概要
坂井 宏行(さかい ひろゆき)とは日本のフランス料理のシェフ・実業家。
東京都港区南青山にあるフランス料理店「ラ・ロシェル」オーナーシェフ兼運営会社の株式会社「サカイ食品」代表取締役社長。
後述する料理番組『料理の鉄人』に二代目「フレンチの鉄人」として出演していた事や、フランス料理に懐石料理の手法を取り入れた事でも知られる。
通称ムッシュ。
来歴
第二次世界大戦真っ只中の1942年(昭和17年)4月2日に日本統治時代の朝鮮半島で生まれる。
3歳の頃に父が戦死し、そのまま終戦を迎えた為母の故郷である現在の鹿児島県出水市に引き揚げ。以後少年時代を同地で過ごす。
17歳の頃にフランス料理の道を歩み始め、「ホテル新大阪」で修行を開始。以後オーストラリアでの武者修行を経て各地でシェフを務め、1980年(昭和55年)に南青山に自身の店「ラ・ロシェル」をオープンした。
1994年(平成6年)2月からフジテレビ系のテレビ番組『料理の鉄人』に二代目フレンチの鉄人として出演を開始。和の道場六三郎、中華の陳建一と共に三鉄人として絶大な人気を誇り、番組も最盛期を迎えた。
番組終了後も人気シェフとしてメディアに出演し続け、2021年(令和3年)には79歳でYouTubeチャンネルを開設した。
料理の鉄人
初代フレンチの鉄人石鍋裕が多忙の為短期間の出演を条件に番組に出演していた為、後任として坂井が指名された。
当初は前任の石鍋の出演期間が短かった為坂井が初代と誤解される事もあったが、石鍋が特別番組等で「名誉鉄人」として出演し坂井と共演する事で誤解は次第に解消されていった。
通算成績は87戦中70勝16敗1分。8連勝を3回達成した事もあり、全鉄人中で最多勝利を収めている。
道場・坂井・陳が出演していた時代に番組は視聴率を伸ばし、また番組開始当初は出演を拒んでいた同業者の中からも「出演してみたい」という声が上がるほど人気は鰻登りだった。
当時はバブル崩壊直後の為坂井の「ラ・ロシェル」の経営も芳しくなく、廃業を考えていた程だった。しかし「鉄人」に出演して人気を博すと来店客が大幅に増加。結果的に店舗拡大等経営面でも大きな影響を与える事となった。
魚介類がテーマに来ると滅法強く、フィッシュ坂井の異名もあった。しかしフランス料理の定番食材であるオマール海老だけは苦手だったようで、3連敗を喫しスタッフからも嫌味を言われて悔しい思いをしたという。
余談
異端児
若い頃に懐石料理を学んでいた為、フランス料理では使用しない鰹節や昆布で出汁を取る事も多い。そもそも坂井はフランスでの修行経験も無い為、「鉄人」出演時代も含めて「異端児」として扱われる事もあった。なお「和」の鉄人道場も伝統的な和食の手法に捉われず新しい技術や他のジャンルの手法を取り入れる事(代表例として、調理過程で電子レンジを使用する)が多々ある為、坂井同様異端児として知られている。
下戸
ワインが供される事も多いフランス料理だが、坂井自身は酒類が一切飲めない。故郷は鹿児島県である為、親戚の集まりでは芋焼酎等が大量に出される為困ったと後年語っている。
但し所謂「お酒のお供」は好きで、道場のYouTubeチャンネルにゲスト出演した際、市販のイカの塩辛をミキシングし焼き石の上に乗せて焼いた料理を喜んで食べていた。その時には「酒飲めないけどこういうの好きなんだよなあ。」と感想を述べている。なお道場の対戦相手として出演していた陳建太郎(建一の長男)も同じく下戸だが道場の料理を気に入ったようで、「白いご飯が欲しいなあ」と感想を述べていた。
三鉄人
道場・坂井・陳は鉄人出演時代から非常に仲が良く、番組終了後も表舞台での共演や陳の趣味だったゴルフを陳の晩年まで共にプレーしていた。
特に陳とは兄弟同然の間柄であり、陳が成績が振るわず番組降板の相談を坂井に持ち掛けた際には「辞める時は自分も一緒に辞めるから、もう少し頑張ろう。」と励ましたという。結果的に陳は番組の最初から終了まで出演し続けた唯一の鉄人となった。
また建太郎によると、坂井は毎年陳と共に中国・四川省への合宿に同行し、研究やゴルフを行っていたという。建太郎曰く「ムッシュはフランス料理界で一番四川料理を食べている。」とのこと。
それ故に陳の訃報を聞いてコメントを求められた際は、覇気が無く落胆の色を隠せないでいた。
なお、建太郎が料理の道を歩み出したきっかけは「鉄人」最末期に父・建一と坂井が対戦したのをスタジオ観戦し、両者のプロとしての姿に感銘を受けた為。道場のYouTubeチャンネル内で「メガネを首から下げる姿が格好良かった」「(坂井が得意としたリンゴの皮剥きを見て)一芸があるのは羨ましい」と道場と共に語った。これに対して坂井は「レーシックしたから今は(眼鏡を)かけていない」「(リンゴ皮剥きの早業は)もうできない」と照れながら返答した。