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概要編集

アンドリュー・ブラウン・カニンガム(1883年1月7日~1963年6月12日)

最終階級 海軍元帥

ニックネームは"ABC"(Andrew Browne Cunninghamから)。


第二次世界大戦地中海のイギリス艦隊は西端のジブラルタルと東端のアレクサンドリアに分断され、近代装備を持ち数も優勢なイタリア海軍を相手に苦しい戦いが続いた。

カニンガムはアレクサンドリアを本拠とする地中海艦隊司令官を務め、中近東におけるイギリスの拠点であるエジプトスエズ運河を守り抜いた。


来歴編集

1883年1月7日、ダブリン近郊のラスミネスアイルランド)でダニエル・ジョン・カニンガムとエリザベス・カミング・ブラウンの間に誕生。

1893年、スタッビントン海軍予備校に入学。

1897年、海軍兵学校に入学。同期にジェームズ・サマーヴィル(後に海軍元帥)がいた。

1898年、海軍兵学校を卒業。


1899年、駆逐艦ドリス士官候補生として乗り組む。

1900年2月、海兵旅団に移り、地上で戦う。第二次ボーア戦争ダイヤモンドヒルの戦いで活躍。

1901年12月、戦艦ハンニバルに乗り組む。

1902年11月、防護巡洋艦ダイアデムに乗り組む。

1903年3月、戦艦インプラカブルに乗り組む。海軍中尉に昇進。

9月、駆逐艦ローカストに乗り組む。海軍大尉に昇進。

1908年、魚雷艇の艇長となる。

1911年、駆逐艦スコーピオンの艦長となる。


1914年7月28日、第一次世界大戦が勃発。ゲーベン追跡戦に参加。

1915年2月19日、ガリポリの戦いに参加。海軍中佐に昇進。

1918年4月、駆逐艦ターマガントの艦長となる。

1919年、駆逐艦シーファイアの艦長となる。ソ連からラトビアの独立を守るためバルト海に派遣され、ウォルター・コーワン海軍少将の薫陶を受ける。

1920年、海軍大佐に昇進。

1922年、第6駆逐群の司令となる。

1923年、第1駆逐群の司令となる。

1926年、エドガー港掃海訓練所、HMSロッキンバーに勤務。北アメリカ・西インド艦隊に異動し、司令官コーワン海軍中将の旗艦艦長を務める。


1929年、王立防衛大学に在籍。ノナ・バイエットと結婚。

1930年、戦艦ロドニーの艦長となる。

1931年、チャタム工廠の海軍兵舎に勤務。海軍代将に昇進。

1932年9月、旗将に任ぜられ、ジョージ5世の補佐官となる。

1933年12月、海軍少将に昇進。地中海艦隊に所属。


1936年7月、海軍中将に昇進。

1937年、地中海艦隊の副司令長官となる。

1939年6月6日、戦艦ウォースパイトに将旗を掲げ、地中海艦隊司令長官となる。

9月1日、第二次世界大戦が勃発。


1940年6月22日、フランスがドイツに休戦を申し込み降伏。アレクサンドリア港のフランス海軍の武装解除と将兵の取り扱いについて、ルネ・エミール・ゴッドフロイ提督と交渉。

7月9日、地中海艦隊はカラブリア半島沖のイオニア海でイタリア海軍と交戦(カラブリア沖海戦)。

11月11日、タラント港を夜間に空襲し、停泊中の艦船に大損害を与えた(タラント空襲)。

1941年3月28日、クレタ島西岸沖でイタリア海軍と交戦(マタパン岬沖海戦)。夜間にまで及ぶ戦闘により、イタリア海軍の重巡洋艦ポーラザラフィウメ、駆逐艦ヴィットーリオ・アルフィエーリジョズエ・カルドゥッチを撃沈。

5月28日、イギリス軍のクレタ島撤退を地中海艦隊が支援。エアカバーが無いため艦隊は深刻な被害を受けたが、カニンガムは艦船の損失を恐れる将官に「海軍が1隻の軍艦を造るには3年かかる。しかし、新しい伝統を築くには300年かかるだろう。」と答え、作戦を続行した。

12月19日、イタリア海軍の人間魚雷マイアーレ部隊がアレクサンドリア港を攻撃。ノルウェーの油槽船タゴナが大爆発を起こし、イギリス海軍駆逐艦ジャーヴィスが巻き込まれて大破。戦艦ヴァリアントクイーン・エリザベスが大破着底した。


1942年11月8日、連合国軍がモロッコアルジェリアへ上陸(トーチ作戦)。カニンガムは、連合国軍最高司令官ドワイト・D・アイゼンハワー中将の代理に任命された。

1943年1月21日、海軍元帥に昇進。

7月10日、アメリカ軍と共同のシチリア島上陸作戦(ハスキー作戦)で海軍部隊総司令官となった。

7月18日、ドイツ空軍の空襲でマルタ島マルサシュロック港に逃げ込んだ戦艦ウォースパイト艦長のハーバード・アネスリー・パッカー大佐に「作戦完了。オールドレディもスカートを上げればまだ走れるものだな」と通信した。

9月8日、イタリアが降伏。


10月、イギリスに呼び戻され制服組のトップである第一海軍卿に就任。後任の地中海艦隊司令官にはジョン・カニンガム大将を指名した。カイロ会談テヘラン会談ヤルタ会談ポツダム会談に出席し、戦略について議論した。


1945年、シスルの騎士団の一人となる。

1945年10月、エジンバラ大学の学長に就任。

1946年1月、セルカークシャーカークホープを領地とする初代ハインドホープ子爵に叙せられた(子がいなかったため一代で廃絶)。

1946年5月、第一海軍卿を退任。

1953年6月2日、エリザベス2世戴冠式においてロード・ハイ・スチュワードの役職を務めた。

1963年6月12日、ロンドンで死去。享年80歳。遺体はポーツマス水葬に付された。


余談編集

アラン・ゴードン・カニンガム(陸軍大将、パレスチナ高等弁務官)は実弟。


ジョン・ヘンリー・ダクレ・カニンガム(後任の地中海艦隊司令官)と縁戚関係はない。


関連タグ編集

イギリス海軍 第一次世界大戦 第二次世界大戦 地中海艦隊 海軍卿

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