曖昧さ回避
- 実在のドイツ帝国の宰相→オットー・フォン・ビスマルクへ
- ドイツ海軍の戦艦。名前の由来はドイツ帝国の宰相、オットー・フォン・ビスマルクから
- 台湾の漫画「BattleshipGirl_鋼鉄少女」に登場する戦艦ビスマルクをモチーフとしたキャラクター。
- 戦艦ビスマルクをモチーフとした、『蒼き鋼のアルペジオ』の登場キャラクター(メンタルモデル)の一人→ビスマルク(蒼き鋼のアルペジオ)
- 戦艦ビスマルクをモチーフとした、『艦隊これくしょん』の登場キャラクター(艦娘)の一人→ビスマルク(艦隊これくしょん)
- 戦艦ビスマルクをモチーフとした、『戦艦少女』の登場キャラクター俾斯麦
- 戦艦ビスマルクをモチーフとした、『アズールレーン』の登場キャラクター(KAN-SEN)の一人→ビスマルク(アズールレーン)
- アニメ『コードギアス反逆のルルーシュ』の登場人物。→ビスマルク・ヴァルトシュタインへ
- 『ファイナルファンタジー』シリーズに登場する、魚(または鯨)の姿をした召喚獣
- アニメ『星銃士ビスマルク』の主役メカである変形巨大ロボットの名称
- ドイツ海軍のビスマルク級コルベットの一番艦。
- ドイツのハンブルグ・アメリカ・ライン社で建造中だった客船。後の英国のホワイト・スター・ライン社のマジェスティック、英海軍の練習艦カレドニア。
- Jリーグ初期に、読売ヴェルディ・鹿島アントラーズ等で活躍した外国人サッカー選手。→ビスマルク・バレット・ファリア
- パプアニューギニアの地名。ビスマルク海とビスマルク諸島。ビスマルク海海戦(ダンピールの悲劇)が起きた。またビスマルク山脈もある。
戦艦「ビスマルク」
第二次世界大戦中にドイツ海軍が運用した戦艦(超ド級戦艦)で、ドイツ最後の戦艦となったビスマルク級のネームシップである。
姉妹艦にティルピッツがある。
前史
ヴェルサイユ条約締結後、ドイツはダンツィヒ回廊をポーランド領とされたためにオストプロイセン州が飛び地となっていた。仮想敵国に囲まれた飛び地の防衛という無理ゲーを迫られたドイツは、オストプロイセンへの海上輸送路の保護と、もう一つの仮想敵国フランスの戦艦がバルト海へと侵入するのを阻止することを主任務として海軍の再建を開始した。
1933年にはヴェルサイユ条約の制限内で装甲艦(ポケット戦艦)ドイッチュラントを建造するも、これに対抗してフランスはダンケルク級戦艦を建造、ドイツ海軍は更に強力な戦艦の建造を求められた。ドイッチュラント級に続く装甲艦として計画中であった装甲艦「D」、「E」について、ヴェルサイユ条約の破棄を見越した大型艦とすることが検討された。
1935年にヴェルサイユ条約が破棄されて英独海軍協定が締結されると、ドイツ海軍は戦艦の建造を認められ、装甲艦「D」、「E」は巡洋戦艦シャルンホルスト、グナイゼナウとなった。両艦はダンケルク級が相手では不安があったため、ワシントン海軍軍縮条約の規定上限ギリギリの3万5,000t級の戦艦「F」が計画された。
計画と建造
当初の計画では基準排水量3万5,000t、主砲33cm8門、副砲15cm12門、最大装甲厚350mm、最大速力33knを要求されていたが、イタリアがリットリオ級戦艦を建造したことに対抗して、フランスが3万5,000t級戦艦リシュリュー級戦艦を建造、ドイツもこれに対抗するという、絵に描いたような建艦競争が発生した。ドイツ海軍はリシュリュー級に対抗するために戦艦Fの主砲を35cm8門とすることを決定し、それに伴う重量増加のため、他の要求値を装甲厚320mm、速力28knまで抑えたが、それでも排水量は3万9,000t〜4万tと見積もられた。これは当然ワシントン条約の規定を超過するものであり、公称は『3万5,000t』のまま研究が進められた。
だがリシュリュー級の主砲が38cm、あるいは40.6cm砲となることが報じられると、戦艦Fも38cm砲を搭載すべきではないかとの意見が出るようになった。38cm砲を搭載した場合、基準排水量4万2,500t、最大喫水は9.40mに達すると見積もられた。ここで問題となったのがキール運河の存在である。キール運河はドイツ北部のシュレスヴィヒ=ホルシュタイン州を横断してバルト海と北海を結ぶ運河であり、バルト海と北海を主戦場として想定している戦艦「F」にとってキール運河を通航可能であることは必須条件であった。38cm砲搭載案の最大喫水9.40mは水深11mのキール運河を通航するには十分に危険な数字であった。これに対して35cm砲搭載案は基準排水量4万1,000t、最大喫水9.25mであり、運河の通航に問題はないとされた。この報告を受けてドイツ海軍総司令官エーリヒ・レーダー提督は戦艦「F」を35cm砲搭載艦とすることを決定した。
しかし、僅か一ヵ月後、第二次ロンドン海軍軍縮条約の予備交渉が始まると、海軍内部から再び38cm砲を求める声が上がり、兵器局からも「六ヶ月あれば38cm砲への変更も可能」と報告が上がった事もあり、レーダー提督は38cm砲の選定に合意した。しかし、38cm砲搭載でキール運河を通航するためには500tもの重量削減が必要であり、その設計は困難を極めた。
さらには機関の選定も難航していた。機関は高圧高温蒸気タービンとターボ電気推進の二案が検討されており、より軽量な高圧タービンの選定が望ましいとされていたが、主砲の変更により予定外の巨艦となったこの艦を、要求値28knで航行させられる高圧タービンの実用化は疑問が持たれていた。よってターボ電気推進が推されていたが、この機関は重量が大きく、最大の問題であった重量削減に逆行するものであった。ターボ電気推進の良好な燃費を利用し、航続距離をそのままに燃料搭載量を削減することで重量増加をある程度相殺できると考えられたが、増加分を回収するには至らず、重量増加のツケは最大の重量物である装甲へ押し付けられた。
1935年8月にレーダー提督に提出された案は、装甲をB砲塔からC砲塔の間に限定するというものであり、A砲塔、D砲塔の基部はバイタルパート(弾薬庫など艦の最重要部分)であるにも関わらず、ほとんど無防備であった。流石に艦の弱点を無防備にする案は許容できるものではなく、11月には装甲を全体的に薄くし、A砲塔、D砲塔まで延長する案が最終案として決定した。
しかし翌36年6月、必要な出力を持つ高圧タービンの実用化に目処がついたため、機関を変更して再び設計し直されることとなった。機関変更により艦重量は大きく軽減され、浮いた重量で装甲は再び320mmに戻され、今度こそ戦艦「F」の設計は完了した。
同年7月1日、戦艦「F」はハンブルグのブローム・ウント・フォス造船所にて起工され、約2年8ヶ月の建造期間を経て1939年2月14日、戦艦Fは進水し「ビスマルク」と命名された。また同年4月1日にはヴィルヘルムスハーフェン工廠にて姉妹艦の戦艦「G」が進水し、「ティルピッツ」と命名されている。その後ビスマルクは艤装工事中に第二次世界大戦が開戦するも、艦首の形状変更含めて工事は滞りなく進み、進水から18ヶ月後の1940年8月24日に竣工した。
高圧タービンについて
ビスマルク級は55気圧の高圧タービンを使用し、55気圧の150,170馬力の出力があった。当時これほどの高圧タービンは、日本では製造されなかったが、28気圧の大和型のタービンでも同等の出力があった。
アメリカやイギリスの商船には高圧缶の採用が見られた。軍艦に採用されなかったのは、万一缶室に破壊が及んだ際、高圧蒸気により被害が大きくなる懸念からである。
高圧缶採用は、ヴェルサイユ体制中の海軍技術力の低下が生み出した結果だった。
艦歴
1940年8月に就役したビスマルクは、その後バルト海にて公試と乗員の習熟訓練を行い、翌41年3月には実戦出撃が可能となった。しかし、既にポーランド、フランス共にドイツの勢力下にあり、ソビエト連邦と不可侵条約を結んだことにより、バルト海においてドイツの制海権を脅かすものは無くなっていた。一方でイギリス海軍は未だ健在であり、圧倒的優勢な英水上艦隊との決戦はドイツ水上艦隊には不可能であった。
結果、ドイツ海軍における大型水上艦艇の任務は大きく限られたものとなり、その必要性には疑問が持たれ始めた。ドイツ首脳部は不要不急の大型艦建造の休止を決定し、対英戦終結まで延期することを決定した。このとき建造を休止された艦に、ドイツ唯一の航空母艦、グラーフ・ツェッペリンがある。そして海運国である英国の搦め手とも言うべき通商破壊に適任であるUボートの建造にようやく力を注ぎ始めた。
しかし、対英戦が長期化してくると、大型水上艦を用いた通商破壊作戦が一定の戦果をあげるようになり、船団を護衛する巡洋艦・駆逐艦レベルでは到底防ぎ切れない打撃力を持つ大型水上艦は再び見直されるようになっていた。
一方でイギリスも、この通商破壊に対処するため、輸送船団の護衛に戦艦を投入した。これによってドイツ艦隊は英輸送船団への襲撃が困難となったが、それにより英本国艦隊が戦力を削がれる事でドイツ艦艇の大西洋進出がそれだけ容易になり、また船団護衛のために分散された英戦艦を、強力な砲力を持つビスマルク、ティルピッツで各個撃破できる好機とも言えた。
かくして通商破壊作戦『ライン演習作戦』が計画され、戦艦ビスマルク、巡洋戦艦シャルンホルスト、グナイゼナウ、重巡プリンツ・オイゲンを擁する強力な通商破壊艦隊の編成が予定された。
しかし、シャルンホルストが機関故障、グナイゼナウが空襲による損害で作戦参加不可能で、艦隊戦力は作戦開始前から半減となり、艦隊司令長官ギュンター・リュッチェンス大将はグナイゼナウの修理完了かティルピッツの習熟完了まで作戦を延期すべきとの提言を行うが、レーダー提督はソ連侵攻作戦、クレタ島制圧作戦を控えて英国に打撃を与える事を望み、また作戦延期による時間のロスは敵に利する上に出撃に適さない白夜の時期も迎えてしまうと考え、ビスマルクとプリンツ・オイゲン2隻のみによる作戦の決行を命じた。
そして最新鋭戦艦ビスマルクをドイツの威信と考えるドイツ総統アドルフ・ヒトラーが彼女を危険に晒す事を望んでいなかった事から、ヒトラーの作戦反対を恐れたレーダーはビスマルクの大西洋出撃後にようやくヒトラーに事後報告をしている。
1941年5月19日、『ライン演習作戦』発動に伴いゴーテンハーフェン港を出港したが、この出港に際してある事件が発生した。ドイツ海軍では、大規模な出撃を行う際に民謡「ムシデン」を演奏するという伝統があったが、出港に際して見送りに駆け付けた軍楽隊がその「ムシデン」を演奏してしまったのだ。直ちに選曲者に対して尋問が行われたが、ただの選曲者がライン演習作戦の実態を知っているはずもなく、選曲は偶然であった。
偶然とはいえ、出撃意図は諜報員によってイギリスに漏れ、初動の準備を整えさせる結果となった。
デンマーク海峡海戦
僚艦プリンツ・オイゲンと合流すると、カテガット海峡、スカゲラク海峡を通過して北海へ進出、一度燃料補給のためノルウェーのベルゲンフィヨルドに立ち寄り、21日にベルゲンを出撃し、22日には最後まで付き添った護衛の駆逐艦三隻と別れ、ノルウェー海をさらに北上、アイスランドの北を回って南下、一路グリーンランドとのデンマーク海峡を目指した。
一方イギリス海軍も、ついに動き出したドイツの新鋭戦艦に神経を尖らせた。
20日にはカテガット海峡にてビスマルクと遭遇した中立国スウェーデン海軍の航空巡洋艦ゴトランドからの報告が寄せられ、21日にはベルゲンに停泊中の姿もスピットファイア偵察機により写真撮影されていた。
イギリス海軍はビスマルクが大西洋に進出することを警戒し、戦艦3隻、巡洋戦艦3隻、空母2隻からなる迎撃部隊を展開してこれを阻止する構えを見せた。
これとは対照的にドイツ側はスカパ・フローを偵察したドイツ空軍は商船を改装したダミー戦艦に引っかかりイギリス本国艦隊が既に出撃していることに気付かなかった。
23日1922時、イギリス海軍のフレデリック・ウェイク=ウォーカー少将率いる重巡ノーフォーク、サフォークのうちまずサフォークがビスマルク戦隊を補足し追尾を開始。その後、ウォーカー提督の旗艦ノーフォークもこれに加わった。その二隻の内一隻がビスマルクの真正面に飛び出すというミスを犯し主砲の斉射を受けるが、命中弾は無く重巡は逃走、主砲射程圏外からビスマルク戦隊の追尾を開始した。ビスマルク発見の報を受けたイギリス海軍巡洋戦艦戦隊司令官ランスロット・ホランド中将は、麾下の戦艦プリンス・オブ・ウェールズ(以下PoW)と巡洋戦艦フッドを駆逐艦六隻の護衛のもと急行させるも、一時的にウォーカーの巡洋戦隊がビスマルクを見失った事や濃霧のために発見が遅れ、両戦隊は互いに気づかないまま併走する形となった。
0535時にPoWがドイツ艦隊を発見。一方のドイツ側ではそれ以前よりプリンツ・オイゲンの水中聴音器が接近する英艦隊のスクリュー音を捉えていた。
0545時、同航砲撃戦が開始された。
ウォーカーの戦隊がビスマルクを一時見失った折に、ホランドは索敵の為に駆逐艦を分派していたものの戦力的にはイギリス側が上回っていたが、PoWは完成したばかりで造船所の工員が未だに乗った状態であった。
イギリス側は彼我の距離を短時間で縮めようとドイツ側に対して比較的直角に近い進路で接近を行った。これはホランド提督が砲術家であり、上空から垂直に近い角度で砲弾が落下してくる遠距離砲戦をビスマルクと行うには旗艦であるフッドの水平装甲の厚さでは力不足と判断した為と言われるが、これによりドイツ側は全主砲を使用できるのに対して、角度の関係で英側は主砲は前部のものしか使用できないうえに位置は風下で波飛沫により砲塔測距儀レンズを盛大に濡らし、射撃は更に制限を受ける結果となった。
イギリス本国艦隊の主力艦が既に展開している事を知らないドイツ側は対峙した艦隊を巡洋艦か駆逐艦と誤認してプリンツ・オイゲンでは榴弾の装填が命じられており、リュッチェンス提督も昼間戦闘では戦艦に対して脆弱な重巡洋艦であるプリンツ・オイゲンを後方に下げようとはせず、それどころか時間のロス等を恐れて格下相手との不要な戦闘を躊躇していた。対するイギリス側もフッドは先行するプリンツ・オイゲンをビスマルクと誤認したために両軍とも初動が遅れた。
誤りに気付いたのはドイツ海軍が先で、最初の斉射で発砲炎の巨大さから対峙した艦隊が戦艦であると気づいた。これによりリュッチェンスも遂に戦闘を決意し反撃を命じた。これに対しイギリス海軍が誤りに気づいたのは数射の応報の後であり、この遅れが海戦の趨勢を決することとなった。
プリンツ・オイゲンは第二射にして早くも旗艦であるフッドを捉え、フッドに火災を引き起こした。0600時に充分に距離を縮めたと判断したのか、それとも撃ち負けていると判断した為か、ホランド提督は艦隊に左舷に転舵を命じた。英艦隊が全主砲を使用可能にすべく回頭中、ビスマルクの第五射が距離14kmでフッドに命中、弾薬庫が誘爆し、船体が真っ二つに折れ、僅か3分で船体は海中に全没し、ホランド提督をはじめとする1416名の乗組員とともにデンマーク海峡の海底へと姿を消した。生存者は僅か3名であった。
先行するフッドが轟沈し、PoWはその残骸に突入する形になっていたため、PoW艦長ジョン・リーチ大佐は緊急回避を命じた。この急激な転舵は射撃の照準の狂わせ、逆にドイツ艦隊からの射撃を集中される位置に艦を進出させた。PoWは第8射でやっとビスマルクを捉えるも、集中砲火の中で既に7発の命中弾を受けており、さらに上部構造物に命中弾を受け、艦長と信号長をのぞく艦橋要員の大半が死傷。被弾による艦砲の不具合も深刻なものとなり、限界と判断したリーチ艦長は煙幕展張と離脱を命じた。
この時点でPoWは既に死に体であり、追撃を行えば確実に撃沈できることは明らかであった。ビスマルク艦長エルンスト・リンデマン大佐はリュッチェンス提督に追撃の許可を強く求めたが、彼はPoWを英本国艦隊旗艦キング・ジョージ5世と誤認しており、レーダー提督の「損害を拡大し、またイギリス海軍の待ちかまえる手の中にビスマルクを差し向けることになるような不必要な戦闘は避けるべし」という命令を優先し、追撃の許可を与えず、戦闘を打ち切った。
こうしてビスマルクは初陣を一方的な勝利で飾った。
ビスマルク追撃戦
デンマーク海峡を突破し、ついに大西洋へと進出したビスマルクの艦内では、仇敵イギリス海軍に土をつけた初勝利に沸きあがっていた。
しかし、ビスマルクも決して無傷ではなかった。ビスマルクは3発の命中弾を受け、内1発は艦首燃料タンクに浸水被害をもたらし、同タンク内1,000tの重油が使用不可となっていた。また依然として、損傷したPoWも指揮下に加えたウォーカー提督の巡洋艦戦隊のレーダーによる追尾を振り切ることも出来ず、このため予定されていた通商破壊作戦の実施は不可能となり、リュッチェンス提督は24日1800時にプリンツ・オイゲンを通商破壊にあてる為に分派させると、ビスマルクにはフランスのサン・ナゼール港へと向かうことを指示した。
一方でイギリス海軍も、ほとんど無防備の本国向け船団11個が航行する大西洋にドイツ戦艦が展開することは何としても防がなければならず、イギリス本国艦隊司令長官ジョン・トーヴィー大将の座乗する戦艦キング・ジョージ5世(以下KGV)、ロドニー、巡洋戦艦レパルス、空母ヴィクトリアスを追撃に向かわせた。
24日2200時、ヴィクトリアスはビスマルク足止めのためソードフィッシュ攻撃隊を発進させた。ビスマルクに魚雷が命中し、また回避運動のために艦首とボイラー1基を損傷、速力は16knに落ち込んだ。
翌25日0300時、ビスマルクは追跡を続けていた英重巡を振り切るために連続して旋回、イギリス艦隊のレーダーの探知圏から脱した。
しかし、未だに敵巡洋艦からの接触を受けていると誤解していたリュッチェンスはそれに気づかず長文の戦況報告を打電し(英巡洋艦からのレーダー波は既に発信元に帰るだけの力を失っていたにも関らず、逆探でレーダー波を依然捉えていたので未だに追尾を受けていると誤認したとも言われる)、それを受信した英海軍はビスマルクの大まかな位置を再び掴んだ筈だった。
しかし、ミスによりその座標は実際より北側とされ、ビスマルクが反転してノルウェー・ドイツに帰港しつつあると判断した英艦隊は見当違いの方向に7時間あまり進む事となった。
翌26日1030時にイギリス海軍のPBYカタリナ飛行艇が再びビスマルクを発見したとき、ビスマルクは既に追撃艦隊から240km南東を航行していた。ここで燃料不足により追撃艦隊からレパルス、ヴィクトリアスが落伍、KGVとロドニーの2艦のみが追撃を続けたが、ビスマルクは16knの鈍足といえど、ドイツ空軍のエアカバー圏内に逃げ込む前に捕捉することはほぼ不可能であった。しかし、ビスマルクの前方にはジブラルタルから出撃したジェームズ・フォウンズ・サマーヴィル中将率いる巡洋戦艦レナウン(旗艦)、空母アーク・ロイヤルを主力とするH部隊が迫っていた。この部隊は当初、主戦場から遠く離れていたために、予備的な意味合いの部隊であったが、ここに至って期待を集めることとなった。
1440時にアーク・ロイヤルを第一次攻撃隊が発進したが、この攻撃隊は先行してビスマルクを追跡していたH部隊の軽巡シェフィールドを同艦と誤認して攻撃してしまうが、幸い攻撃部隊の磁気魚雷が不調で攻撃は失敗し、その戦訓を元に第二次攻撃隊には接触信管の魚雷に変更がなされた。
1910時、第二次攻撃隊が出撃し、2053時にビスマルクを攻撃、2本の魚雷が命中し、内1本が右舷後部に命中、衝撃で中央のスクリューが跳ね上がって操舵装置を破壊、舵が取舵12度で固定されてしまう。ビスマルクの最大速力は7kn以下に落ち込み、追撃艦隊を振り切ることは不可能となった。
明け方までビスマルクはフィリップ・ヴィアン大佐率いる英第4駆逐隊の接触と雷撃を受け、双方共に被害は無かったものの、英側はビスマルクの乗員を疲労させる事に成功した。
27日0847時、到着したKGV、ロドニー、重巡ノーフォークがビスマルクに接近し、右舷前方から砲撃を開始した。速度は出ず、転舵もできないビスマルクに最早勝ち目は無かったが果敢に応戦、第二射でロドネーを夾叉する腕前を示した。
しかし0859時、ロドニーの砲弾がビスマルクのA、B砲塔の間に着弾して前部砲塔は旋回不能となる。直後、前部射撃指揮所をノーフォークの8インチ砲弾が直撃し機能を喪失させた。この折にリュッチェンス提督、リンデマン艦長、砲術長アダルベルト・シュナイダー中佐は戦死したと言われる。
0913時、KGVの砲弾がビスマルクの後部射撃指揮所の測距儀を破壊し、後部射撃指揮所も機能喪失。ビスマルクは統一された射撃指揮を行う事が不可能となった。
0921時にC砲塔、0927時にはD砲塔が沈黙。集中砲火を浴びたビスマルクでは大火災が発生、火薬庫にも火の手が迫り、誘爆防止のために注水措置がとられた。
ビスマルクを撃沈すべくロドニーが一気に3kmにまで距離を詰め(※日本海軍が駆逐艦の理想的交戦距離としたのが5km)、水線上へ砲火を浴びせた。しかし近づき過ぎたため艦上構造物を破壊するばかりで撃沈することはできなかった。
1000時、ビスマルク副長ハンス・エールス中佐が自沈を命じたため、右舷と中央のキングストン弁が抜かれ、自沈用爆薬が設置された。
1015時、トーヴィー提督は射撃停止を命令、ビスマルクでは総員退艦が命じられた。その後ドーセットシャーから3本の魚雷が発射され、ほぼ同時にビスマルクで自沈用爆薬の起爆操作が行われた。20分ほど漂流した後、1040時に沈没した。
トーヴィー提督は艦隊を撤収したが、重巡ドーセットシャーと駆逐艦マオリをビスマルク乗員の救助のために残した。両艦は重油の漂う海から多くの生存者を救出したが、Uボートと思われるスクリュー音を探知し(後に誤認であったことが判明)、救助を断念して退避した。乗員2,206名のうち、救助された生存者は115名と猫一匹であった。
沈没理由についてドイツ側は自沈としているが、イギリス側は砲雷撃による撃沈を主張している。
こうして、たった一隻の戦艦に対し過大なまでの兵力を投入したものの英国海軍は目的を達した。そして、これは大西洋での戦いの転機となるものであった。
ポケット戦艦アドミラル・グラーフ・シュペーが自沈した折も不機嫌で、その姉妹艦ドイッチュラントに対して国の名を冠した軍艦が沈められた場合には国威が損なわれるとの理由でリュッツォウに改名させたヒトラーにとってはビスマルクの沈没は対外的に大きな痛手であり、それ以後、彼は大型水上艦の大西洋での通商破壊への出撃に難色を示し始め、それは1942年2月のブレスト在泊の巡洋戦艦シャルンホルスト、グナイゼナウ、重巡洋艦プリンツ・オイゲンを主力とした艦隊を白昼堂々英仏海峡を突破させ本国に帰還させたツェルベルス作戦に帰結する事となる。
かくしてビスマルクの沈没はドイツ水上艦隊の大西洋での通商破壊戦の終わりを告げる始まりとなったのであった。
艦長
ビスマルクと運命を共にした。その最期は生存者の証言によれば艦首旗竿付近にて海に漂う乗組員達に敬礼する姿であったと言われる。
最後の姿を目撃した生き残りの乗組員は「ああいう死に方は小説の中の絵空事だと思っていた」と話した。
ドイツ語でも船舶艦艇は普通は女性名詞で呼ばれるため、ビスマルクは女性名詞でDie Bismarckと呼称されているが、リンデマンはこれを嫌い、部下に男性名詞でDer Bismarckと呼ばせていた。
関連タグ
BattleshipGirl_鋼鉄少女の「ビスマルク」
蒼き鋼のアルペジオの「ビスマルク」
緋色の艦隊所属のメンタルモデルビスマルク(蒼き鋼のアルペジオ)。アドミラリティ・コード消失の目撃者。
艦隊これくしょんの「ビスマルク」
2014/03/14アップデートにて、戦艦ビスマルクが実装された。
→ビスマルク(艦隊これくしょん)を参照。
戦艦少女の「ビスマルク」
ドイツの科学力の結晶。波斯猫(ペルシャ猫の意味)のあだ名が付いている。
俾斯麦のタグが付けられている。こちらの中国語記事(外部リンク)も参照。
私はドイツの科学の結晶、ビスマルク。肝に銘じてください。
関連タグ
ビスマルク号を撃沈せよ!:1960年の映画。基本ミニチュアだが、アップのシーンではイギリス海軍の戦艦ヴァンガードがビスマルクとして使用された。