- 実在のドイツ帝国の宰相についてはオットー・フォン・ビスマルクへ
- ドイツ海軍の戦艦。本項で解説。名前の由来は上記のオットー・フォン・ビスマルクから
- 上記の戦艦をモチーフとした、『艦隊これくしょん』の登場キャラクター(艦娘)の一人→ビスマルク(艦隊これくしょん)
- 上記の戦艦をモチーフとした、『蒼き鋼のアルペジオ』の登場キャラクター(メンタルモデル)の一人→ビスマルク(蒼き鋼のアルペジオ)
- 上記の戦艦をモチーフとした、『戦艦少女』の登場キャラクター俾斯麦。創作関連の項目で解説。
- アニメ『コードギアス反逆のルルーシュ』の登場人物についてはビスマルク・ヴァルトシュタインへ
- 『ファイナルファンタジー』シリーズに登場する、魚(または鯨)の姿をした召喚獣
- アニメ『星銃士ビスマルク』の主役メカである変形巨大ロボットの名称
- ドイツ海軍のビスマルク級コルベットの一番艦。
- ドイツのハンブルグ・アメリカ・ライン社で建造中だった客船。後の英国のホワイト・スター・ライン社のマジェスティック、英海軍の練習艦カレドニア。
- Jリーグ黎明期に活躍した、外国人サッカー選手
- パプアニューギニアの地名。ビスマルク海とビスマルク諸島。ビスマルク海海戦(ダンピールの悲劇)が起きた。またビスマルク山脈もある。
概要
ビスマルクとは第二次世界大戦中にドイツ海軍が運用した戦艦(超ド級戦艦)の一つ、ドイツ最後の戦艦となったビスマルク級のネームシップである。姉妹艦にティルピッツがある。
前史
ヴェルサイユ条約締結後、ドイツはダンツィヒ回廊をポーランド領とされたためにオストプロイセン州が飛び地となっていた。仮想敵国に囲まれた飛び地の防衛という無理ゲーを迫られたドイツは、オストプロイセンへの海上輸送路の保護と、もう一つの仮想敵国フランスの戦艦がバルト海へと侵入するのを阻止することを主任務として海軍の再建を開始した。
1933年にはヴェルサイユ条約の制限内で装甲艦ドイッチュラントを建造するも、これに対抗してフランスはダンケルク級戦艦を建造、ドイツ海軍は更に強力な戦艦の建造を求められた。ドイッチュラント級に続く装甲艦として計画中であった装甲艦D、Eについて、ヴェルサイユ条約の破棄を見越した大型艦とすることが検討された。
1935年にヴェルサイユ条約が破棄されて英独海軍協定が締結されると、ドイツ海軍は戦艦の建造を認められ、装甲艦D、Eは巡洋戦艦シャルンホルスト、グナイゼナウとなった。両艦はダンケルク級にも十分対抗可能な能力を持っていたが、ドイツ海軍は更に万全を期すためにワシントン海軍軍縮条約の規定上限ギリギリの3万5000t級の戦艦Fを、ダンケルク級を確実に撃破できる艦として研究をはじめた。
計画と建造
当初の計画では基準排水量3万5000t、主砲33cm8門、副砲15cm12門、最大装甲厚350mm、最大速力33knを要求されていたが、イタリアがリットリオ級戦艦を建造したことに対抗して、フランスが3万5000t級戦艦リシュリュー級戦艦を建造、ドイツもこれに対抗するという絵に描いたような建艦競争が発生した。ドイツ海軍はリシュリュー級に対抗するために戦艦Fの主砲を35cm8門とすることを決定し、それに伴う重量増加のため、他の要求値を装甲厚320mm、速力28knまで抑えたが、それでも排水量は3万9000t〜4万tと見積もられた。これは当然ワシントン条約の規定を超過するものであり、公称は『3万5000t』のまま研究が進められた。
だがリシュリュー級の主砲が38cm、あるいは40.6cm砲となることが報じられると、戦艦Fも38cm砲を搭載すべきではないかとの意見が出るようになった。38cm砲を搭載した場合、基準排水量4万2500t、最大喫水は9.40mに達すると見積もられた。ここで問題となったのがキール運河の存在である。キール運河はドイツ北部のシュレスヴィヒ=ホルシュタイン州を横断してバルト海と北海を結ぶ運河であり、バルト海と北海を主戦場として想定している戦艦Fにとってキール運河を通航可能であることは必須条件であった。38cm砲搭載案の最大喫水9.40mは水深11mのキール運河を通航するには十分に危険な数字であった。これに対して35cm砲搭載案は基準排水量4万1000t、最大喫水9.25mであり、運河の通航に問題はないとされた。この報告を受けてドイツ海軍総司令官アルベルト・レーダー提督は戦艦Fを35cm砲搭載艦とすることを決定した。
しかし、僅か一ヵ月後、第二次ロンドン海軍軍縮条約の予備交渉が始まると、海軍内部から再び38cm砲を求める声が上がり、兵器局からも「六ヶ月あれば38cm砲への変更も可能」と報告が上がった事もあり、レーダー提督は38cm砲の選定に合意した。しかし、38cm砲搭載でキール運河を通航するためには500tもの重量削減が必要であり、その設計は困難を極めた。
さらには機関の選定も難航していた。機関は高圧高温蒸気タービンとターボ電気推進の二案が検討されており、より軽量な高圧タービンの選定が望ましいとされていたが、主砲の変更により予定外の巨艦となったこの艦を、要求値28knで航行させられる高圧タービンの実用化は疑問が持たれていた。よってターボ電気推進が推されていたが、この機関は重量が大きく、最大の問題であった重量削減に逆行するものであった。ターボ電気推進の良好な燃費を利用し、航続距離をそのままに燃料搭載量を削減することで重量増加をある程度相殺できると考えられたが、増加分を回収するには至らず、重量増加のツケは最大の重量物である装甲へ押し付けられた。
1935年8月にレーダー提督に提出された案は、装甲を二番砲塔から三番砲塔の間に限定するというものであり、一番、四番砲塔の基部はバイタルパート(弾薬庫など艦の最重要部分)であるにも関わらず、ほとんど無防備であった。流石に艦の弱点を無防備にする案は許容できるものではなく、11月には装甲を全体的に薄くし、一番、四番砲塔まで延長する案が最終案として決定した。
しかし翌36年6月、必要な出力を持つ高圧タービンの実用化に目処がついたため、機関を変更して再び設計し直されることとなった。機関変更により艦重量は大きく軽減され、浮いた重量で装甲は再び320mmに戻され、今度こそ戦艦Fの設計は完了した。
同年7月1日、戦艦Fはハンブルグのブローム・ウント・フォス造船所にて起工され、約2年8ヶ月の建造期間を経て1939年2月14日、戦艦Fは進水してビスマルクと命名された。また同年4月1日にはヴィルヘルムスハーフェン工廠にて姉妹艦の戦艦Gが進水し、ティルピッツと命名されている。その後ビスマルクは艤装工事中に第二次世界大戦が開戦するも、艦首の形状変更含めて工事は滞りなく進み、進水から18ヶ月後の1940年8月24日に竣工した。
高圧タービンについて
ビスマルク級に使用された高圧タービンは55気圧のもので、ビスマルク級をさらに上回るサイズの大和型の28気圧の2倍近い。当時この圧力ボイラーとタービンは日本には製造できなかった。参考にアイオワ級は40気圧程度の高圧缶を使用している。アメリカやイギリスは商船などではすでに高圧缶の採用が見られた。にもかかわらずなぜ軍艦で採用しなかったのかというと万一缶室に破壊が及んだときに蒸気圧そのもので被害が大きくなることを懸念したのである。日本も同様で大和型、翔鶴型の16万hpという出力はその容積から見れば決して世界的に低い数字ではない。
要するにビスマルク級の高圧缶採用はドイツ流の技術至上主義とヴェルサイユ体制中の海軍技術力の低下が生み出した結果だった。
戦歴
1940年8月に就役したビスマルクは、その後バルト海にて公試と乗員の習熟訓練を行い、翌41年3月には実戦出撃が可能となった。しかし、既にポーランド、フランス共にドイツの勢力下にあり、さらにソ連とも不可侵条約を結んだことにより、バルト海においてドイツの制海権を脅かすものは無くなっていた。一方で英海軍は未だ健在であり、圧倒的優勢な英艦隊との決戦はドイツ艦隊には不可能であった。
結果、ドイツ海軍における大型水上艦艇の任務は大きく限られたものとなり、その必要性には疑問が持たれ始めた。ドイツ首脳部は不要不急の大型艦建造の休止を決定し、対英戦終結まで延期することを決定した。このとき建造を休止された艦に、ドイツ唯一の航空母艦グラーフ・ツェッペリンがある。
しかし、対英戦が長期化してくると、大型水上艦を用いた通商破壊作戦が一定の戦果をあげるようになり、大型水上艦は再び見直されるようになっていた。
一方でイギリスも、この通商破壊に対処するため、輸送船団の護衛に戦艦を投入した。これによってドイツ艦隊は英輸送船団への襲撃が困難となったが、船団護衛のために分散された英戦艦を、強力な砲力を持つビスマルク、ティルピッツで各個撃破できる好機とも言えた。
かくして通商破壊作戦『ライン演習作戦』が計画され、戦艦ビスマルク、巡洋戦艦シャルンホルスト、グナイゼナウ、重巡プリンツ・オイゲンを擁する強力な通商破壊艦隊の編成が予定された。
しかし、シャルンホルストが機関故障で、グナイゼナウが空襲による損害で作戦への参加が不可能となると、艦隊戦力は作戦開始前から半減、艦隊司令長官ギュンター・リュッチェンス大将はグナイゼナウの修理完了かティルピッツの習熟完了まで作戦を延期すべきとの提言を行うが、時間は敵に利すると考えたレーダー提督はビスマルクとプリンツ・オイゲン2隻のみによる作戦の決行を命じた。
1941年5月19日、『ライン演習作戦』発動に伴いゴーテンハーフェン港を出港したが、この出港に際してある事件が発生した。ドイツ海軍では、大規模な出撃を行う際に民謡「ムシデン」を演奏するという伝統があったが、出港に際して見送りに駆け付けた軍楽隊がその「ムシデン」を演奏してしまったのだ。これでは出撃意図がバレバレである。直ちに選曲者に対して尋問が行われたが、ただの選曲者がライン演習作戦の実態を知っているはずもなく、選曲は偶然であった。
偶然とはいえ出撃意図は諜報員によってイギリスに漏れてしまい、イギリス側に初動の準備を整えさせる結果となった。
デンマーク海峡海戦
僚艦プリンツ・オイゲンと合流すると、カテガット海峡、スカゲラク海峡を通過して北海へ進出、一度燃料補給のためノルウェーのベルゲンフィヨルドに立ち寄り、21日にベルゲンを出撃し、22日には最後まで付き添った護衛の駆逐艦三隻と別れ、ノルウェー海をさらに北上、一路デンマーク海峡を目指した。
一方イギリス海軍も、ついに動き出したドイツの新鋭戦艦に神経を尖らせた。
20日にはカテガット海峡にてビスマルクと遭遇した中立国スウェーデン海軍の巡洋艦ゴトランドからの報告が寄せられ、21日にはベルゲンに停泊中の姿もスピットファイア偵察機により写真撮影されていた。
イギリス海軍はビスマルクが大西洋に進出することを警戒し、戦艦3隻、巡洋戦艦3隻、空母2隻からなる迎撃部隊を展開してこれを阻止する構えを見せた。
これとは対照的にドイツ側はスカパ・フローを偵察したドイツ空軍は商船を改装したダミー戦艦に引っかかりイギリス本国艦隊が既に出撃していることに気付かなかった。
23日1922時、イギリス海軍のフレデリック・ウェイク=ウォーカー少将率いる重巡ノーフォーク、サフォークのうちまずサフォークがビスマルク戦隊を補足し追尾を開始。その後、ウォーカー提督の旗艦ノーフォークもこれに加わった。その二隻の内一隻がビスマルクの真正面に飛び出すというミスを犯し主砲の斉射を受けるが、命中弾は無く重巡は逃走、主砲射程圏外からビスマルク戦隊の追尾を開始した。ビスマルク発見の報を受けたイギリス海軍巡洋戦艦戦隊司令長官ランスロット・ホランド中将は、麾下の戦艦プリンス・オブ・ウェールズ(以下PoW)と巡洋戦艦フッドを駆逐艦六隻の護衛のもと急行させるも、一時的にウォーカーの巡洋戦隊がビスマルクを見失った事や濃霧のために発見が遅れ、両戦隊は互いに気づかないまま併走する形となった。
0545時、同航砲撃戦が開始された。
ウォーカーの戦隊がビスマルクを一時見失った折に、ホランドは索敵の為に駆逐艦を分派していたものの戦力的にはイギリス側が上回っていたが、PoWは完成したばかりで造船所の工員が未だに乗った状態であった。
イギリス側は彼我の距離を短時間で縮めようとドイツ側に対して比較的直角に近い進路で接近を行った。これはホランド提督が砲術家であり、上空から垂直に近い角度で砲弾が落下してくる遠距離砲戦をビスマルクと行うには旗艦であるフッドの水平装甲の厚さでは力不足と判断した為と言われるが、これによりドイツ側は全主砲を使用できるのに対して、角度の関係で英側は主砲は前部のものしか使用できないうえに位置は風下で波飛沫により砲塔測距儀レンズを盛大に濡らし、射撃は更に制限を受ける結果となった。
イギリス本国艦隊の主力艦が既に展開している事を知らないドイツ側は対峙した艦隊を巡洋艦か駆逐艦と誤認してプリンツ・オイゲンでは榴弾の装填が命じられており、リュッチェンス提督も昼間戦闘では戦艦に対して脆弱な重巡洋艦であるプリンツ・オイゲンを後方に下げようとはせず、それどころか時間のロス等を恐れて格下相手との不要な戦闘を躊躇していた。対するイギリス側もフッドは先行するプリンツ・オイゲンをビスマルクと誤認したために両軍とも初動が遅れた。誤りに気付いたのはドイツ海軍が先で、最初の斉射で発砲炎の巨大さから対峙した艦隊が戦艦であると気づいた。イギリス海軍が誤りに気づいたのは数射の応報の後であり、この遅れが海戦の趨勢を決することとなった。プリンツ・オイゲンは第二射にして早くも旗艦であるフッドを捉え、フッドに火災を引き起こした。充分に距離を縮めたと判断したのか、それとも撃ち負けていると判断した為か、ホランド提督は艦隊に左舷に転舵を命じ、これで英艦隊が全主砲をドイツ側に対して使用可能になれる回頭中の矢先、フッドにビスマルクの第五射が直撃、弾薬庫が誘爆し、船体が真っ二つに折れて轟沈、僅か3分のうちに船体は海中に全没し、ホランド提督をはじめとする1416名の乗組員とともにデンマーク海峡の海底へと姿を消した。生存者は僅か3名であった。
先行するフッドが轟沈し、これに追従していたPoWはフッドの残骸に突入する形になっていたため、PoWの艦長であるジョン・リーチ大佐は残骸の緊急回避を命じた。この急激な転舵は射撃の照準の狂わせ、逆にドイツ艦隊からの射撃を集中される位置に艦を進出させた。PoWは第八射でやっとビスマルクを捉えるも、集中砲火の中で既に7発の命中弾を受けており、さらに上部構造物に命中弾を受け、艦長と信号長をのぞく艦橋要員の大半が死傷するという大打撃を受けた。被弾による艦砲の不具合も深刻なものとなり、限界と判断したリーチ艦長は煙幕展張と離脱を命じた。
この時点でPoWは既に死に体であり、追撃を行えば確実に撃沈できることは明らかであった。ビスマルク艦長エルンスト・リンデマン大佐はリュッチェンス提督に追撃の許可を強く求めたが、彼はPoWを英本国艦隊旗艦キング・ジョージ5世と誤認しており、レーダー提督の「損害を拡大し、またイギリス海軍の待ちかまえる手の中にビスマルクを差し向けることになるような不必要な戦闘は避けるべし」という命令を優先し、追撃の許可を与えず、戦闘を打ち切った。
こうしてビスマルクはその初陣を一方的な勝利で飾った。
ビスマルク追撃戦
デンマーク海峡を突破し、ついに大西洋へと進出したビスマルクの艦内では、初勝利、それも仇敵イギリス海軍に土をつけた大勝利に沸きあがっていた。しかし、ビスマルクも決して無傷ではなかった。ビスマルクは3発の命中弾を受け、内1発は艦首燃料タンクに浸水被害をもたらし、同タンク内1000tの重油が使用不可となっていた。また依然として、損傷したPoWも指揮下に加えたウォーカー提督の巡洋艦戦隊のレーダーによる追尾を振り切ることも出来ず、このため予定されていた通商破壊作戦の実施は不可能となり、リュッチェンス提督は24日1800時にプリンツ・オイゲンを通商破壊にあてる為に分派させると、ビスマルクにはフランスのサン・ナゼール港へと向かうことを指示した。
一方でイギリス海軍も、ほとんど無防備の本国向け船団11個が航行する大西洋にドイツ戦艦が展開することは何としても防がなければならず、イギリス本国艦隊司令長官ジョン・トーヴィー大将の座乗する戦艦キング・ジョージ5世(以下KGV)、ロドネイ、巡洋戦艦レパルス、空母ヴィクトリアスを追撃に向かわせた。
24日2200時、ヴィクトリアスはビスマルク足止めのため複葉機のソードフィッシュ攻撃隊を発進させた。(当たり前ではあるがこの時すでに複葉機は時代遅れになりつつあり、各国共に更に高性能な単葉機へと移行していた。また、この複葉機は全金属製ではなく翼は全て布張りというある意味英国面丸出しの飛行機であった。だがそれ故にあまりの低速でもっと高速の飛行機を予想していた対空砲火の弾幕が外れたり、布張りの翼では弾丸は貫通するだけで効果が無く、究極にはエンジンかパイロットに当てねば墜ちないなどという事態が発生して恐るべき雷撃機となったのは皮肉である)この攻撃隊による雷撃でビスマルクは1発の魚雷を受け、また回避運動のために艦首とボイラー一基を損傷、速力は16knに落ち込んだ。
翌25日0300時、ビスマルクは追跡を続けていた英重巡を振り切るために連続して旋回、作戦は成功し、イギリス海軍はビスマルクを見失った。
しかし、リュッチェンスはそれに気づかず(既に送信した艦に戻るだけの力は無いにも関わらず、逆探でレーダー波を探知していた事から未だに敵巡洋艦からの接触を受けていると誤解したと言われる)長文の戦況報告を打電した為に、それを受信した英海軍は再びビスマルクの位置を特定する事が出来た筈であった。
だが、ここでビスマルクに再びチャンスが訪れる。
ミスによりその座標は実際より北側とされ、ビスマルクが反転してノルウェー・ドイツに帰港しつつあると判断した英艦隊はそのミスに気づくまでに見当違いの方向に7時間あまり進む事となった。
翌26日1030時にイギリス海軍の哨戒機であるカタリナ飛行艇が再びビスマルクを発見したとき、ビスマルクは既に追撃艦隊から240km南東を航行していた。ここで燃料不足により追撃艦隊からレパルス、ヴィクトリアスが落伍、KGVとロドネイの2艦のみが追撃を続けたが、ビスマルクは16knの鈍足といえど、ドイツ空軍のエアカバー圏内に逃げ込む前に捕捉することはほぼ不可能であった。しかし、ビスマルクの前方にはジブラルタルから出撃したジェームズ・サマヴィル中将率いる旗艦巡洋戦艦レナウン、空母アーク・ロイヤルを主力とするH部隊が迫っていた。この部隊は当初、主戦場から遠く離れていたために、予備的な意味合いの部隊であったが、ここに至って期待を集めることとなった。
1440時にアーク・ロイヤルを第一次攻撃隊が発進したが、この攻撃隊は先行してビスマルクを追跡していたH部隊の軽巡シェフィールドを同艦と誤認して攻撃してしまう。1910時、第二次攻撃隊が出撃し、2053時にビスマルクを攻撃、2本の魚雷が命中し、内1本が右舷後部に命中、衝撃で中央のスクリューが跳ね上がって操舵装置を破壊、舵が取舵12度で固定されてしまう。(ちなみにこの時雷撃を担当した第一次攻撃隊も第二次攻撃隊も先述のソードフィッシュのみで構成された部隊であった。)このラッキーヒットによってビスマルクの最大速力は7knに満たないまでに落ち込み、追撃艦隊を振り切ることは最早不可能となった。
その夜中から明け方までビスマルクはフィリップ・ヴィアン大佐率いる英第四駆逐隊の接触と雷撃を受け、双方共に被害は無かったものの、ビスマルクの乗員を疲労させる事に英側は成功した。
27日0847時、到着したKGV、ロドネイ、重巡ノーフォーク、がビスマルクに接近し、右舷前方から砲撃を開始した。速度は出ず、転舵もできないビスマルクには最早勝ち目は無かったが、ビスマルクは果敢に応戦した。0859時、ロドネイの砲弾が始めてビスマルクに着弾してA、B砲塔が旋回不能となる、直後射撃指揮所をノーフォークの8インチ砲弾が直撃、生き残った砲塔も組織的な射撃が不可能となった。その後集中砲火を浴びたビスマルクでは大火災が発生、火薬庫にも火の手が迫り、誘爆防止のために火薬庫への注水措置がとられ、射撃は不可能となった。射撃不可能となったビスマルクを撃沈すべくイギリス艦隊は一気に3000mにまで距離を詰め(※日本海軍が駆逐艦の理想的交戦距離としたのが5000m)、水線上へロドネイの40.6センチ砲含む集中砲火を浴びせた。しかしビスマルクの旧態依然とした垂直装甲は至近距離からの砲撃に対して存分に威力を発揮、砲撃により撃沈に至らしめることはできなかった。1000時、ビスマルク副長ハンス・エールス中佐が自沈を命じたため、右舷と中央のキングストン弁が抜かれ、自沈用爆薬が設置された。1015時、イギリス艦隊司令トーヴィー提督は射撃停止を命令、ビスマルクでは総員退艦が命じられた。そのドーセットシャーから3本の魚雷が発射され、ほぼ同時にビスマルクで自沈用爆薬の起爆操作が行われた。その後20分ほど漂流した後、1040時に沈没した。
トーヴィー提督は艦隊を撤収したが、重巡ドーセットシャーと駆逐艦マオリをビスマルク乗員の救助のために残した。両艦は重油の漂う海から多くの生存者を救出したが、Uボートと思われるスクリュー音を探知し(後に誤認であったことが判明した。)、救助を断念して退避した。乗員2206名のうち、救助された生存者は115名と猫一匹であった。
沈没理由についてドイツ側は自沈としているが、イギリス側は砲雷撃による撃沈を主張している。
救助された猫“オスカー”
これについてはゴシップの類だという説もある。
1989年に再発見される。
艦長
ビスマルクと運命を共にした。その最期は艦首旗竿付近にて海に漂う乗組員達に敬礼する姿であったと言われる。
最後の姿を目撃した生き残りの乗組員は「ああいう死に方は小説の中の絵空事だと思っていた」と話した。
なおヨーロッパのほとんどの言語と同じくドイツ語では船舶艦艇は普通は女性名詞で呼ばれ、当然ビスマルクも女性名詞でDie Bismarckと呼称されているがリンデマンはこれを嫌い、部下に男性名詞でDer Bismarckと呼ばせていたという逸話がある。
創作関連
『艦隊これくしょん』の2014/03/14アップデートにて、戦艦ビスマルクが実装された。
→ビスマルク(艦隊これくしょん)を参照
- 1960年の映画『ビスマルク号を撃沈せよ!』
基本ミニチュアだが、アップのシーンではイギリス海軍の戦艦ヴァンガードがビスマルクとして使用された。
- BattleshipGirl_鋼鉄少女のビスマルク
- 蒼き鋼のアルペジオのビスマルク
緋色の艦隊所属のメンタルモデルビスマルク(蒼き鋼のアルペジオ)。アドミラリティ・コード消失の目撃者。
- 戦艦少女のビスマルク
ドイツの科学力の結晶。波斯猫(ペルシャ猫の意味)のあだ名が付いている。
俾斯麦のタグが付けられている。こちらの中国語記事(外部リンク)も参照。
私はドイツの科学の結晶、ビスマルク。肝に銘じてください。