛正、情報の偏りや欠落した国際意識による外交姿勢などから、蒙古襲来の原因を招いたという見方すらある。また、モンゴルに反感意識の強かった南宋からの来日禅僧たちによって外交姿勢が決まったとも、政策決定は若い時宗ではなく重臣たちの意見が強く反映されているともされている。


幕府側の公的な記録である『吾妻鑑』は最初の国書が到来する直前までしか書かれておらず、国書の到来から文永・弘安の役までの幕府の政策決定の具体的な過程はほとんど良く分かっていない。そのためこの時期の幕府の政策については鎌倉時代末期までに書かれた年代記等のわずかな記述や幕府が九州等各地に発給した文書類から推測する他無いため、この時期の北条時宗自身が幕府内でどういう立場で具体的に政策に関わったのかもあまり分かっていない。(勿論この時期に発給された幕府側の文書の差出人は、執権である時宗とその時々の連署達の連名ではあるのだが)


余談

鎌倉の極楽寺にある八重一重咲分桜は時宗が手植えをしたものとして伝わっている。


教科書等知られている北条時宗の僧形の肖像は、実は北条時宗本人を描いたものであるかは確証されている訳ではない。鎌倉時代後期の風俗を同時代的に描写している事で資料的にも価値の高い、国宝『一遍上人絵伝(一遍聖絵、1299年作成)』には、1282年(弘安5年)3月1日、一遍が念仏勧進のため巨福呂(こぶくろ)坂から鎌倉入りする段で、幕府の役人から鎌倉入りを差し止められ一行が打擲される場面がある。この時、事前に時宗がこぶくろ坂から山内に出掛けるとの話を聞いて避けるように言われていたようだが、一遍は敢えて念仏勧進のためこぶくろ坂を選び時宗一行と相対したという。『一遍聖絵』では一遍が馬上の時宗一行と相対する場面が描かれており、この馬上の時宗像が(確実に時宗を描いたものといえる)時宗の同時代性の高い肖像としてはほぼ唯一のものと考えられている。


創作物における北条時宗

元寇を題材にした作品では時の執権として登場している。

北条時宗が登場する作品

  • 学研まんが人物日本史:イラストは伊藤章夫氏。彼の三十数年足らずの人生を、時宗に仕えた御家人の若者達や教育係の活躍と絡めて活写する。
  • 渡部昇一氏の著書:「皇室入門」や「渡部昇一の中世史入門」で元寇による国難を救った立役者として描かれる。
  • 杉山正明氏の書籍:モンゴル帝国関係の書籍に多く登場。従来の日本主体の史観では無く、世界史の視点から彼を読み解く斬新な解釈がなされる。なお、杉山氏は大河ドラマの時代考証を担当している。
  • 井沢元彦氏の書籍:「逆説の日本史」などで元側の狙いやそれに対応する時宗の活躍を緻密に描く。彼と神風にまつわる論説も多い。
  • コーエーの歴史ゲーム:蒼き狼と白き牝鹿の3作目「元朝秘史」に妻の堀内姫、子供の北条貞時と共にデビュー。「チンギスハーン」では神風ばかりか、挫折した大陸侵攻を成し遂げるイベントを受け持つなど主人公的な地位を獲得。史実通りに有能だが、後半生の失政のためか武力や知性に秀でるが政治がイマイチ。信長の野望にもエディット用の顔グラとして存在する。
  • 咲村観氏の小説『執権北条時宗』:1985年に出版された小説。上下の全2巻。
  • 高橋克彦氏の小説『時宗』:大河ドラマ北条時宗』の原作小説。全4巻。さいとう・たかを氏による漫画版(コミック版・全6巻、SP版・全3巻)もある。Kindle版も発売されている。
  • たかぎ七彦氏の漫画『アンゴルモア 元寇合戦記』:作中ではひ弱を装ったしたたかな男として描かれる。

北条時宗を演じた俳優

『蒙古襲来 敵国降伏』 1937年 映画 演:林長二郎(長谷川一夫

『かくて神風は吹く』 1944年 映画 演:片岡千恵蔵

『日蓮と蒙古大襲来』 1958年 映画 演:八代目 市川雷蔵

『風雲児時宗』 1961年 テレビドラマ(フジテレビ) 演:松本錦四郎

日蓮』 1979年 映画 演:松方弘樹

北条時宗』 2001年 テレビドラマ(NHK大河ドラマ)演:小池城太朗浅利陽介和泉元彌


大河ドラマの主人公としての北条時宗

脚本家・井上由美子が『等身大のヒーロー』として描き、和泉元彌が直球で演じた生真面目な性格の純粋で嘘や隠し事が苦手な青年。往年の『カリスマ性あふれる若き執権』という像からは離れた約700年後の世にいそうなキャラ、とはドラマチーフプロデューサーの弁。第1話の終盤に誕生した。

時宗が生まれる前に起きた宝治合戦によって互いを愛しながらも二親の仇として憎む複雑な関係となってしまった両親(作中での時宗の母・涼子は『毛利季光の娘で北条重時の養女』という時頼の正室と継室・葛西殿が混ざった設定)のもとで育ったことから、極力戦をせずに物事を解決しようとの考えを持つ。3歳上の異母兄・時輔とは何かと比べられており、幕府内でもどちらにつくかで割れるほどだった。時輔は自身の母・讃岐局の死と死の直前の「母は涼子殿に、そなたは時宗殿に負けるのじゃ!」という言葉に悶々とした気持ちを抱いていた。一度時宗と1人の男として勝負をつけたいと思っていた時輔は時宗に小笠懸対決を持ちかける。時宗は迷いながらもこれを了承。2人は悪天候の中、由比ヶ浜にて密かに弓の腕を競い合う。この決闘に立会う者は誰もおらず(神出鬼没商人・謝太郎はこの決闘をこっそり見ていた)、結果も2人だけの内密のものとされた(決闘から帰った際の時宗の態度から、涼子の侍女・喜々をはじめとした一部の者にはバレバレだったが)。


あけましておめでとうございます

(この小笠懸対決シーンから時宗世代の人物は本役に交代している。)

なお、結果は互いに3つ目の的を外す2対2の引き分け。先攻の時宗は3本目の矢を雷鳴で集中力を切らして外したのに対し、後攻の時輔は3本目の矢を上空に放つことでわざと外している。時輔は敢えてこの勝負を引き分けに終わらせたのだった。時輔が小手を外しながら悠々と由比ヶ浜から去っていく中、時宗は屈辱のあまりその場に座り込んで涙を流すしかなかった。

のちに時宗は父・時頼から呼び出され、この決闘について(決闘の結果ではなく、なぜこの決闘を行ったのか)尋ねられることになる。時宗は「他の者にはかかわりのないこと」と答えたが、これにより時宗と時輔の順位をはっきりと付けておくことで2人の諍いを未然に防ごうとしていた時頼の逆鱗に触れてしまう。時宗はそんな父に反発するかのように叫んだ。


「某は、某は父上の人形ではござらん!某はこの手で家督を奪い取るために、果し合いを行いました!」

「父上に与えられた道を歩むのでは、この鎌倉を背負う覚悟が決まりません!兄上との勝負から逃げたままでは、政など握れません!」


その言葉を受けた時頼は、時宗に政を握らせるために自らと交代させる形で評定の場に参加させる。その頃反得宗側は征夷大将軍宗尊親王を時頼抜きで上洛させ、時輔を供奉人にすることで彼を次期執権として担ぎ上げようとしていた。時頼は時宗に「くだらない上洛とやらに金と民をつぎ込む余裕なぞない」として阻止することを命じる。そして時宗は初めての評定の場で上洛を阻止し、反得宗側の企てを未然に防いだのだった。

それからしばらくののち、時頼が何者かに毒を盛られて死去。時宗は時頼より『時宗にだけ伝える遺言』として長時(鎌倉を滅ぼす)と時輔(時宗が鎌倉を治めるため)を殺すように命じられる。その一方で、時宗も宗尊親王をはじめとした反得宗側の面々より命を狙われていた。この暗殺計画を時宗に知らせたのは時輔であり、当の時宗は鎌倉の謝国明見世で本来は時頼に振る舞われるはずだった葡萄酒がぶ飲みして悪酔いした挙句、見世の中で倒れていた(※この当時の時宗は14歳)。時宗が暗殺計画を知ったのは、酔い潰れて時輔に介抱された際のことであった。


奇妙な杯

※イラストはこのシーンをベースに描かれた中の人ネタイラストです。


時宗は自ら率先して2人を殺そうとはしなかったが、一族の長老・政村ら幕府の要人たちに詰め寄られて『長時を殺せ』との遺言を彼らに明かす。それを受けた得宗家側のとある人物により長時は刺客を送られて暗殺される。時頼の遺言が実行され、時輔の身を案じた時宗は知らせを受けてすぐに時輔の館へと馬を走らせる。この時点で時輔は殺されてはいなかったものの、時宗のこの行動により時輔は時頼が自分を殺すよう時宗に遺言を残していたことを悟ると同時に時宗との間の亀裂を大きくしてしまう。時輔を殺したくはないものの、「夢の都なぞ幻」と言う時輔がいては政ができないと嘆く時宗は自らの執権就任辞退と引き換えに時輔を六波羅に追放することで決着をつけたのだった。


恨み解ける日まで

「今の兄上はまことの兄上ではござらぬ!恨み解ける日まで、六波羅に行っていただく!その代わり、某も執権の職辞退いたしまする!」


このことにより政村が執権に就任。時宗は連署に就任し、幕政に関わっていくようになる。またこの頃、時宗は謝太郎の紹介により八郎という男を召し抱える。彼はのちに北条得宗家に仕える御内人・平盛綱の養子となって時宗から『頼綱』の名を貰い力をつけていくが、時宗が彼の正体を知ることになるのはそれから数年後のことである。


宗尊親王の御台所・宰子が密通事件を起こしたことをきっかけに六波羅にいる時輔の協力のもと親王を将軍職から解任し、京へと送還する。これにより親王の子・惟康王(※当時3歳)が新たな将軍として迎えられる。この際、時宗は惟康王に事情を正直に説明したことにより彼から扇でビンタを食らっている。

そんな中、高麗の使者から蒙古の国書が博多に届く。クビライの影が日本に迫りくる中、18歳となった時宗は幕府第8代執権に就任する。


これより儂の、初陣にござる

「これより儂の、初陣にござる。」


時輔との『ロミオとジュリエット』のようにすれ違う関係、幕府内外の者による様々な陰謀、蒙古の脅威に苦悩しながらも時宗は鎌倉幕府、北条一族、ひいては日本を引っ張る執権として成長していく。政村からはそんな彼の行動(特に時輔関連)を「甘い」とたびたび指摘されており、長時の子・義宗、実時の子・顕時、同母弟・宗政といった一族の若手衆と御内人である頼綱の意見も聞こうと彼らを集めた時も「評定をないがしろにしている」と説教を受けた。蒙古への対応も「見下されずに誇りを持って国を開きたい」との方針から返書をしなかった。


そんな彼にも大きな転機が訪れる。それは日本国内が混乱し、時輔と手を携えようとしていた中で誕生した嫡男・幸寿丸(貞時)が代々反得宗を貫く名越流北条氏兄弟の弟・教時(及びその姉・桔梗)が放った刺客に襲われたことをきっかけに起きた二月騒動。妻子を危険な目に遭わされ、御内人を数人死傷させられた時宗は静かながらも激しい怒りの炎を燃やし、自ら鎧を纏って挙兵。名越の館を襲撃して名越兄弟を討ち取った。


明王の如く

「これまで謀反を防ぐべく努めてまいったが、刃は振り下ろされてしまった。振り下ろされた刃は太刀で受け止めねばならん!必ず討ち取るのじゃ!」


さらに名越の館で桔梗を捕えた時宗は彼女に尋問し、謀反の首謀者を訊きだす。そこで桔梗から告げられた首謀者こそ、時輔だった。『時輔の継母』と称する桔梗は時輔にも嫡男が生まれ、さらに時輔が朝廷の使いとして博多に赴いたことを明かす。

時宗は悩みに悩んだ末に「謀反の根を断つため、蒙古に相対するため」として早世した叔父に代わり六波羅探題北方となった義宗に時輔の討伐を命じる。


悲しき幻

(イラストは時輔討伐を命じる前夜のシーン。この時の時輔は幻影である。)


義宗率いる幕府軍に館を襲撃された時輔は、燃え盛る炎の中に消えた。時輔の遺髪を義宗から受け取った時宗は、それを懐にしまい込んだ。宗尊親王を出家させ、桔梗を流罪に処し、時輔の妻・祥子は2人の子供とともに下野の小山家へ帰すといった処分をそれぞれに下した。


「儂の国を思う気持ち、そなたの恨みに決して負けん。それだけは覚えておくがよい。」

(時宗が時輔を討伐したことを「嬉しい」と嘲笑う桔梗に対して言い放った一言。もっとも、時輔は燃え盛る炎の中から脱出し、吉野に逃れて生きていたことがのちに判明するが。)


だが、遺書を時輔の家臣・服部から受け取った時宗は時輔の謀反が濡れ衣だと知らされ、衝撃のあまり吐き気に襲われて執権館から飛び出してしまう。そして紆余曲折ののち、秘密を打ち明けた頼綱とともに浜辺へ向かった時宗は生涯忘れられない程に激しく泣き崩れた。


「咎あるのは、この儂じゃあ!!!」(執権館から飛び出した直後の叫び)


この日を境に時宗は青臭く弱弱しい雰囲気を払拭して男らしく振舞い、国を率いる者として非情さと情けを持ち合わせるようになる。その様は警告のために鎌倉へとやってきた謝国明からも「顔つきが変わった」と評されるほど。時宗は火種を完全に消そうと新しい連署・義政と評定の席にいた義宗に長時暗殺の真実を語り、祥子と親戚関係に当たる実時に祥子を説得させる。極楽寺流の2人は時宗にわだかまりを持たずに協力する態度を示したが、祥子は事情が違った。彼女にとっては所領も政も関係なく、ただ最愛の夫を濡れ衣で奪われただけのこと。祥子は夫の仇を討つために執権館へと足を運び、短刀を片手に時宗に襲い掛かる。時宗は突然の凶刃に戸惑いの表情を浮かべるが、頼綱は祥子を背後から斬りつける。斬られてもなお、祥子は時宗を道連れにしようと刃を向けるもその場で息絶えてしまう。時宗はこの件の贖罪として時輔夫妻の子供2人を引き取った。


ただし、素直で純粋な性格は蒙古と戦う覚悟を決めたのちも変わっていない

文永の役の最中には自らの首と引き換えに蒙古軍の殺戮を止めようとして、「そなたに生きてほしいんじゃあ!」と文を破り捨てた安達泰盛拳で喧嘩をしている。時宗は被っていた立烏帽子を落としながらも泰盛を館の庭へと押し込み、泰盛をボコボコに殴りつける。だが義政と時広によって2人の殴り合いの喧嘩は止められ、時広から落とした烏帽子を渡された時宗は目を伏せてうずくまっていた。

文永の役後には息子3人を戦で亡くした佐志房木刀を使ってのタイマン勝負をするが、時宗は佐志に立烏帽子を一振りで吹っ飛ばされてしまう。時宗はお構いなしに木刀を振り続けるが、最終的に佐志の情熱に圧倒されてしまい「打ってくれ、佐志殿!」と涙を浮かべて叫ぶ。佐志は手に持っていた木刀を庭に刺し、そのまま去っていった。


文永の役ののち、時宗のもとに杜世忠率いる蒙古の使節団がやってきた。彼らの傍らには、二月騒動の戦火から生き延びて流浪の民となった時輔もいた。時輔は戦を防ぐために彼らを助命するよう懇願するが時宗は使節団を龍ノ口で斬るように命じ、蒙古に対抗する意思を示した。


鎌倉の静かなる鬼

「蒙古が真に償いの意思を示さぬ限り、和睦はならん。断固抗戦いたす。」


蒙古との戦を間近に控えた文永11年(1274年)のとある秋の日の夜に突然倒れて以降、評定の場で突然発作を起こしたりする(第40話)など時宗は体調に不安を覚えるようになる。蒙古の使者の斬首を言い渡した直後、時広から「薬師ではないが大陸に通じ、薬草の知識もある人物」として宋から来た僧侶・無学祖元を紹介された時宗はその日の夜にその祖元より余命5年を言い渡される。この時の時宗はまだ25歳であり、自らの残酷な運命を知ったショックと使者を斬首に処した罪の意識から狼狽して泣き崩れてしまう。時宗はこの病を「自らへの罰」だと発言し、その直後に祖元から「死は決して罰ではない」と諭されている。時宗はこれを機に自分の命があるうちに蒙古との戦を終わらせ、貞時に安らかな国を引き継がせたいとの思いを強め、これまで以上に対蒙古政策を推し進めるようになる。

この病は最終話で時宗が隠退するまで伏せられ、隠退後にその事を泰盛から尋ねられた時宗は「最後まで戦の先頭に立ちたかった」と答えている。


第42話で一族の扇の要・実時が病により六浦に隠居し、その後死去。翌第43話で頼綱と泰盛が対立を深め、その板挟みになった義宗が雪の降る中で自害を遂げる。さらに義政が連署を辞めて出家するなど時宗を支える人々が相次いで退場し、時宗は「この国を護ると心に決めて以来、親しき人々を失い、信義厚き家臣を失い、己の中にある人の心さえも失いかけている気がする」と思い悩むようになる。時宗は唯一「心穏やかに話ができる」相手である祖元にその事を打ち明け、煩悩を捨てて己が道を進むように喝を入れられる(『莫煩悩』の逸話)。


そんな中、2度目の蒙古襲来『弘安の役』が勃発。時宗は指揮官として手腕を発揮する一方で幕府の方針を巡って鎌倉の御家人たちと対立し、特に身内で時頼の代から幕府に尽くしてきた泰盛とは「儂を斬れ」と言われるほどまでに険悪な仲になる。そして博多に上陸した嵐による強風が鎌倉にも吹き荒れる中、泰盛は時宗と刺し違える覚悟でひとり執権館へと向かう。だが、その道中でかつての暗殺者時代の衣装を纏った頼綱が泰盛に襲い掛かる。執権館でその知らせを受けた時宗はとても病の身であるとは思えないほどの駆け足で2人のもとへ駆けつけ、2人の戦いを渾身の一射で止める


渾身の一射

「今、宗政達は九州で蒙古と戦うておるのじゃ!ここで命を奪い合うてはならん!」


そう2人を一喝した直後、今までの焦りから積み重なった無理が祟ったのか時宗は発作を起こして倒れてしまう。正室・祝子らの懸命の看護の甲斐もあって時宗は嵐が過ぎ去った翌朝に意識を取り戻し、外へ出歩ける程度まで回復している。だが病は確実に身体を蝕んでいき、時宗は円覚寺を建立後に隠退。執権館の離れに移る。やり残したことがたくさんあるという時宗は祝子の手助けを受け、実行する。

祝子はまず、かねてより対立していた泰盛と頼綱に時宗の元へ向かうよう伝えた。時宗のいる館の離れを訪れた2人は時宗の目の前で「二度と諍いを起こさない」ことを誓い、互いの太刀を交換した(この誓いは1年後に破られるが)。そこへ顕時が「蒙古の日本遠征中止」の伝令を持って館の離れに駆けつける。その報を聞いた時宗は嬉し涙を流し、これを喜んだ。


その頃祝子は二月騒動がきっかけで出家し、一時期は時宗と口も聞かないほどに対立していた涼子の元へ向かっていた。時宗との関係を修復してもらうよう頼み込むためであった。この際、涼子は祝子に「時宗が本当に逢いたがっている人物がいる」ということを教え、それを受けた祝子は謝太郎にその人物を探してもらえるよう依頼した。

涼子はいつも通り厳しい言葉をかけながらも死の病により弱っていく息子と和解し、涙ながらに抱きしめた。そして貞時と時輔の嫡男・時利を時宗のもとへ呼び寄せ、時宗は2人に自らが間もなく死ぬことを明かした上で「人を殺すな」との遺言を2人に伝えた(こちらも後に破られる)。

だが本当に逢いたい人物には逢えないまま時宗はどんどんと衰弱していき、遂には昏睡状態に陥ってしまう。謝太郎は早馬を出し、伊豆の北条で歩いて鎌倉までの旅をしていた彼を探し出す。


「この世は皮肉なものじゃ。生きる意味を知ったとたん、死なねばならん・・・。」

「兄上にはいつでも逢える・・・心の中でな。」(危篤状態に陥る直前の呟き)


そんな時宗の34年の生涯は自ら「儂の一生はクビライ・カアンに魅入られたようなもの」と評する程の蒙古の脅威と北条得宗家の嫡男として生まれたがゆえの運命に晒された生涯であり、「何もかもがこれから」の未完の人生だった。

時宗は生死の境を彷徨う中、兄と過ごした幼き頃の日々を脳裏に浮かべる。そして懐かしい声に応えるように目を覚ますと、そこには時輔がいた。時輔は戦死した宗政の遺骨とともに鎌倉に戻ってきたのだ。起き上がる事すらできないほどに衰弱した時宗は宗政の遺品である眼帯を時輔の手を借りて掴み取り、祈るように握りしめる。時輔は執権として働き続けた時宗をねぎらい、時宗は民の誇りを護ることが出来たことと最後の最後に兄と再会することができたことを喜んだ。だが時輔が佐志房の養女・桐子にその言葉を伝えることを時宗に話したその時、それまで死を受け入れるような態度だった時宗の心に生への未練が出てきてしまう。溢れ出る気持ちが抑えきれなくなった時宗は、時輔にその無念の思いを全て吐き出した。


執権殿の涙 静止画Version

「儂はもう、桐子に逢えぬのじゃな・・・。謝国明殿にも、クビライ・カアンにも・・・。」

「休んだら最後・・・もう、目を開けることがございません!兄上、儂は死にとうござらぬ!まだまだ、やりたい事がござる!逢いたい人がおる!行きたいところがござる!何もかも!何もかもがこれからなのでござる!褒美もいらぬ!休みもいらぬ!生きたい、生きとうござる!」


時輔は時宗の無念を全て受け止め、静かに抱きしめる。


「兄上、大陸へ連れて行ってくだされ。」

「ただ、一人の男として・・・かの大地を・・・馬で走ってみたかった。」

「大陸では・・・兄上のこの腕(二月騒動で動かなくなった左腕)も動くのでござろうか・・・。また、弓を競い合うことが出来るのでしょうか・・・。」


最期は時輔と祝子に看取られ、時宗は時輔の腕の中で『ゆ・・・る・・・せ・・・』と祝子に詫びの言葉を告げてこの世を去った。蒙古から日本を護るためにすべてを捧げ、未完の生涯を駆け抜けていった男の亡骸には一筋の涙が流れていた。


彼の死後、謝国明は「時宗殿は天から遣わされた様な方であった」と評している。また、クビライからは「一度逢ってみたい男だった」と言われている。


余談

  • 原作小説『時宗』では最期のシーンは描かれておらず、時輔は時宗が亡くなってからその事を知らされた。
  • 第11話は時宗が時頼の亡骸に向かって走って行くようなカットで締めくくっているが、これは和泉氏が「もし自分が時宗なら、とっさに抱き起こすような気がした」との思いから時頼を抱き起こしにかかっているため。この「抱き起こし」は台本にはなかったが、監督と話し合って入れてもらった。
  • また、和泉氏は最終話での顕時からの伝令のセリフを台本で読み、思わず安堵して泣いてしまったと放送から15年後のインタビューで語っている。この安堵の涙が出た瞬間、和泉氏は「時宗でいられた」と実感することができたとのこと。

関連項目

鎌倉時代 元寇 大河ドラマ 執権 連署


関連リンク

NHK名作座 北条時宗

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