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桓武天皇

かんむてんのう

第50代天皇。光仁天皇の第一皇子。平安京に都を遷したことで知られる。
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プロフィール編集

生没年:天平9年(737年)〜大同元年(806年)

諱:山部


父:光仁天皇(白壁王)

母:高野新笠

異母弟:他戸親王

同母弟:早良親王


生涯編集

称徳天皇の崩御編集

天智天皇の孫に当たる白壁王の第一皇子として天平9年(737年)に生まれる。

母・高野新笠は百済25代王である武寧王の子孫と称する和氏であるという。

白壁王は父・施基親王(志貴皇子)を幼い時に亡くしたこともあり出世争いには大いに遅れを取り皇室でも傍流と言える人物で、後ろ楯となる有力貴族もいなかった。

しかし、30歳前に世に出てからは官界で様々な役職を歴任し藤原仲麻呂の乱を鎮圧した手柄で大納言に昇進していた。とはいえ淳仁天皇和気王などの先例もあるため白壁王は称徳天皇や側近の道鏡に睨まれないように大酒を飲んで過ごしたりして凡愚を装っており即位する可能性も果てしなく低かったとされている。ところが神護景雲4年(770年)、称徳天皇が崩御したことで白壁王及び山部王ら白壁王の皇子たちの人生は一変する。


光仁天皇の即位、親王宣下編集

称徳天皇は生涯独身を貫き、有力な後継者となる皇族が粛清されていたことから、天武天皇系最後の生き残りで山部王の異母弟である他戸親王が皇位につくことが期待され中継ぎとして白壁王が62歳で皇位を継ぎ光仁天皇となった。なお皇位を継いだ経緯として称徳天皇が白壁王を後継に指名していたとも藤原永手魚名良継百川らの後押しによって白壁王が継いだなどの説がある。

光仁天皇は献上された白亀を瑞祥として元号を宝亀に改め道鏡を下野国に追放し、弟の弓削浄人とその息子たちは土佐へ配流した。

山部王も宝亀元年(770年)8月、大学頭・侍従に任じられ、同年10月、白壁王の即位にあたって11月に親王宣下を受け、翌宝亀2年(771年)2月に中務卿に任じられた。


他戸親王の廃太子事件編集

また、光仁天皇は他戸親王の母・井上内親王(天武天皇直系、称徳天皇の異母姉)を皇后とし宝亀2年(771年)、他戸親王を皇太子とした。

しかし、井上皇后は光仁天皇の姉・難波内親王を呪い殺した、あるいは他戸親王の早期即位を願って天皇を呪詛したとして藤原百川の探索を受け、宝亀3年(772年)5月、ついに皇后も皇太子も廃された。


皇太子宣下、そして即位編集

宝亀4年(773年)1月、山部親王は百川らの擁立を受けて、新たな太子に立てられることとなる。親王の立太子には母が百済系渡来人の末裔であることから反対の声も多かったが、百川らがそれらの不満を押し切った。


百川が逝去して2年後の天応元年(781年)4月、父・光仁天皇が高齢と病を理由に退位後まもなく崩御すると、譲位を受けた山部親王は即位し(桓武天皇)、同母弟・早良親王を皇太子に立てた。この時、弓削浄人親子を赦免し親子は河内国に帰郷している。

翌天応2年(782年)閏正月、因幡国守・氷上真人川継が謀反を起こし逃走、間もなく捕らえられたが、かかる政情不安に凶作と疫病の流行に見舞われたことから「延暦」に改元された。


長岡京遷都計画編集

延暦3年(784年)、度重なる凶事に山背国長岡に遷都することが聖武天皇時代に重臣として活躍した藤原宇合の三男・清成(良継の弟、百川の兄)の子である藤原種継によって提案され、新都造営が始まる。

長岡遷都の理由としてはいくつか説がある。政治に密着する既存仏教や貴族勢力を置く新京付近の渡来人勢力との関係。光仁天皇時代から天智天皇系に代わったことによる人心一新。交通の要衝が淀川〜山背〜近江琵琶湖へと変わったことなどである。

この中でそれまで平城京において弊害が大きかった仏教の刷新を理由として、天皇主導の長岡京への遷都が企てられたと考えられている。すなわち旧仏教の本拠地となっている奈良の仏教勢力から訣別して政治を立て直すと共に仏教そのものを新生させることが、桓武天皇や種継が目論んだ長岡遷都の大きな目的だったのである。

しかし、延暦4年(785年)9月に長岡京造営を監督していた種継が暗殺される事件が起き、犯人として藤原家と対立する大伴継人(伴善男の祖父)や大伴竹良ら数十人が捕らえられ処刑された。しかし、事件はこれで終わらなかった。皇太子・早良親王に仕える官人まで捕らえられ、黒幕として親王の名が挙がったのである。

嫌疑をかけられた早良親王は廃されて乙訓寺に幽閉、新たな太子に安殿親王(後の平城天皇)が立てられた。この処遇に不満をもった親王は絶食を続け淡路へと配流される途次、衰弱して亡くなってしまう。

新都・長岡京では、それまで朝堂院と一体であった内裏を東宮にうつし、政務と儀礼が分離された。こうして歴史上前例のない画期的な飛躍がみられた長岡京だが、天皇の身内には相次いで不幸が起きたうえ、伊勢神宮の放火、皇太子の発病など凶事が続いた。これらのことに怯えた天皇が陰陽師に占わせたところ、早良親王の祟りだという。怨霊を慰める祭りが行われたが変事は終わらず、長岡京は二度も大水害に襲われ、しかも水害を防ぐための工事も失敗に終わってしまう。改修の目途が立たず、ここで復旧工事をしてもいつまた洪水に襲われるかわからないため、和気清麻呂によって平安遷都が提案され、延暦13年(794年)、長岡京は10年で廃された。

なお、井上内親王と早良親王の祟りを恐れた天皇は平安京遷都後の、延暦19年(801年)、早良親王に「崇道天皇」と追尊した。井上内親王は光仁帝の皇后に復位され墓所を山陵と追称された。


平安京遷都編集

新しい都は平安京と名づけられ、明治2年(1869年)の江戸(東京)遷都まで、千年以上にわたって日本の首都でありつづけた。約390年つづく平安時代は遷都がなった延暦13年(794年)が始まりとされている。


国内体制の整備として格式をまとめられ、注釈書がいくつも書かれた。更に天皇の命により『続日本紀』が編纂された。このほか、農民への出挙(財物全般の利息付貸しつけ)の利率を下げて負担軽減をはかり、様々な困難に直面していた班田収授の期間をのばして励行につとめ、公民の兵役を建前とした軍団をやめて郡司の子弟による健児にあらため、地方行政にあたる国司の監督を強化するなど行われた。


東北の蝦夷の社会に律令型の統治をおよぼしていくことも光仁帝時代からの課題であった。延暦16年(797年)、天皇は坂上田村麻呂征夷大将軍に任命し、蝦夷の族長アテルイを降伏させて、律令国家の領域は大きく東北方面に拡大した。


徳政相論編集

延暦24年(805年)、菅野真道と論争した藤原緒嗣(百川の子)は「いま、天下の人民がくるしんでいるのは、蝦夷討伐と平安京造営によってである。このふたつの事業を停止すれば、人々はやすらぐことができるだろう」と主張した。桓武天皇は緒嗣の意見を採用し、天皇の裁定によってただちに計画されていた第四次蝦夷征伐を中止、平安京の造営にあたる造宮職も廃止された。


大同元年(806年)3月、天皇は70歳で崩御し、柏原陵に葬られた。


後宮、子女編集

皇后編集


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夫人編集


女御編集


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