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上杉家の編集履歴

2023-08-28 13:05:50 バージョン

上杉家

うえすぎけ

米沢上杉家の祖となった長尾上杉家が最も有名。

概要

藤原北家勧修寺流の流れを汲む。


室町時代

上杉清子藤原重房の孫娘)が足利尊氏の母親であったことから、足利幕府のもと厚遇を受けた。

清子の兄・上杉憲房上野守護に任じられ、憲房の嫡男・上杉憲顕は上野に加えて越後武蔵の守護、さらに関東管領へと任じられた。一門は関東管領を世襲し、上野・越後・武蔵・相模の4か国を治める守護大名となり、上杉家は足利氏の親戚として栄えた。


戦国時代

しかし、山内上杉家扇谷上杉家が内紛を起こしたため、両家は弱体化。

だが、両者に後北条氏という共通の敵ができたために和睦が締結された。しかし、北条軍に圧倒された上杉憲政(山内上杉家当主にして関東管領)は越後守護・長尾景虎のもとへと逃れる。


そして憲政は景虎に関東管領を継承させる。さらに自身の養子とし、ここに長尾景虎は上杉政虎と改名。彼はさらに上杉輝虎と改名して、最終的に法名・上杉謙信を名乗った。ここに、長尾上杉家が誕生した。


謙信は、武田信玄北条氏康と対立。信玄に対しては、五度にも及ぶ川中島の戦いにて引き分け、氏康に対しては北条包囲網を結成して一時期は小田原城を包囲した。

のちに氏康とは和睦(越相同盟)して彼の子・三郎(のちの上杉景虎)を養子に迎えた。だがこの和睦は長続きせず、氏康の没後に北条との同盟が再び破綻し、北条氏政(氏康の嫡男)と対立した。

また、信玄とも一時期和睦(甲越和与)していた。信玄の没後、謙信は武田勝頼(信玄の嫡男)との間に和睦(甲越和与)を再締結。これには、織田信長を牽制する狙いがあった。さらに謙信は、武田勝頼に加えて毛利輝元本願寺顕如などとも連携して信長包囲網を結成。手取川の戦いにて織田軍を撃破した。これにより、謙信は北陸を平定した。

しかし、謙信は信長との決着がつかないまま病没した。


その後、上杉景勝(謙信の養子にして甥でもある)が上杉家を継いだ。その際、前述した上杉景虎(北条三郎)が反乱(御館の乱)を起こしたが、景勝はこれを鎮圧した。

景勝は、武田勝頼との間に同盟(甲越同盟)を締結。その際、景勝は菊姫(武田信玄の娘)と結婚し、彼女を正室にしている。これには、織田軍や北条軍を牽制することを目的としていた。

しかし、上杉家の盟友・武田勝頼は織田・徳川・北条連合軍による甲州征伐によって滅亡。その後、織田軍は3方向から上杉領へと侵攻。魚津城の戦いに敗北した上杉家は窮地に立たされるも、その1日前に織田信長が本能寺の変にて横死していたことにより窮地を脱した。

その後、景勝は豊臣秀吉に臣従。彼と共に後北条氏を小田原攻めによって滅ぼし、秀吉が天下を統一すると五大老に任命された。のちに秀吉は、徳川家康伊達政宗を牽制するために、景勝に会津へと移封加増させる(このときの上杉家は120万石を誇った)。

そして秀吉の没後、家康は豊臣政権の乗っ取りを画策。その一環として、家康は景勝に対して言いがかりをつけた。上杉家重臣・直江兼続直江状を家康に送り弁明を図ったものの、家康は会津征伐を実施。景勝は窮地へと立たされた。しかし、毛利輝元や石田三成ら反家康派・西軍が挙兵したために、徳川本軍は会津征伐を中止して西進を開始。これにより景勝は窮地から脱した。そして、景勝は西軍として慶長出羽合戦を戦う。しかし、西軍主力が関ヶ原の戦いに敗北したことにより家康の天下が成された。

これにより、景勝は家康に降伏。彼は米沢へと減封された。


江戸時代

家康が江戸幕府を開くと、景勝は初代米沢藩藩主となる。これにより、米沢上杉家が誕生した。

上杉家は大名として存続し、上杉鷹山は藩を発展させた。


明治時代以降

戊辰戦争にて幕府軍として参戦。のちに幕府が降伏しても奥羽越列藩同盟の主要メンバーとして戦争を継続。しかし最終的に降伏した。

のちに上杉家は華族となり、上杉憲章ケンブリッジ大学へと留学した。


そして上杉家は存続し、現在まで続いている。


戦国時代及び江戸時代初期の山内上杉家・長尾上杉家・米沢上杉家の主な人物

当主


一族・一門



家臣


関連タグ

上杉二十五将 上杉四天王 甲越同盟

米沢藩

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