東倉の兄貴 俺には才能がありません...でもなってみせますよ 兄貴が言った組を支える縁の下の力持ちに
公式サイトでの解説
天羽組の若頭。
戦闘に出向くことは少ないが、敵戦力についてのリサーチや組員のサポートを務める必要不可欠なスーパー裏方。過去には路上生活者であった小林幸真を入門へと導いた。
羽王戦争にて、天羽組 組長が襲撃された現場に駆けつけ応戦。自身が防波堤となり、組長と舎弟を守り抜き人生を終えた。
概要
シリーズ主人公・小峠華太が所属する武闘派極道組織「天羽組」の若頭(カシラ)。
当初華の天羽組(初期はこのシリーズ名も存在しない)シリーズは極道界のしのぎ(ビジネス)・闇のルール・無情さを小峠を通して描く作風だった為に組織の設定がかなり曖昧で、天羽桂司共々、初登場はかなり初期にもかかわらず外見・性格・経歴共に各回で別人のように異なることが多かった(詳細は後述)が、2021年10月31日の動画にて苗字のみ決定し、徐々に細かい設定も定められていくことになった。なお、下の名前は23年1月21日動画での城戸丈一郎(後述)にて公開された本部襲撃の負傷者リストにて漢字が、5月27日の動画にて読み仮名が判明。
天羽組の前身である「田頭組」時代からの天羽直属の舎弟で、天羽の組長襲名を受けて若頭に就任した経緯を持ち、今も昔もハイテンションで騒がしい狂人だらけの天羽組における数少ない良心。喧嘩は決して強い部類ではないが、相手の長所と短所を見抜く力に長けており、組員一人ひとりの性質を的確に分析し、それに合わせた指導や仕事の手配、その他サポートを行っている。普段苛烈な組員らも、自身らそれぞれをよく見てくれている阿久津への信頼は厚く、その一人である野田一も「カシラ(組織No.2)だから従うのは当たり前」と言いつつ「阿久津のカシラだからというのも確かにある」と彼自身への敬意を認めている。
抗争においても敵対勢力から組織の要として認識されてたびたび標的にされており、関西の大手極道「天王寺組」との羽王戦争においても、ニ大武闘派の一角にして計略の天才でもある城戸から「優秀」と本気で警戒を向けられている。
容姿
推定年齢は50代と見られる、喧嘩の実力はともかく「タフガイ」という言葉がしっくりくる逞しいガタイの中年の男性。鋭い目元と口元・顎にうっすらと髭を蓄えた中々の強面。髪は薄く灰色がかった黒(白髪交じり?)の襟足長めのオールバック、服装は黒いスーツとワインレッドのワイシャツを着用しており、ネクタイは着けずワイシャツの第二ボタンまでを開いている。組長の天羽や古株の工藤清志と並び、現主要キャラの中では稀なスタンダードなヤクザのイメージを表したようなデザインともいえる。
ただし、上述通り当初は設定がかなり曖昧で、初登場時は灰色のスーツに白のワイシャツ、黄色のネクタイを着けた全く異なる外見だった。これについては後述にも記した通り別人説もある。
初めて「阿久津」の名が使用された動画の頃には髪やスーツの色はほぼ固定されるも、現在よりも顎や額が広く、また髭の代わりにほうれい線はじめ顔の皺が濃い等、やはり別人のような顔立ちであった。
性格
狂人揃いの天羽組の幹部の中では珍しく、組長と同様に理知的で冷静な男である。
そもそも戦闘能力の高さだけでなく冷静な判断力も伴わなければ組のトップは務まらないわけだが、彼の場合、少なくとも阿久津という固有名が定まってからは組内で暴力どころか恫喝もただの一度も行っていない(天羽ですら、若手組員に愛犬ラッキーを傷付けられた件で小峠を木刀で滅多打ちにしたことがある)。…それでも時に仲間たちの奇抜な言動に渋い顔を浮かべたりツッコミ・リアクションで声を荒げることはあったが。
舎弟からの質問にも丁寧に受け答えをしたり、舎弟を労って飲み物を渡したりするなどの描写もあり、小峠達からは「優しい」と評されている。実際、阿久津は上役の中でもかなり涙もろく、味方の死に際して嗚咽を漏らして悲しむ姿は他の組員も同様だが、重傷により生死の境を彷徨っていた小峠が意識を取り戻した時、また天羽が花見を提案した時など「嬉し涙」という形で落涙する場面を何度かみせている。また、過去に極道として振るわなかった頃に紹介された東倉賢介から多大な恩を受けた経験からか人情に厚く、阿久津に誘われ入門した若手組員の飯豊朔太郎、組織同士で懇意であった篠原組の元・組長の宅間などからは「恩人」とも評されている。
当然、こうした甘さも仲間(天羽組および外部の連携組織)に対してであり、組織に弓引く敵とみなせば即座に冷徹な態度に切り替え容赦なく粛清に動く。
能力
幹部として
人を見る目に優れる故に縁の下の力持ちとしての生き方を極め、武闘派達を褒めたり改善点を指摘する等で彼らのモチベーションを上げたり作戦行動に必要なものを揃えるといったサポートが得意。野田や須永は若手時代から紛れもない狂人だったが、それでも阿久津の指示はしっかりと聞く程影響力がある。
若手時代は小峠のように「喧嘩は弱いがメンタルが強い」タイプだったらしく極道の花形である喧嘩の天才にはなれないと悩んでいた。しかし当時の兄貴分の東倉賢介から人を見る力があると見抜かれ天才達を支える裏方として活躍するように勧められ、現在の生き方を選んだ。
武闘派として
その真面目な性格に加え、現在は年齢と立場から基本的に現場で戦うことは滅多になく、本人も己の戦闘面の実力は低いと謙遜している。後に明かされた若手時代のエピソードでも、よく外での喧嘩に負けて帰り、当時から兄貴分の天羽には負けたことを怒られるどころか止められることもあったとのこと。
ただ、東倉の死を経験し激しい怒りに駆られトリガーが外れたようで、以後は戦闘面でも活躍するようになり、同じく古参の工藤や野田と、ときに一人で敵集団の始末も請け負う程まで成長しており、その低い自己評価も単に組内部が超人揃いなだけで、近隣の他勢力と比較しても充分実力者の部類とおもわれる(このあたりも小峠に似ているかもしれない)。現在でも銃の精度は敵を驚かせる程高い他、「悪い予感」にも敏感で、とくに天羽や舎弟を咄嗟に守るための行動が早く、こうした能力面でも彼の持つ仲間たちへの優しさがにじみ出ている。
主な経歴
過去
前身である田頭組時代は、当時幹部の天羽桂司の直属の舎弟だった。
性格も現在より血気盛んで、実力は低いがどんな喧嘩でも絶対に引かないという度胸の強さを持ち、天羽は常々やられてボロボロで帰ってくる阿久津に「極道は喧嘩ばかりではない」と窘めていたようだが、阿久津の方は彼に意見してでも今の心情を曲げない方針を語るなど意固地な部分も強かった。
ある日、天羽はそんな阿久津に「似ている」らしい生え抜きの組員・東倉賢介を紹介し、阿久津の面倒を見させる。この頃、組織では当時若手の野田一・須永陽咲也のコンビが武闘派として頭角を現しており、戦闘面で伸び悩む阿久津は「度胸では負けない」と強がりつつも、彼らのように活躍できない己の在り方に思い悩むようになる。東倉はそんな阿久津を見て取って飲みに誘い、この際に阿久津が野田・須永それぞれの長所と短所を的確に言い表す様子を見て人を見る目の高さを絶賛。同時に自身も若い頃は阿久津と同じように武闘派を目指し挫折した過去を明かすとともに、現在おこなっている「天才を支える縁の下の力持ち」を目指す裏方としての生き方を勧めた。
後日、新潟の碧田組による襲撃を受け、大怪我を負った東倉は阿久津へ激励を送りながら、ダイナマイトを積んだ車で一人敵陣に突っ込み、壮絶な最期を遂げる。最後まで自身の将来を案じ可愛がってくれた東倉の死に激昂した阿久津は、彼の玉砕で体制の崩れた碧田組を一人で殲滅した。以後は東倉の遺志に従い、日々の業務で特に裏方での活躍に力を入れるようになった。
ただ決して戦闘が依然として不得手というわけでもなく、現在は同盟関係にあるチャイニーズマフィア「六合会」と敵対していた頃は、当時のボスを殺害した事もあった。この際に彼自身も小峠と同じように警察から理不尽な暴行を加えられた経験がある事が語られている。また、空龍街でホームレス用シェルターを謳いながらアコギな商売をしていた半グレ集団の現場に乗り込み、このとき入居者だった小林幸真と出会う。その後、半グレを一人で殲滅した小林の実力を買って組織に勧誘、最初は断られたが「焼肉が腹いっぱい食えるぞ」と付け足すと飛びつき、以後は彼がカチコミで武功を上げる度に食事を奢りながら、野生児同然の彼に箸の持ち方から一般的生活を教え矯正していったとのこと。
(なお、このとき阿久津は小林に「天羽組」を名乗っているが、小峠が入った時点ではまだ田頭組のハズなので、おそらくは脚本上のミスとおもわれる。)
主人公・小峠が組入り2年目の頃、組長の田頭が半グレによって殺されたことで後代を襲名した天羽の指名を受け、「天羽組」と改名した組織の若頭に就任した。
本編
上述通り、最初期は天羽共々人物像が曖昧で外見も異なることに加え、ときにガサ入れで大怪我をさせられた小峠を警察への訴訟に利用したり、彼へのヤキ入れとして、口をゴルフのティーアップ代わりにスイングショットをかましたりなど、他の組員に劣らぬ狂気もみせていた。
ただし、天羽以上にブレがあったことや著しく出番が少なかったこともあり本当に同一人物か疑う声もあり、別人とされることも多い。
彼の設定が固まり始めると上述のような苛烈な性格での出演ではなく、小峠共々シノギの不調にボヤきをみせたり、各回で起こる事件の導入として状況説明役を務めたり、ときには天羽を庇って襲撃犯の銃弾を浴びて瀕死に陥ったりと、立場もあり今では阿久津自身が率先してカチコミするような場面はないものの、展開を回す上で重要な役どころを演じることが増えていった。
羽王戦争
関東の利権を狙う関西大手天王寺組との羽王戦争では、当初、路上で野田を襲撃したヒットマンと天王寺組との紐づけに難航し「証拠もなく相手を攻めればコチラが無法者扱いされる」とし、天羽や小峠とその証拠を如何にして立てるかを話し合っていた。この際、自ら大阪で証拠集めをするという小林の意見を受け入れ、現地に到着した彼から「栗林組とのアポが欲しい」という連絡を受けて取り次いだ(元々、栗林は天羽と懇意であった模様)。結果、小林は栗林との連携作戦により天王寺組による野田襲撃の言質を録音し、天羽組は大義を持って天王寺組に挑める体制が立てられた。
その後、天王寺組の侵攻作戦の第一陣・城戸派が村雨町にヤサを築いた情報と、天羽組と長年同盟する村雨町の元宮組に協力を求めるという工藤の提案を受け、阿久津は会合の日程を合わせることに。元宮組長は天羽が若き日より互いに学びを得られる存在として厚く信頼しており、また工藤も若手時代によく元宮への助っ人として派遣された時期に食事を奢ってもらったり任侠道を学んだ恩師のような存在であった。しかしこのとき、若頭の美濃部は低迷するシノギへの焦燥感から天王寺組の苅込の口車に乗せられていた。会談の当日、阿久津と工藤、そして元宮組長も知らぬ中、美濃部は天羽組の主柱である二人を暗殺しようと、話し合いの可決を見計らい自慢の骨董品を出して二人が見入る隙きを突き、同調した組員2名と連携し取り囲む。しかし彼らが発砲した瞬間、組員らの異常に既のところで勘付いた元宮が身を挺して二人を庇った。親を裏切った仁義外れに怒った阿久津と工藤は直ぐ様若頭と組員一人を殺害、残った一人は計画に加担した重要参考人として地下室送りにした。間もなく息を引き取った元宮を前に、阿久津と工藤は改めて天王寺組への怒りを滾らせた。
しかし、その工藤も後に組長の外出のタイミングを狙った浅倉、そして城戸の2名との連戦で死亡し、葬儀では他の組員ら同様に涙しながら別れの言葉を贈った。また、同じく浅倉の最後の一撃で意識不明の重体となった小峠を心配し、野田と飯豊を連れて見舞いに赴き、この際に飯豊から普段の疑問を投げかけられたのを切っ掛けに自身の過去を語り、同時にそうしたかつての自分と今の小峠が似ていると思っていたことを明かした(同時に戦闘センスや機転の良さは小峠の方が上だとも認め、日々上下の関係を取り持つ潤滑油的な貢献についても評価していた)。こうした話の最中に小峠がとうとう意識を取り戻し、飯豊と共に涙を流して彼の復活を喜んだ。
その後、小峠は数週間の内に車椅子ながらも現場に復帰。阿久津はもう少し休むように進めるも、小峠の方は戦力になれない分、日々のシノギで皆を支えたいとして固辞。その姿に表向きは呆れつつも内心では彼への愛着を一層深めていた。また、小林の独断による調査で潜伏している城戸が毎週水曜日に地元半グレとの会合を行っている情報を元に、当日に村雨町へ主力組員を派遣するも、それを読んだ城戸が単独で手薄となった本部を襲撃。真っ先に勘付いた須永によってボロボロにされるも城戸の執念は凄まじく、迎撃に動いた阿久津も的確に脇腹を撃たれて戦闘不能に。ただ、城戸も出血による己の体力の限界を鑑みたことで「あとで殺す」とし、その場を見逃される。
結局、城戸はギリギリのところで駆け付けた和中と小林の連携により仕留められ、工藤を殺した怨敵ながらもその執念を買った天羽により、車で待機していた天王寺組の若手に城戸の遺体を譲渡し、同時に終戦の提案をするもアチラの若頭である大嶽はこれを蹴ったため抗争は続行。しかしながら、アチラも諸々の準備により奇しくも休戦期間が生まれることとなり、組員らには来たる再開に備えて傷を癒やすことに専念するよう伝えた。また、天羽から先の天京戦争も含め心身共に疲弊しているであろう組員を労おうと花見を提案され、阿久津もその心意気に「あまりに最高すぎます…」と涙を流して賛同した。後日、満開の桜の下で開催された宴席では、珍しく小峠を真正直に褒める野田に続き、嬉しそうに彼に酌をしていた。
とうとう火蓋が切られた第二陣・戸狩派との抗争では、早速、相手組織の室屋に車移動中を狙われ運転手の若手・鶴巻が犠牲になるも、同行していた南雲梗平が殿軍を務めたことで事なきを得る(後日、闇医者を抜け出した南雲が室屋を討ち、更に大怪我を重ねて再度入院することになった)。
その後、天羽が連携を図ろうとした長年懇意の丸山組へと赴くが、現在の組長である曽根たちは天王寺組と既に繋がっており、天羽たちを殺害しようと動く。またしても裏切りを受けながらも、厳戒態勢を布いていたことが幸いし、小峠と和中が曽根たちの相手を請け負ったことで天羽・阿久津は時間差でその場を退散することに成功。しかし、先に退散した天羽・飯豊・青山の三人の乗る車は、逃走経路を読み待ち構えていた戸狩派No.2の渋谷らに包囲され、その場を動けなくなってしまう。阿久津も天羽の車に取り付けていたGPSが本部への帰路の途中で止まっていること、そしてその位置らしき場所から黒煙が上がっていることにこれまでにない嫌な予感を覚え、急ぎその現場へと駆け出した…。
阿久津の覚悟、託した組の未来
阿久津が感じた予感は最悪の形で的中し、駆けつけた久遠町北の路地では破壊された車の前で渋谷大智、岸本隆太郎、そして戸狩玄弥と、戸狩派の主力3名が天羽の命を狙い、青山と飯豊が必死に応戦している状況だった。特に青山は、渋谷と戸狩を同時に相手にしながら後方の天羽を守るという窮地にあり、既にいくつもの大傷を負わされていた。
天羽から既に本部に増援要請が出ていること、また自身の実力では相手らに到底敵わぬことも承知の上だが、組長や舎弟たちがこのまま殺されかねない状況など見過ごせるはずもなく、青山に詰め寄る戸狩に向けて発砲、自らが相手をすると啖呵を切った。
阿久津は内心、自身も加わった時間稼ぎの内に増援が間に合うことを期待したが、派閥トップの戸狩との実力差は予想以上に大きく、放った銃もドスも軽々と躱されるだけでなく、逆に彼の矢継早の攻め手により左肩に銃弾、腹部・左半身・顔面に斬撃を喰らい、瞬く間に致命傷へと追い込まれてしまう。
精神力で持ちこたえてみせるも、出血量から己の限界を認識した阿久津は、青山に対し自身を置いて天羽と飯豊を連れて退散するように命令を下す。当然、青山は阿久津を見殺しになど出来ないと拒絶、天羽も彼を殺させまいと銃で応戦しようとするも、戸狩は待ちわびたと言わんばかりに銃で反撃。阿久津が咄嗟に戸狩に血飛沫を浴びせたことで急所は免れるも、天羽は右肩を撃たれてしまう。改めて阿久津は懇願にも近い形で青山に命令、青山もこの状況を前にそれが最も有力な手段だと認めざるを得ず、渋谷を塀の向こうへと投げ飛ばすことで一時的に隙きを作り、尚も嫌がる天羽と飯豊を担いで戦線からの離脱に動いた。一方、阿久津は戸狩と再度刃を交えるが、ドスを受け止めた瞬間に腹部に鋭利な六角を突き立てられ内臓に達する致命傷を負ってしまう。
逃げる三名を戸狩が逃がす筈もなく、六角の一撃で阿久津が動けなくなると、瞬時に天羽に向けて拳銃の照準を合わせる。しかし阿久津は、内蔵の損傷によって口まで昇ってきた血を溜め、発砲する瞬間の戸狩の顔に向けて一気に噴き出した。再び照準がズレたことで戸狩の弾は空を切り、青山たちは無事に鉄火場から逃げ出すことに成功する。
この撹乱攻撃を最後にとうとう限界を迎えた阿久津は、そのまま膝を付いてしまう。しかし、丸山組と連携してまで今回の襲撃を仕掛けた彼らを抑え天羽を生還させたことで「俺の勝ちだな 戸狩」と自身の勝利を宣言。そのまま仰向けに崩れ落ち、自身がこの場で果てても組長や優秀な部下たちがいる限り天羽組は崩れないと、最後の最後まで堂々と啖呵を切ってみせた。その命の灯が消える間際まで、阿久津の心中には可愛い後輩たちとの想い出が走馬灯のように巡り、最後は天羽や部下たちへ想いをはせながら静かに目を閉じ、息を引き取った。
「親っさん……みんな……何の才能も無い俺みたいな人間を……カシラにしてくれてありがとう……何一つ悔いはない……最高の極道……人生だっ……た……」
実力で遥かに劣りながらも組長と組員を守り抜き、極道として最期まで堂々と振る舞ってみせた阿久津の生き様は、敵である戸狩と渋谷をも「敵ながら見事や」と認めさせた。
死後
戸狩たちが立ち去って数分後、天羽の連絡を受けて駆けつけた野田と小林が、既に事切れた阿久津を発見。同じく、和中と小峠も丸山組を殲滅した後直ぐに黒煙の出所へと急ぎ向かっていたが、野田たちより遅れての到着となってしまった。敬愛する若頭・阿久津の死を前に4人はそれぞれ嗚咽・慟哭し、その後は彼と特に繋がりの深い小林の手により無言の帰宅をすることになる。
阿久津の喪失は、天羽組全体に再び大きく深い影を落とすと同時に、先の工藤の死もあり指揮命令系統にも目に見えて支障を来していた。天羽が入院中の3日間、須永と永瀬は率先して日々のシノギを回そうとするも組内の伝達が通っていないせいで確認作業が二度手間になったり、香月は野田襲撃時と同じく殺意のまま戸狩らの居場所も掴めていないのに単独行動に走ったりと、組織をまとめ上げていた阿久津の存在がどれだけ大きかったかを改めて痛感させた。間もなく、まだ完全に傷も癒えぬまま天羽が本部に復帰。そして未だ余念を許さぬ抗争真っ只中ながらも、長年組と自身を支えた阿久津を弔いたい意志を伝え、野田と小峠も異論なく葬儀の準備に取り掛かった。
いざ催された弔いの席には、前回の工藤の葬儀では意識不明状態で参加できなかった小峠、室屋との激戦による大怪我で郊外の病院に入院していた南雲を含め、主要の全構成員が参列、またその全員がその場で涙を流し、それぞれ阿久津に最後の別れの言葉を送った。とくに小林は、阿久津の殉職以来能面のような無表情で過ごしていたが、阿久津の前で仇討ちの誓いを立てると共に落涙、そしてこれまでにない凄まじい憎悪の念と殺意のオーラを浮かべ、下手人の戸狩派や首謀者の大嶽たちだけでなく関西に残る天王寺組諸共殲滅するとまで宣言していた。
なお、このとき天王寺組は潜伏する綾波町で雇った情報屋を介して阿久津の葬儀の場所と日時をおさえていたが、大嶽は極道としての最低限の矜持から襲撃はしないことを厳令し、戸狩も同調していた。…ただ、既に死亡したとおもわれた悪鬼がこの日、凄まじい執念で病院へ戻ろうとする南雲を追走し、自らの命と引き換えに南雲を巻き添えにして玉砕、阿久津の死からまもなく新たな犠牲者を生むことになった。モノローグ内で小峠は、この悲劇を招いた一連の出来事について、阿久津なら重傷の南雲を参加させなかった、たとえ参加を押し切られてもルート偽装を徹底させたとして、自身の詰めの甘さに悔やみきれない想いをみせていた。
関連人物
天羽組組長。阿久津にとっては田頭組時代からの兄弟分で、現在作中で最も付き合いの長い人物。兄貴として、弱いのに喧嘩で意地を張って毎度ボロボロになって帰ってくる阿久津に本質の似た東倉を紹介したりと、彼の行く末を案じて面倒を見ていた様子。その後、彼が「縁の下の力持ち」として邁進するようになり、先代である田頭組長の死後、自身の当代襲名を機に阿久津を若頭に指名した。
戸狩により阿久津が殺害された際には、抗争中で敵の動きに警戒の必要があったが、どうしても彼の遺体を放置など出来ないとして葬儀を優先するほど彼のこれまでの奉公に感謝し、悲しみに暮れていた。その後、本部襲撃した戸狩が和中により瀕死に追い込まれた際、彼ら関西極道の抱く関東人への憎悪について何かしら思うところがありとどめを刺さなかったものの、彼を救命させる指示の直前まで、阿久津を直接殺害したことへの怨嗟と葛藤する姿を見せていた。
天羽組No.3の古参幹部。阿久津とは武闘派として全く真逆の経歴の持ち主(元ボクシングの東洋チャンプ)だが、他者の為に全力で闘う精神性で通じるものがあったようで、本編や回想で連れ添って行動する場面も多かった。奇しくも同じ羽王戦争で、戸狩と同じ敵勢武闘派2大トップの城戸との闘いで殉職することになり、阿久津も彼の死に声を震わせ落涙し、葬儀では「(向こうに行ったら)また日本酒でもやろうや」と手向けの言葉を贈っていた。
また、工藤は和中とのエピソード内で「自分の為でなく、他者の為に闘う者のほうが強い」という精神論を語っていたが、本編の阿久津も当初は「己の意地の為」に行う喧嘩では全く振るわず、東倉の死と生前の教えを機に「仲間の為」に闘うようになってからは武闘派としての実力を身に着けており、ある意味工藤の掲げた理論の体現者とも呼べるかもしれない。
天羽組の中堅構成員。上述通り田頭組時代に阿久津が空龍街のホームレスシェルターで出会い、組に誘い入れた過去を持つ。当初勧誘を受けた小林は(これまで殺し屋として生きてきた経験からか)今度は極道として裏社会に身を置くことに難色を示していたが、阿久津が続けて発した「焼肉腹いっぱい食えるぞ」という話に飛びつきアッサリ入門を決めた。
そんな餌付けのようなキッカケではあったものの、以後は小林が戦果を上げる度に食事を奢って可愛がり、また上述の工藤が仁義について、阿久津が(箸の持ち方など)基礎的な生活習慣をそれぞれ教え込み、殺戮マシーン同然だった小林の人間性の確立に努めていたという。
そうした経緯から、小林も阿久津・工藤は「大恩人」と認識しており、羽王戦争にて二人それぞれを亡くした際は他組員の中でも凄まじい悲嘆をみせ、大嶽に対する憎悪を爆発させていた。最終的に天羽が(彼自身も失った二人とは繋がりが深く並々ならぬ葛藤があった上で)「大嶽たちを許す」決断をとった際には親である天羽に失望とも呼べる声で意見し、なんとしても大嶽を粛清しようと最後まで反抗していた。
天羽組の中堅構成員(本編の主人公)。自身や野田も認めるほど極道として性質が似ており、それ故か、本編でも当初、各回で起こった出来事で小峠に対して状況説明を行ったり、抗争中の作戦会議でも彼の意見を取り入れたりなど、大分可愛がっている様子が描かれた。
…なお、当初のシリーズでは「小峠が『若頭』にぞんざいに扱われる」描写が散見されたが、ファンの間では、これは阿久津とデザインが全く異なることから「阿久津(および天羽)が就任する以前の代の若頭」もしくは単純に「この頃は阿久津も天羽組も設定が練られてなかった故の脚本上の矛盾」と、いずれも「小峠をいたぶる若頭≠阿久津」という解釈がされている。
本編中に天羽組に入門した新米構成員。当初は族上がりで性格面での難があったが、改心後は武闘派として多くの功績を上げており、阿久津は勿論、天羽も大変満足していた。
飯豊自身も組に誘ってくれた阿久津への敬愛は強く、戸狩派の襲撃から逃亡を図る青山に対し、阿久津を置いていくことに「嫌だ!!」と声を荒らげ涙ながらに抵抗する姿を見せた。その後は傷の度合いから長期入院を余儀なくされるも、香月紫苑が大阪で入手した情報が組織全体に共有された際、戸狩たちに報復しようと独断で動き、自身らを奇襲し阿久津を死に追いやった一人である戸狩派の岸本隆太郎を逆襲の末に討ち取った。
- 東倉賢介
田頭組時代の兄貴分。阿久津の人を見る目の才能を見出し、自身も実行している「縁の下の力持ち」という生き方を指し示した恩人とも呼ぶべき存在。上述通り、新潟の碧田組による支部襲撃時に阿久津を庇って玉砕し、奇しくも彼の武闘派としての覚醒の切っ掛けにもなっている。
田頭組時代から懇意であった小規模組織「篠原組」の元・組長。当時、篠原組の為に阿久津や工藤、須永が喧嘩の助勢をおこない、宅間もまた当時新米の小峠含む新人教育を請け負うなど良い関係で、特に阿久津は先代の早逝により若くして組長職を引き継ぐことになった宅間を常々気遣っていた模様。シノギの低迷により組織を解散し、現在まで極道から足を洗いカタギとして暮らしていたが、阿久津の死を受け黙っておれず、天羽組と協力して敵方総大将・大嶽の炙り出し作戦を敢行した。
余談
最後の行動について
実際に阿久津の死後に発生している問題からも分かる通り、本来は組織の若頭が殉職するという事態は組長と並ぶレベルで避けるべき事例であり、今回のような戸狩派の襲撃では本来、舎弟の青山や飯豊が殿軍を務めるのが最適解といえる。
そんな中で阿久津が自らの犠牲を選んだのは、これまで彼自身が関わってきた内外の極道関係者の生き様が影響しているとも考えられる。古くは田頭組時代に碧田組の襲撃で犠牲となった東倉賢介、半グレの奇襲時に当時若手の小峠を庇った田頭組長、天京戦争では(未遂に終わるも)組織の仁義外れの落とし前として両手小指を詰めた上で割腹自殺を図った五十嵐幸光、羽王戦争では部下たちの反乱を抑えるために身を盾にして自身らを守った元宮組長、そして浅倉潤・城戸丈一郎の連続襲撃で瀕死の小峠、若手の速水を守るために城戸と最後まで闘った工藤清志…と、いずれも他者を守るために我が身を投げ捨てる覚悟を示しており、阿久津もこうした人々の行動に極道としての在り方を見出していたのかもしれない。
特に工藤は、同じ羽王戦争にて敵方の二大武闘派トップと対峙し、味方を守るために毅然とした態度で戦い抜いた点で共通し、それぞれと直接対決した城戸・戸狩らもその姿勢には敵ながら感服し、命を落とした彼らに一定の礼節を向けている(城戸はファイティングポーズを崩さず大往生した工藤に免じて速水たちの追走を諦めており、戸狩も阿久津の葬儀襲撃の自粛命令に「葬儀を荒らす仁義外れは戸狩派にいない」と強く同意していた)。
こうした理由から若頭・阿久津の自己犠牲についての成否の意見は少なく、寧ろ天羽の手向けの言葉と同じく、工藤の葬儀での約束があの世で果たされていることを願う声が多い。
また、かつて玉砕を前にした東倉から「いい極道になれよ」と最後のエールを贈られた阿久津は、以後は生前から勧められた「縁の下の力持ち」になることを全うし続け、最期は天羽組若頭として多くの仲間たちに支えられ「最高の極道人生だった」と感謝の言葉を遺しており、当初憧れた武闘派のような派手さとは違うが、極道として満足できる人生が送れた様子であった。喧嘩ではない形で一流の極道として身を立て、仲間たちとの強い絆を築いた彼の生涯は、おそらく東倉の示した「いい極道」の在り方であっただろう。
阿久津の後継者について
バトル描写に重きを置く本シリーズにおいて、立場上戦線に立つ機会そのものが少ない阿久津はかなり地味な印象を受けるキャラクターではあったが、実際のところ、これまで天京・羽王と立て続けに長期抗争が展開される中で日々のシノギを安定させ、また(天羽個人の顔の広さもあるが)他派閥との連携、謁見の取り次ぎなどを請け負ったりと交渉における顔役としても機能し、組織No.2の立場に違わぬ多大な貢献をしてきた人物でもあり、天羽も葬儀の際には「組の功労者」と賛えている。
その阿久津が死亡したことによって、一部リスナー間では「誰が新しい若頭に就任するか」について早くも議論が発生していたが、天王寺組との抗争の真っ只中で一切の余念も許されぬ状況下からか(特に葬儀直後の南雲の死で警戒が更に強まっていたのかもしれない)、以後も明確な若頭選出はおこなわれず、それぞれの組員で協力して阿久津の業務を穴埋めする形でシノギを回していた。
その後、羽王戦争は天羽・大嶽双方の合意で終結を迎え、更に1ヶ月半が過ぎ面々の傷が癒えた頃に改めて、最年長組員の野田一が新しい若頭に指名された。野田は当初「自分では阿久津のカシラのようにはなれない」と辞退しようとしたが、天羽は彼が阿久津や工藤から多くの教えを受け、それを体現し現在では広い視野と人情を併せ持つ有力組員に成長した努力を認めていたことを選出理由として語り、また「二人の教えを野田一のオリジナルに落とし込み、新たなカシラ像を自ら作ればいい」と励まし、その言葉に野田も深く感じ入り、涙しながら若頭への就任を受け入れた。
現在は、「野田の若頭(カシラ)」という新たな肩書が付いたことで更に尊大になった表向きの言動とは裏腹に、毎度のトラブルに現場状況と情報を照らし合わせ作戦を打ち立て、カチコミ・尋問なども先陣をきって参加したりと「武闘派の若頭」として忙しなく立ち回っている。また、その中には就任後日に加入した茂木功志郎はじめ新米たちを熱心に(スパルタ)教育したり、組長経験のある宅間を改めて天羽組の幹部(現幹部多くが不得手なデスクワーク要員)として招き入れる人事を行ったりと、各所に工藤・阿久津の教えを彼なりに取り入れて業務を回している部分も散見される。
作中の主要極道組織における若頭たち
天羽組と「天京戦争」にて対立した黒焉街の武闘派極道組織。
本編当初は五十嵐幸光が阿久津と同じ若頭の立場にあった。五十嵐は当時、苛烈な拝金主義者でもある五代目組長・日下孝次郎の下に就き、ときにはシマ荒しだけでなく組抜けを希望する構成員へも凄惨なケジメを要求する場面もあったが、内心では主人公の久我虎徹同様に、先代(四代目)の頃のような任侠組織に立て直そうという志に同調し、久我が地道に一人ひとりに声をかけて集まった仁義派構成員のまとめ役をこの頃から務めていた。また、幹部時代は阿久津と同様、上述の久我をはじめ多くの組員のスカウトにも率先して動いており、中でも凄まじい狂気を内包する守若冬史郎については、組織が始末をつけるべき案件で出動した際に知り合い、その後は独自で情報屋からその過去を知らされ、彼の経験した不幸に理解を示す姿勢をみせていた。
その後、天京戦争で日下が死亡したため、終戦後に五十嵐が六代目組長を襲名。若頭には仁義派の最年長だった大園銀次が就任した。因みに年齢では大園のほうが五十嵐より5つ上で、五十嵐が若頭になる以前は年功序列の関係だったが、元々武闘派で現場主義な大園と組織運用の才覚があった五十嵐で立場が逆転することになった過去を持つ。しかし、大園は持ち前のおおらかさで腐らず下に就き、五十嵐もまた役職にこだわらず敬意を持って接して互いに強く信頼し合う関係であった。また、大園は極道として長い人生経験から新人教育係も務めており、喧嘩の腕は立つが精神面で未成熟な若手に任侠のイロハを説いたり、ときに食事を奢ったりなど熱心に育成にあたっていた。その愛ある指導を通し、構成員(特に現在主要の仁義派構成員)らも大園のことを強く慕っており、その一人である久我は大園を阿久津と同じ「縁の下の力持ち」と評している。
奇しくもこの大園も、羽王戦争と同時期に勃発した京炎戦争中に奇襲を受けて死亡することになってしまい、以降は六車謙信が「若頭代理」を務めることに。2024年3月23日の動画にて戦争が終結し、正式に大園の後継として若頭に就任した。
大阪の鳳来町をシマとする関西大手の武闘派極道組織。
初登場した羽王戦争編では、その大抗争の総大将でもある大嶽徳史が若頭を務めていたが、上述通り、天羽との合意で戦争を終結させた。その際に天羽の口にした「未来へ続く怨恨の連鎖」に対する懸念、自らが生んだ被害の責任を重く受け止め、関西極道の重役らが集まる会合において、長年引き継がれる東西の確執を払拭するよう訴えながら大々的な自決を敢行した。
大嶽は関東侵攻作戦の首謀者として天羽組やその他複数の極道派閥に多くの悲劇を呼んだ存在であるものの、その策謀の数々も裏を返せば自軍の優勢を生む軍略の高さともいえ、天羽も戦中に彼を敵ながら「優秀なブレイン」だと認めていた。またストーリーの進行と共に、大嶽もまた城戸や戸狩といった組員らとの過去から現在に至るまでの交流の深さが描かれている。当初は「差別」に対する強い嫌悪感からなる同調の部分が強かったが、面々によくギャグを振る茶目っ気をみせ、ときに釣れない態度をとられたり逆に相手から自身の強面をイジるギャグが返ってきても空気を悪くすることもなく、共に東京入りした戸狩たちとは大阪と東京のカルチャーショックで話を膨らませたりと、阿久津同様(もしくはソレ以上に)傘下との距離感の近い上役でもあった。また、東京潜伏中に起こった『綾波町児童養護施設殺人事件』では、犠牲者の一人・丸山慶也と事件前に交流があった大嶽の怒りに戸狩も同調し、彼が描いてくれた大嶽の似顔絵を「守り代」として、障碍者を差別する外道半グレを粛清せんと動くなど、東京極道への憎悪を孕みつつも、真っ当な人情を内包している側面も各所で散見され、和中も最終決戦にて相見えた戸狩の並々ならぬ執念、言葉から現れる大嶽への信望を感じ取り「関東への怨恨さえなかれば大嶽もきっと良い上司だった」と認識していたとのこと。
(こうして考えると、阿久津もこれまで相見えた他の敵対勢力視点では「羽王戦争時の大嶽」のような畏怖の存在に映ったことも何処かしらであったのかもしれない。)
戦争後に挿入された天王寺組サイドでの解説の中でも、大嶽は生前より組長の三國貞治と連携して関西に存在する数多の極道組織との関係強化に動いており、多くの窓口を請け負っていたという。その内、革新思想の強い天王寺組とは真逆に伝統を重んじる京都の五条組については、話し合いでの意見が食い違い平行線を辿ることが常ではあったが、相手方の佐久間の挑発に乗らず終始冷静に立ち回り五分の関係を維持していたとされ、東京極道に対する狂気にも近い復讐心とは裏腹に、戦争以外では慎重かつ冷静に立ち回り組織に多大な貢献をしていた模様。
(その大嶽の死によって五条組の他、広島や兵庫など他県の組織との関係が乱れ始めたとも。)
なお、現在は組長直属部隊の陣内賢斗が大嶽の職務を代行しており、大嶽死後に三國が天羽組本部へ出向いた際も同行し、先の戦争での被害を共に謝罪していた。
天羽組と長年対立関係にある花宝町の武闘派極道組織。
当時組長だった河内が重度の認知症により業務継続不可能と判断され、上層部の会議の結果、若頭の小御門が組長を引き継ぐことで決定していたが、継承式前日に暗殺されてしまう。これにより、組織はNo.3で本部長だった黒澤航太郎とNo.4で舎弟頭だった眉済俊之、それぞれを推挙する派閥構成員による跡目争いが勃発し、長らく組長・若頭共に不在の状態にあった。このため、ここまで綴った他の若頭に比べ小御門の幹部としての手腕や人間性を推し量る材料が極めて少ないが、当時の河内組は上の2派閥の他、抗争不参加を選んだ中立派も相当数おり、会議も荒れることなく満場一致で選出されているあたり、そうした評価を裏付ける実績を重ねてきた人物だったのかもしれない。
23年中期に両派閥トップの一騎打ちにより眉済が勝利、黒澤が死亡する形で内部抗争がようやく決着。仁義を重んじる眉済、利益を主張する黒澤の思想対立でもある今回の内部抗争だが、戦いを制した眉済も黒澤の決死の主張を組み、組長襲名後に仁義・利益を両立させた組織運用を目標に掲げたことで黒澤傘下の利益優先派閥とも和解し、改めて一枚岩の組織に生まれ変わった。なお、若頭については言及がないままシリーズが完結したが、2024年5月10日の動画にて、マッドカルテル日本支部改め『裏神』による国内での違法薬物斡旋に対抗するため京極組と連盟すべく会合の場が設けられ、ここで元武闘派の龍本雅幸が若頭代理に就任したことが判明した。龍本は先の内部戦争での怪我の影響で下半身不随となり武闘派極道引退を余儀なくされたが、長年培われた戦闘経験と仁義に厚く面倒見の良い人格を併せ持つ彼を手放すことを惜しんだ眉済から「舎弟相談役」として組織に席を残すよう願われていた。また年功序列では龍本より上の柳楽和光の最前線で戦いたいという意向も組まれ、今回の人事で落ち着いたとのこと。正式な若頭ではなく「代理」としているのは、先述の柳楽の申し出を不随となった自身への心配りと感じた龍本の申し訳無さからとおもわれる。
実は酒豪だった?
本編時系列での出番を終えた阿久津だが、いざ振り返ってみると彼のエピソードは何かとお酒絡みの場面が多く印象に残る。組織を運用する日々の業務の描写では、シノギの低迷、奇抜な言動を振りまく舎弟達(+偶に癇癪を起こす組長)の制御、抗争時には敵の動向に注意を払ったりとで渋い面持ちを浮かべているが、作中で催された花見、23年カレンダーでの拷問ソムリエチームとの宴席では、普段とは考えられない満面の笑みではしゃぐ姿を見せている。
その他にも、工藤への手向けの言葉として「俺がそっちに行ったときは、また日本酒でもやるか」と約束したり、いざ自身が死ぬ間際に思い起こした記憶の3カット全部が飲酒している描写だったりもする(野田とのサシ飲み、小林・速水への奢り、小峠とベロンベロンになって路地を歩く)。ついでに言えば、その後も各人物(南雲・和中・天羽など)が阿久津を思い起こす回想シーン全てが酒の席であり、死後になって酒豪のイメージが更に補強されている。
24年版の天羽組カレンダーには『夢想を極めた忘年会』と題した羽王戦争の両軍犠牲者たちが一堂に会して宴会を楽しむ様子が描かれ、ここでは大嶽、その弟子でもあった高見沢斗真の3人で談笑しながら酒を呷る姿も描かれている。微笑を浮かべ静かに呑んでいる大嶽は上述通りながら、阿久津と同じくらい赤ら顔+笑顔の高見沢も本編では組織の大幹部兼ブレインとして立ち回っており、共に阿久津と立場が似ており馬が合ったのかもしれない。
因みに工藤もこの忘年会の席におり、一応は葬儀での阿久津の約束は果たされたと言えようか。なお、工藤は工藤で同日に死亡した柏木翼と共に「今日のおやぶん」に抜擢され多幸感に浸る城戸と、それを囃し立てる傘下の面々を面白そうに眺めながら焼酎を呑んでいた。