永井豪
ながいごう
日本の漫画家。
バイオレンスとエロスとオカルトとギャグ。物凄い大風呂敷を力業で畳んでしまうことに定評がある。
概要
日本の漫画家。
四大週刊少年誌(週刊少年ジャンプ、週刊少年マガジン、週刊少年サンデー、週刊少年チャンピオン)全てに連載経験をもつ。
略歴
1963年、大学受験に失敗し、漫画家を志す。
1965年、編集者から漫画家の先生に見てもらうよう勧められ、石森章太郎(石ノ森章太郎)のアシスタントとなる。
1967年、『ぼくら』(講談社)に掲載された「目明しポリ吉」でデビュー。『週刊少年マガジン』(講談社)で連載を始めた「じん太郎三度笠」が好評だったが赤塚不二夫の圧力により正式連載が立ち消えとなる。
しかし、秋田書店の壁村耐三が永井に注目し、アシスタントがいれば連載も可能だろうと考え勝手に蛭田充を連れてきて『まんが王』(秋田書店)に「馬子っこきん太」を連載させた。
1968年、新創刊された『週刊少年ジャンプ』(集英社)に「ハレンチ学園」を連載。一世を風靡するが、型破りでエロティックな内容から、「子供に悪影響を与える」として、PTA、教師、マスメディア等から人格を否定されるほどの激しい糾弾を受けた。このあたりの事情については、自伝漫画「激マン!」に描かれている。
ハレンチ学園終了後、1972年に東映動画と講談社にメディアミックス企画を持ち込んだ「デビルマン」のコミック版ではストーリー漫画家として新境地を開拓。
その後、「マジンガーZ(1972年)」、「キューティーハニー(1973年)」、「ゲッターロボ(1974年)」とメディアミックスを連発し、「ずっと永井豪のターン」であった。
2012年、「デビルマン」「マジンガー」両作品が40周年を迎え、イベントが開催された。
現役であることに深い拘りが有り、老齢となった現在も精力的に活動している。
余談
- 永井の絵はデッサンやパースが狂っており下手なことに悩んでいたが、それが不思議な迫力を生んでおり、石森章太郎から「お前の良い所だ。大事にしろ。」とアドバイスされた。
- 早描きで知られており、ネームを描かずにいきなりペンで枠線を引いたこともある。これについては石森章太郎のアシスタント時代に「先生と2人だけで月産200枚を3ヶ月続けたこともありました」という経験を積んだためと答えている。
- ギャグ漫画は子供向けのものであると考えていた赤塚不二夫は、永井を呼びつけエログロナンセンスが過ぎると酷評したが、永井は「赤塚先生が否定したもの=赤塚先生が描かないものを描けば、独自の個性として大成できる」と結論づけた。
- スターシステムを導入しているため、人気キャラは作品をまたいで登場することが多い。
- 庵野秀明は「新世紀エヴァンゲリオン」について「あんなにマネしてすみませんでした」と永井に謝った。また、永井豪に対して、「エヴァのあのスタイルはデビルマンですから!!」とアピールもした。元記事
- 園子温は永井の漫画に「命を救ってもらった」としてリスペクトを表している。
- 高橋留美子は彼の作品が自身にとっての血肉となったと語っている。
- ギレルモ・デル・トロ監督は永井が居ると聞いた現場にサインを貰いに行った。
- 「マジンガーZ」について「アニメは大成功をおさめた」と絶賛しているが、『週刊少年ジャンプ』、『テレビマガジン』で連載していた自分の漫画には多少の心残りがあると述べている。
- 「ゲッターロボ」は原作を担当しており、作画はダイナミックプロの石川賢によるもの。石川の死後に「デビルマン対ゲッターロボ」を自筆した。
- 「ハレンチ学園」、「花平バズーカ」、「デビルマン」、「マジンガーZ」などで三角関係が元の全裸キャットファイトやレズ(今日的な百合では断じて無い)を複数回描いている。
- 自身の作品から生まれたプロレスラー獣神サンダー・ライガーが引退試合をした後のバックヤードコメント時に登場し、プロレス記者やテレビカメラがあるにもかかわらず堂々と「山田君」と言ってねぎらいの言葉をかけた。
- スーパーロボット大戦30の笑顔が付いた30の部分は永井が担当。
- 2018年、文部科学大臣賞の受賞を機に所管する教育界との和解を果たした。「ハレンチ学園騒動」からちょうど半世紀、その様子は「歴史的和解」として報道(元記事)された。