悪魔ほむら
あくまほむら
概要
アニメ『魔法少女まどか☆マギカ』の登場人物・暁美ほむらの個別タグ。
『魔法少女まどか☆マギカ』の最終話及び『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編] 叛逆の物語』のネ |
---|
タバレを含みますので閲覧には注意して下さい |
『劇場版魔法少女まどか☆マギカ [新編] 叛逆の物語』に登場する暁美ほむらのさらなる形態。穢れがたまり、魔女になる寸前になったほむら。その後インキュベーターに囚われ不完全に魔女化したほむら。
そのほむらを救うべく、鹿目まどか率いる円環の理勢力(美樹さやか、百江なぎさ(お菓子の魔女)、その他の多くの使い魔)と巴マミ、佐倉杏子らによって救われる。
そして、ほむらを円環の理が迎えに来るのだが……
「待たせちゃって、ごめんね……今日までずっと頑張ってきたんだよね…」
「まどか…」
「さあ、行こう…これからはずっと一緒だよ…」
「ええ、そうね…」
「この時を…待ってた…!」
まどかがほむらに手を差し伸べた際、この時を待っていたと口元を邪悪に歪ませ、まどかの手を引っ張って円環の理の力の一片を奪い取る。
「…世界が書き換えられていく…この宇宙に、新しい概念が誕生したというのか?」
「そう言えば、あなたは覚えていなかったわね? 私にとっては2度目の光景だけれど…」
「何が起きているんだ? 暁美ほむら、君は何に干渉してるんだ? 何を改竄してしまったんだ!?」
「…ふっ」
「信じられない。呪いに染まったソウルジェムが、消え去る筈の君の魂が…何故…」
「思い出したのよ。今日まで何度も繰り返して、傷付き苦しんできた全てが、まどかを想っての事だった。だからこそ、今はもう痛みさえ愛おしい…私のソウルジェムを濁らせたのは、最早『呪い』でさえなかった」
「それじゃあ、一体…」
「…あなたには理解出来る筈もないわね。インキュベーター」
「これこそが、人間の感情の極み。希望よりも熱く、絶望よりも深いモノ…"愛"よ」
それによって二度目の世界改変が起こり、人間としての鹿目まどかを取り戻し、そして円環の力を奪い取った後の世界改変空間で「悪魔」と自称したほむら。
この時、ほむらはバレリーナ(恐らく白鳥の湖が元ネタ)のようなセクシーな衣装に身を包み、背中には黒い翼を持つ自らを「魔」を司る者・摂理を捻じ曲げ世界を蹂躙する存在と呼称。まどかを強引に現世に引き戻し、それに巻き込まれたさやかとなぎさも円環の理の眷属としての記憶を失った。
この際に魔女の口づけに似た紋章が現れており、紋章は蜥蜴が描かれている。
なお、蜥蜴は旧約聖書では汚れた動物とみなされているものの一つである。(レビ記:11章29-30節)
そのエネルギー源が希望でも絶望でもないことから「わけがわからないよ」と言うインキュベーターに対し、これらの行為を「希望も絶望も超える人間の最も深い感情」=「愛」と言い放っている。さらにその愛を「これまでの戦いでまどかのために積み重ねてきた想い」と表現していた。
インキュベーターが、その理解を絶する強力な感情エネルギーを利用するには危険(まずインキュベーターが、一つの個体への執着である愛という感情を理解すらできない)と判断、地球、そして人類から手を引くと言って逃げようとすると、それを許さず、魔獣エネルギー採取の奴隷として利用するようになる。
どれほど本気で言っているのかは不明だが、「この世界を滅ぼすつもりか」というさやかの詰問に対して、「魔獣を全て滅ぼした後にはそれも悪くない」と返しており、世界にとって非常に危険な存在となってしまったことを示唆している。
再改編後の世界でも見滝原中学に通っているが、目つきは悪くなり、色気とも狂気ともいえないオーラを醸し出している。
「転校生の帰国子女」である鹿目まどかに対して接する際も周囲のクラスメイトはほむらを避ける行動をとるなど、やや距離を置かれていることが窺える。
その後もさやか・まどかの敵になることを示唆したり、再会したまどかと触れ合った際にまどかが自らの記憶を思い出し三度目の世界改変が起こる。前述の通りほむらが奪い取ったのは、「人であった頃のまどかの記録」という断片のみ。しかもまどかがほむらを救済しようとした時に不意打ちで人間のまどかに戻したので、些細なきっかけでまどかが再びアルティメット化する。この時あわててほむらはまどかを不意打ちで襲い、世界改変を阻止した。
なお、まどかという核の断片を奪われた円環の理がどうなったのかは不明。まどかにアルティメット化の兆しがある以上、少なくとも完全に失われているわけではないようだ。
しかし円環の理に導かれたはずのさやかやなぎさが普通に暮らし、まどかも「海外に行っていた帰国子女」という設定で転校生として普通の人間に戻り、本作でも小憎たらしさを発揮していたインキュベーターがボロ雑巾のようになるというある意味多くのファンが望んでいた理想の結末を体現しており、実に虚淵玄らしいハッピーエンドかバッドエンドかいまいちわからないエンディングとなる。ただし、みんな自身の使命を果たせないまま、生きることになるのだが…
ちなみにほむらのソウルジェムは「呪いを超えたおぞましい光」を放つ「ダークオーブ」と化している。
ソウルジェムからダークオーブへと変わったためか指輪はしておらず、左耳に魔法少女状態のジェムに似た宝石を吊るす耳飾りをしている。ちなみに、ダークオーブを自身の体内に収納するのは可能で、本編ラストでは左手の手の甲からダークオーブが出現している。
またほむらの使い魔である偽街の子供達のまだ来ていない15人目の「アイ」は「愛」という説と「I(わたし)」という説の二つが存在する。あるいはダブルミーニングかもしれない。
その真意
彼女が叛逆に至る過程および伏線は(OPとEDも含めて)映画全体に描かれていると言ってもいい。
ほむらはこの行為を行う前に、結界内に形成された偽者の見滝原で、まどかから「友達や家族といった周囲の人々と離れ離れになることは辛い」という気持ちを聞いている。
これに関して総監督である新房昭之は、パンフレットのインタビューで「神様になった記憶を置いてきた本物のまどか」「決して偽物やつくりものじゃない」と述べている。一方、脚本家である虚淵玄は同じパンフレットで「ほむらに捏造されたキャラクター」「ほむらによって都合の悪い記憶を摘み取られている状態」であると述べている。
そのためどちらとも解釈できる状態であり、その解釈は視聴者それぞれの手に委ねられている。
(なお、円環の理としての記憶のある本物のまどかの場合はどう答えるのかは不明である。
そう考えれば、円環の理のまどかの真意を無視してほむらが独断で行動したことになりえてしまう)
また、ループを繰り返した過去の自分や、まどかの願いや信念に一度は納得した自分、さらにはまどかが円環の理となった後の自分に対する嫌悪が、叛逆の要因ではないかとする考察も存在する。
魔女化する直前にキュゥべえに語った「まどかを救う(守る)」という自身の願いに反して、(たとえ提案してきた相手がまどか本人だとしても)まどかが魔法少女から魔女になる結末を作ってしまい、次は魔女にさせないために魔法少女のままであるまどかを射殺した。その次はまどかを魔法少女にさせないために行動するも、何度も繰り返したことでまどかを最悪の魔女とする因果を生み出した。その結果として、まどかに円環の理という永遠の戦いを強いてしまったことが、ほむら自身の苦悩と罪悪感の一つであった。
そこへ上記の「まどかの気持ち」を聞いたことで、一度はまどかの願いや信念に一度は納得した自分に対する自己否定と自己嫌悪がさらに強まったと考えられる。これらの過ちや罪悪感と共に、かつてまどかと交わした『約束』、すなわち「契約を阻止してまどかに人としての人生を取り戻す」という、もう一つの自身の信念の原点を思い出し、鹿目まどかを円環の理から解放することこそが自身の願いと約束の達成、まどかへの贖罪になるのではないかと考えたことが、叛逆の動機の一端ではないかとする意見も少なからずある。
加えて重要な意味を持つのが、インキュベーターの存在である。
発言からわかるとおり、ほむらが円環の理について話したせいでインキュベーターは円環の理(まどか)を解明し、最終的にはエネルギー回収の道具として利用することを意図していた。まどかを利用しようとする彼らに対して、魔女化直前のほむらは悪鬼のような表情で怒り狂い(漫画版の描写では、この怒りはインキュベーターだけでなく、自分自身へも向けられていた)、その企みを失敗に終わらせるため、自害の道を選ぼうとしている。
この点について、新房総監督は「たとえほむらに対する実験が失敗したとしても、インキュベーターは他の魔法少女で同じようなことをするだろう」とインタビューで指摘しており、「いずれはインキュベーターに円環の理が解明され、あの世界は崩壊していた」「ほむらはああせざるを得なかった」という旨の発言をしている。
今後同様のことが二度と起きないようにインキュベーターをねじ伏せ、「まどかを守り、人としての人生を取り戻す」というまどかとの『約束』や「まどかを救う」という自身の願いをほむらなりに達成し、今までの自身の罪と罪悪感、自己憎悪や自己否定への決着を、ほむらなりに付けたと言えるかもしれない。
だが、叛逆行為には大きな代償も伴った。ほむらとまどかの気持ちには大きなズレが生じてしまっており、再改変後の世界においても、ほむらは「いずれ貴方は私と敵対するかもしれない」と、ある意味では自分から敵対宣言をしている。自らがいずれまどかと敵対する運命にあると自覚、確認したことで、今後まどかとともに歩むことで得られる自分自身の幸せを諦める覚悟をしている節がある。加えてエンディングの場面では『カラフル』で一人だけ踊っていなかったワルツを一人で踊るなど、非常に物悲しいものとなっている。
ダークヒロインとしての側面
上記のとおり、ほむらがこのような結末を迎えたのにはそれ相応の理由があると推測されるが、ダークヒロインとしての側面も大きい。
本物のまどかは、あくまでも「魔法少女ではない友人と家族に会えないこと」に苦悩しているのであって、まどかは円環の理としてあり続けることに苦悩しているわけではない。作中の様子からも、美樹さやかや百江なぎさのように、消滅した魔法少女たちはまどかに付き添っており自我も存在しているため、概念となったまどか自身は少なくとも孤独ではないし、円環の理であり続けることそれ自体に苦悩している様子も見せていない。
言い換えれば、まどかはそれらを承知の上で覚悟を決め、円環の理になる決意をした。それにもかかわらず、ほむらはその覚悟と決意を、ある意味では踏みにじってしまったのである。そして帰ってきたまどかに対しても、あまり喜んだ姿を見せず、その愛情が屈折してしまったことも匂わせている。しかしリボンを返した時には涙を流し、また無理に懐柔することもしていないなど、まどかに対する愛情は確かであるようだ。
忘れがちだが、インキュベーターに円環の理の正体とまどかのことを教えたのは、他でもないほむら自身である。少なくともインキュベーターが円環の理に興味を持った責任の一端が彼らの行動パターンと技術力を侮ったほむらにあることは間違いなく、ほむらがインキュベーターにまどかのことを話さなければ、作中の出来事はなかった可能性が高い。
ただしインキュベーターとの関わりについては、劇場版とTV版では9話のキュゥべえに対する第二称が「お前」だったたのに対し、12話と本作では一貫して「あなた」「あなた達」になっており(まどか達4人に対する第二称も「あなた」である)、魔女化システムが効率的で魅力的だというキュゥべえの発言も「そうね。あなたたちはそういう奴らよね」と軽く聞き流しているなど、改編後や結界内の世界で今回の出来事が発生するまでは、キュゥべえをかつてのような敵ではなく(敵対する理由が無くなった)良好な関係の対等なパートナーとみなしていたことが窺える。
こういった前作のラストの「折衝」という関係も、油断の要因の一つと言えなくもない。
また新房監督はインタビューにて、「新編での出来事の発端はまどかなんですよ。親ですら覚えてないのに、ほむらだけには覚えていていてほしいというのは、まどかの失敗です。」とコメントしており、結果として自身の記憶の負担をほむらに強いてしまったまどかにも、この出来事に対する責任の一端があるとも解釈できる。
その他にも、魔女化して無限の自殺を図ろうとしたときに、まどか・さやか・マミ・杏子・なぎさらが力を合わせて立ち向かってくれたにもかかわらず、その彼女達の想いを踏みにじったのも、紛れもない事実である。
ただしまどかに関しては、前作で円環の理となった際に、それまで数多の時間軸を奔走してきたほむらの想いを踏みにじっていたから、おあいこだとする意見も存在する。
また、もともと虚淵氏は、テレビ版の頃からほむらを『善』として描く気は全くなく、むしろ彼が得意とする『信念に真っすぐなダークヒーロー』寄りのキャラクターとして意識していた様子である。ハノカゲのコミカライズ版に関して「ほむらが悪人のようだ」というファンの感想について、「自分が描きたかったほむらは、むしろこんな感じ」とコメントしている。
新編パンフレットでも、『スターウォーズ』のアナキン・スカイウォーカーがダース・ベイダーへと変貌する(元は純粋な少年だったが、フォースの暗黒面に染まってしまう)ことを引き合いに出していることから、少なくともほむらが「ダークヒロイン」としての完成を見せたことは事実である。
その上で明確にしておきたいのは、善悪を超えて周囲を巻き込んでも己の信念に向けて突っ走り、そのことによって本人だけは満足する主人公というキャラ像は、虚淵作品ではよくあることである。
そして「虚淵玄は愛の戦士である」(「白貌の伝道師」後書きより)。己の愛を貫いたほむらが大勝利するのも「だって虚淵だから」としか言いようがない(実際、前例も存在する。こちらとこちらを参照)。
そういう意味では、暁美ほむらは間違いなく虚淵ヒロインの一人であったと言える。
虚淵氏もほむらについて「劇場版で彼女を書き切った」と発言しており、暁美ほむらというキャラ像の印象は、虚淵玄という作家の作家性に対する賛否で変わるだろう。
「物語にハッピーエンドをもたらすという行為は、条理をねじ曲げ、黒を白と言い張って、宇宙の法則に逆行する途方もない力を要求されるのだ。そこまでして人間賛歌を歌い上げる高潔な魂があってこそ、はじめて物語を救済できる。ハッピーエンドへの誘導は、それほどの力技と体力勝負を作者に要求するのである」(「Fate/Zero」後書きより)
そして彼女は「愛の力」でそれを成し遂げたのだ。しかし、その「愛」が呪いよりおぞましい色を発していたとしても、ほむらを「ヒーロー」と呼ばずして何と呼べと言うのだろうか。
とにもかくにも、ダークヒロインとして完成されたほむらの存在が、今後のまどか☆マギカシリーズにおいて「魔法少女の前に強敵として立ちはだかる悪役」となる可能性は高い。
虚淵は複数のインタビューにおいて、続編の存在を匂わせる発言をしている。
記憶を残している節がある美樹さやか、あるいは新たな魔法少女、ボロ雑巾にされつつも瞳に何かを宿し始めたインキュベーター、そしてかつてほむらを「わたしの、最高の友達」と呼んだ鹿目まどかといった面々が、今後ほむらとどう向き合うのか。
その課題はワルプルギスの廻天に託される...
悪魔化の功罪
物議を醸した悪魔ほむらの行為は、功罪ともに大きいと指摘されている。
上記のようにほむらは、まどかの決意や覚悟を踏みにじってしまったが、結果として、まどかは再び現世で家族や友人と過ごせるようになった。それだけでなく、さやかとなぎさも蘇生を果たしている(まどかのオマケ扱いではあるだろうが)。
また、今まで人類を実質家畜、あるいはエネルギー資源同然に扱い、数多くの魔法少女たちから「悪魔」のごとく嫌われ、恨みを買ってきたインキュベーターに対して、逆に支配して「痛み・恐怖・絶望」などの「感情」を教え込んだのはマギカシリーズでもほむらが初の存在である。
それに対してほむらは、鹿目まどか一人のために宇宙の摂理を乱す(神の理に抗う)ことや、秩序より欲望を優先することを厭わず、さらには「(すべての魔獣が滅んだ後は)宇宙を壊すのもいいかもしれない」とさえ発言している。一個人の幸福と、それによって自分自身を満足させるために圧倒的多数を犠牲にすることを厭わない者もまた、「悪魔」と呼ばずして何と呼べと言うのだろうか。
ただ、前作でのまどかもまた全魔法少女を救いたいという個人の欲求(ある種のわがままとも言える)により宇宙のルールを破っており、前の世界が絶対によかった、まどかの方が絶対に正しかった、といったように考えるのには疑問が残る。
また、先述のほむらのセリフについて「まどかが幸せに過ごしている世界を自ら滅ぼす理由があるのか」といった、本気かどうか疑問との意見もあり、新しい世界で明確に以前よりマイナスとなっている描写があるのはインキュベーターのみで、全体としては以前より良くなっているとも考えられ、その世界で本当に圧倒的多数が犠牲になっているのかは現状わからない。一個人の幸福のための行動が、結果的には多くの人々を幸せにしたという例もまた、人類の歴史上多く存在している。
結局のところ、彼女が真に「悪魔」なのかどうかといったことは、それを判断する人の各々の立場に委ねられていると言えるだろう。
なお、エンディングでボロ雑巾のようになったインキュベーターが、そのまま大人しくしている保障は、どこにも無い。今後の物語の展開としては、性質の異なる悪魔同士の対決も、あるかもしれない。
対人関係面での「ほむらの成長」
また一方で、上記のようなダークヒロイン像以外の面での成長も見られ、虚淵が「ほむらは成長するキャラ」と語っていたことにも繋がる。その大きなものが対人関係であろう。
かつてほむらは、度重なるループで精神をすり減らし、もう誰にも頼らないと心を閉ざしてしまった。そんなほむら自身の態度もあって、まどかの契約を巡ってマミと対立し、さやかには誤解され、杏子との共闘も実現できず、そして、まどかにさえ言葉が届かずに一度は拒絶されてしまうなど、ほむらは仲間たちと信頼関係を築くことができず、行き詰まっていた。
だが本作では、仲間たちはほむらの良き友人として傍らにいた。1周目の世界のように、ほむらと紅茶を飲みながら胸に秘めた心境や思い出を語り、衝突に至っても(まどか曰く)ほむらを心配したマミ。
全ての事情を知って誤解を解き、ほむらを優しく見守っていたさやか。
突拍子もないほむらの相談に真面目に付き合い、後にほむらの異変を感じ取った時には必死に探した杏子。
そして、「一人ぼっちにならないで」とほむらの孤独を気遣うまどか。
このように、今までになくほむらは、仲間たちからの暖かみや優しさ、信頼に包まれているといえる。終盤のHomulilly(魔女ほむら)救済の戦いで、仲間たちが力を合わせて戦ってくれたのも、仲間たちがほむらを救うべき存在として認めていたからこそと言えよう。
ほむら自身もまた、度重なるループの中で失いかけていた仲間たちとの信頼や絆、メガほむのころの優しさや初心、理想を、自身の魔女結界での一カ月で再び培い、取り戻すことができた。魔女を巡るさやかとの真剣な会話、まどかへの自らの孤独の告白、そして自らの状況を理解した時には、自分を介錯してくれる人物としてマミと杏子の名前を挙げるなど、不器用な面は残るものの、仲間への不信からは脱却していたと言える。
だがしかし、マミを傷つけたくないがゆえに自分の意図を隠そうとする(そして結局は衝突してしまう)、さやかから「一人で何でも抱え込もうとするな」と指摘されるなど、物事を一人で抱え込んでしまう弱さが依然として存在する。救済を拒んで、自ら孤独を選んだのは事実であり、「一人ぼっちにならないで」というまどかの思いも、完全には届かなかったと言える。
結局ほむらは、漸く取り戻した、仲間達との絆や想いを全て踏みにじり、文字通り決別する道を選んだが、悪魔化した彼女がこの絆と優しさに何を思い、そしてどう受け止めたのか、最新作での動向が注目される。
虚淵は、ニコニコ生放送での小池一夫との対談において、ほむらの成長は「迷いを捨てること」であると語っている。しかし実際のフィルムでは、まだ葛藤を遺している所があり、そこは虚淵の解釈だけでは分からない部分で「よくやってくれた」とのこと。新房総監督は、『魔法少女まどか☆マギカ』のキャラクターたちは、ファンも含めてみんなが育てたと話しているように、暁美ほむらというキャラクターもまた、虚淵の予想を越えた存在になっている。「ひだまりスケッチ」からイメージを受け継いでいる「蒼樹うめのキャラクター」でも、「虚淵玄のキャラクター」でもない、「『魔法少女まどか☆マギカ』のキャラクター」たちが、今後どうなるか予想は出来ないものの、まだまだ変化を続けていく余地があるということなのかもしれない。
彼女の元の面影
メガほむからの変化の時点でも半ば別人であるが、このたびの変化はさらに元の面影を失っている……ように思えるが、彼女にも捨て切れていない弱さがあるようだ。
度重なるループの中で、ほむらは自分の手で(3周目の)まどかを殺し、時にマミ達を見殺しにしてきた。また、他の魔法少女とは異なり、「魔女が元々は同じ魔法少女である」という事実を知っていながら何十、何百という魔女を殺してきた。その罪悪感を背負って戦ってきたのも事実であり「自分がこれまでどれだけの人の心を踏みにじってきたか」「そんな私達だからこそ、あの子は身を挺して救おうとしてくれた」というセリフからも、彼女の深い葛藤が窺い知れる。
手枷をはめられ、ギロチンへ罪人の姿で連行されるほむらの魔女姿は、まどかの為の「自己完結」による死以外にも、4人全員への贖罪や、誰かに裁かれたい、死をもって罪を償いたいというほむらの思いを象徴しているのかもしれない(もっとも、魔女図鑑では首を刎ねる程度では罪は消えないとも書かれているが)。
叛逆の物語の最終盤で、マミには決別の証として紅茶のカップ(マミの物ではないが)を落としているが、マミの手には自身の羽を握らせている。杏子がほむらの使い魔にリンゴをあげているところで、首を振って使い魔を制し、林檎を川に落とさせてしまう。そして、さやかとの会話中には使い魔がほむらに向かい果実を投げる描写がある。まどかにはリボンを返しつつも、その目には涙が浮かんでいる。杏子とさやかに関しては、むしろ使い魔の行動がほむらの本心を表しているとする解釈が多い様子である。
円環の理からまどかだけでなく、さやかやなぎさも引き戻したのは偶然か、それとも何らかの意図や思うところがあったのか。マミ、杏子、さやかの3人をクラスや見滝原中学校から排除せず、記憶を操作しつつも改編前とほぼ同じ位置に留め置いたのも、まどかの幸せの為には3人の存在が不可欠と考えたからなのか。
いずれにしろ、自身の魔女結界の中でのほむらの願望を見る限り、4人全員と決別するなど、ほむらが平気でできるはずもないのかもしれない。
前半の本人曰く「茶番」の正体
物語前半の魔法少女たちがナイトメアと呼ばれる敵と戦う世界観は、元を正せばほむらが、無意識に望んでいた「魔法少女たちが力を合わせるご都合主義の世界」である。ナイトメアも、「魔女でなくこんな敵と戦っていればよかったのに……」というほむらの潜在意識が、生み出したもの。
脚本の虚淵曰く「深層心理ではほむらもああいうことがしたかった」「あの『ごっこ遊び』をしたかったがために、みんなが呼ばれてきた」とのこと(パンフレットのインタビューより)。
つまり、なんだかんだでほむらも4人と同様に「正義の味方な魔法少女」に憧れているようである。
スタッフからの反応
虚淵が考えていた当初の結末は「ほむらがまどかに連れられて行く=ほむらが円環の理に導かれる」という完結編とも言えるものだったが、インタビューによれば「(シリーズを続けたい)監督側の意向から中々OKが出ず悩んでいたところ、新房さんが"いっそ対立関係になるのもありかもね"と発言し、その一言が突破口になった」とのことである。
虚淵は以前から、TV版・総集編映画のアルティメットまどかによる円環の理ENDを「ハッピーエンド」と語っていたが、この結末に対しては、新房総監督などからは「(まどかが円環の理になるのは)中学生に背負わせるには過酷すぎる運命ではないか」と異議が唱えられていた。今回のほむらの「叛逆」も、とどのつまりは「まどか(とさやか)の現世からの解脱」という要素に対する部分が中心で、まどか・さやかが家族や友人と断絶するエンディングに不満があった層には、今回のほむらの叛逆を支持するという意見も存在している(現にさやかも恭介や仁美と再会して涙ぐんでおり、家族と過ごすまどかの様子も幸せそうなのは確かである)。
加えて新房監督は、「『賛否両論』を覚悟していた展開だが、それでもTV版と違う結末にしなければ新たにやる意味はない」、「自分はこの映画は原作となるTV版からの続篇ではなく、前作の劇場版の続編だと捉えており、さらに原作のほむらは激戦の末に円環の理に無事に導かれたのかもしれない」との趣旨の発言をしているので、TV版ほむらがこのような結末を望んでいたかどうかは各人の解釈にゆだねられていると言えるだろう。
そのため、この結末は新房監督の要望であり、虚淵カラーこそ強くとも、虚淵が最初からそのつもりだったわけではないというファンの指摘もあった。
しかし上映前の雑誌「SPA」のインタビューや小池一夫との対談においては「完結してしまった作品への叛逆」という続編をやることを匂わせる発言も、虚淵氏は残している。ほむらがまどかに救済されるだけなら、それは結局のところ「後日談」にしかならず、その上で「神に従っていたものが反抗する」というありそうなモチーフのアイデアが出てきた事で、虚淵氏もほむらの悪魔化を思いついたともいう。
なにより虚淵は「ほむらのメンタルというか欲求と動機だったらありうる判断だった」とも語っており、今まで構築していたイメージとは恐らくあまりブレていないことが言える。
新房監督はインタビューにおいて、「人を殺してしまえばその後どれだけ善行を積もうと主人公の側に立つことはできない」「人殺しが幸せになるには、そのための改心や過程を描かなければならない。そういう意味ではホストを気絶させるに留め、殺傷にまでは至らせなかったさやかよりも、さやかに殺意を持って迫ったほむらの方がよほどダメ」とコメントし、今回の悪魔化はほむらにとって『救い』になったわけではないという意図を含ませてもいる。なお、この件に関しては未遂であっても殺人は傷害より重い罪になるのか、自分自身を処刑し続ける魔女になってもまだ『過程』が足りていないのだろうか、ほむら以外の魔法少女の罪はどう扱われるのかという疑問がファンの間で呈されてもいる(ただし、TV版では描かれたほむらのさやか殺害未遂シーンは、劇場版では削除されている。つまり、劇場版のほむらは殺害未遂をしていないので、監督のコメントは、本作がTV版からの続編ではないことを意味しているという解釈もある)。
スポーツ報知の増刊号の新編特集では「ほむらから見るとハッピーエンド」ということで、まどかを日常へ返してやったことはほむら自身にとっては満足だったという認識のようである。
「神と悪魔が同じ学校に居る」というシチュエーションがどう扱われていくのかは今後のまどか☆マギカシリーズで語られるのかもしれない。
なお「きらら☆マギカ」の声優インタビューでは「キュゥべえだけが不憫だけど、ほむらが満足してるなら、まぁいいんじゃない?」という温かなコメントが多かった。
漫画版「叛逆の物語」での展開
ハノカゲによる「叛逆の物語」コミカライズにおいては、2巻から核心を突いた展開に突入したが、ここではほむらの自己嫌悪がより強調されている。
まどかを利用しようとしたインキュベーターへの怒りも強く描かれているが、彼らに対する怒りよりも下手すれば自分自身への憎悪が大きい。
ハノカゲのTV版コミカライズでは、メガほむがまどかと再会して「ずっと一緒にいる」という円環の理に導かれることを匂わせたコミカライズ独自のハッピーエンドがあったが、なんとほむらはまどかに救われようとした自分自身(メガほむ)を射殺するという驚愕の演出がある(この時のほむらの表情はまるで偽街の子供達のようである)。
そして「だまりなさい」という怨嗟の声もインキュベーターではなく自分自身へ向けられている。
劇場版のルミナスによるまどかスライム化に相当する展開だが、このシーンの衝撃性は漫画版も勝るとも劣らないといえよう。
円環の理を穢すような真似をしたほむらだが、実はほむら自身「まどかに導かれること」を拒んでいるという印象が強まった解釈である。
しかしほむらの使い魔である偽街の子供達も劇場版では女神まどかの銅像に柘榴を投げつけるシーンがあったり、そもそも魔女化した後も自己憎悪バリバリだったりとほむらが最も憎んでいるのは自分自身であるという解釈は決して的外れとは言えないだろう。
TV版からファンの間で議論に登っていた「円環の理で救われない魔法少女」がいるのではないかという意見を、まさにほむら自身が「円環の理では救えない魔法少女」という存在を体現してしまっているという皮肉な構造になっている。
こうした自己否定も、ほむらが円環の理に導かれることに叛逆したことの裏付けとなっているのは間違いない。
そして3巻では実際の劇場版アニメを上回る悪魔っぷりが披露されることとなった。
恐らく虚淵が当初意識していたであろう「迷いを捨てきることで成長を果たしたほむら」像の一つの完成系と言える。特に「やっと捕まえた」のシーンなどは顕著。
元々ハノカゲ版のほむらはリボほむ時代でもまどかのようなツインテールにするなど「病み」っぷりが見受けられていたので、これもまた一つの解釈と言えよう。
余談
1stテイク版
新房監督は映画公開後のインタビューで「ほむらがちょっと怖くなりすぎたため物語が完全に終わらないためにもラストシーンを撮りなおした」という旨の発言をしていたが、その音源での本編がなんとBD完全生産限定盤のEXTRADISCにつくこととなった。
ほむらがまどかを引きはがすあたりから劇場で公開された本編と比べると、ほむらのヤンデレ度は群を抜いており、とてもちょっとではない。また違った悪魔ほむらを見れるので興味ある方はぜひご購入を。
二次創作での扱い
公開直後においては「デビルクレイジーサイコレズ」「まさに外道」「吐き気を催す邪悪」「漆黒の意思」「前人未到最強最悪の悪」などと騒がれた彼女だが、
「現時点で大した悪事は働いていない」「ここでいう『悪魔』は『神への叛逆者』という意味」「今作における人的被害は(スピンオフを含めても)シリーズ初の『マイナス領域』へ突入している(犠牲者はインキュベーターのみ、一般市民は無事で、まどか・さやか・なぎさも帰還している)」といった観点から、彼女を悪と断罪する意見は、少数のインキュベーターの支持者を除いて少なくなっている。逆にインキュベーター派からは、宇宙を破滅させかねない存在として危険視されている。
物語中において唯一アルティメットまどかに拮抗し得る存在と設定されたこともあり、pixivの投稿作品では彼女とセットに描かれることが多い。CP表記はアル悪/悪アル。
その内容は「神と悪魔の最終戦争」から「ただの痴話喧嘩」、「そこまで辿り着くことすらできずまどかに尻に敷かれるほむら」など多岐に亘る。妙な悪戯を行い「私って悪魔ね(ホムフフ」と偉ぶるネタも存在している。
また、些細なきっかけでアルティメット化しそうになるまどかを必死で止めたり、悪ぶっていてもまどかへの愛で調子が崩れてヘタレてしまったり、実はとっくに記憶を取り戻しているまどかとさやかにからかわれたりなど、コメディ調に扱われることも多い。
他にもマミと変な所で張り合ったり、なぜか結界内の約束を覚えている杏子にラーメンを奢らされたり、一応は部下のはずの偽街の子供達のやんちゃ振りに振り回されたりと悪魔なりに日常に溶け込んでいる様子が描かれることもある。
……要するに悪魔化しても結局いつものほむほむ扱い。
それどころか、ヘタレ度合いに関しては以前よりむしろ強化された節もある。もともと作品中でも、まどかにリボンを返した直後などで「根っこは変わらない」ような所を見せていたので、仕方ないのかもしれない。
このため、公開後一週間を経ずして既にヘタレ属性が付いてしまったことは記録しておく価値があるだろう。
アルティメットまどかと同じく他のキャラを悪魔化させたif設定もしくは衣装交換イラストも多数投稿されている(タグ:悪魔まどか、悪魔マミ、悪魔さやか、悪魔杏子他)
関連イラスト
関連タグ
魔法少女まどか☆マギカ 叛逆の物語 劇場版魔法少女まどか☆マギカ
魔なる者 ほむら様 デビルほむら Homucifer デビほむ ダークオーブ Homulilly 偽街の子供達
黒ワンピースほむら 喪服ほむら 黒衣ほむら ゴスほむ ベールほむら アミダほむ
リボンほむら 黒翼ほむら まどほむ ほむまど アル悪 悪アル
歪んだ愛情 愛 ヤンデレ 悪堕ち/闇堕ち 悪魔化 悪魔 彼岸花 まだダメよ ダークヒロイン ダークヒーロー 黒翼
悪魔ほむらちゃん:マギアレコードの漫画マギア☆レポートの登場キャラ。後にゲームにも実装。
変態ほむらさん←悪魔ほむらが、暁美ほむらの変態化と言えるか、どうかは、個人の判断に委ねられる。
劇場版限定フォーム←ただし、深淵に沈んだもう一人の主人公としてだが
共通点のあるキャラクターなど
ユウリ様(杏里あいり):かずみ☆マギカのヤンデレ魔法少女(その1)。こちらも愛故に大変なことになった。
若葉みらい:かずみ☆マギカのヤンデレ魔法少女(その2)。魔女化はしていないが、サキへの思い故に…。
浅海サキ:こちらもかずみ☆マギカから。「かずみを取り戻すまで何度でも繰り返す」というほむらに似たセリフと覚悟を決める。物語終盤で魔女となるが、かずみへの姉妹愛を貫いて自害しグリーフシードを遺した。
ヴィキ(V.I.K.I) 2004年に公開されたアメリカ映画アイ・ロボットに登場。
ロボットが人間を守るために設定されているロボット3原則を歪んで解釈してしまい、
人類を助けるために、ロボットを侵略させる。そして人間を管理・支配することで人類を守ろうとする。
サタン/ルシファー:ユダヤ教やキリスト教に登場する堕天使。神に最も愛された存在ながら、自ら悪魔を名乗り神に叛逆した。
飛鳥了/大魔神サタン:デビルマン(漫画版)のキャラクターで、デビルマンにおける上記のサタンそのもの。まどか☆マギカ自体、デビルマンの影響を強く受けているほか、「時間操作の能力を持っている」「味方かと思ったら敵」「自分の正体を知って絶望する」などが共通する。
呉島光実(黒ミッチ):脚本家&闇堕ち繋がり。だがこちらは「他者を躊躇なく見くだす」「後に全てを失い絶望に陥る」「最終話で主人公と共闘、改心する」という相違点がある。
桐生戦兎:新世界を創造した人物繋がり。ほむらが「最高の友達の力を奪って地球外生命体を蹂躙し、新世界を創造した」のに対して、戦兎は「ベストマッチな相棒の力を借りて地球外生命体を滅ぼし、新世界を創造した」という相違点がある。
ブラックパール:特にラスピリ版よりマジョカ†マジョルナで類似点が多い。大切な人を守る為故に手段を選ばない点や時間干渉能力、そして最終的には自分にとって都合がいい世界を手に入れた等類似点が多い。
悪魔のZ:悪魔(反逆者)繋がり。最高速度300km/h以上という常軌を逸した戦闘力を持つクルマでありながら、「狂おしく身をよじるように」走り、主人公の手に渡るまでに何度もオーナーを事故に追い込んできたことから呪われた車、「悪魔のZ」として語り継がれてきた。一方で一部の登場人物からは、「悪魔=堕ちた天使」というイメージから、「チューニングという反逆的な行為によって、当時誰も成し得なかった圧倒的な力を得たクルマ」という意味でも解釈されている。
間桐桜...同じく主人公を溺愛するダークヒロイン繋がり。
るう・プリンセスクレール... 同じく悪の変身ヒロインかつ想い人を溺愛するダークヒロイン繋がりと、変身後の衣装が同じく黒鳥or黒羽根をモチーフにしたもので似ていることから。
タジャドルコンボエタニティ...TV本編終了後の映画から出てきた主人公の力を借りた人物の形態。