プロフィール
概要
安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した戦国武将・大名。池田恒興の次男。
初代姫路藩藩主。姫路城をおおよそ現在の姿にしたことで知られる。
織田信長と豊臣秀吉、徳川家康といった天下人に使え、江戸時代には播磨姫路52万石の大大名にまで出世した。
豊臣恩顧の大名であり、石田三成ら文治派と対立した武断派・七将の一人。
正室に家康の娘・督姫がいる。
生涯
荒木村重が謀反を起こした有岡城の戦いで初陣を果たし、このとき輝政は14歳であった。
花熊城の戦いにも参加して荒木軍の兵士5、6名を自ら討ち取る活躍ぶりをみせ、信長から感状を授かるほどの武勇の持ち主であった。
1582年、甲州征伐に参加。本能寺の変にて信長が明智光秀に殺されると、その葬儀に参列した。
翌年、小牧・長久手の戦いに参加。父と兄が戦死したため遺領と家督を継ぎ、大垣城主となった。
豊臣の臣下として紀州征伐、富山の役、九州征伐に従軍し武功を立てた。
秀吉から期待を寄せられた輝政は東三河(愛知県の豊橋市)の吉田城主となり、15万2000石が与えられた。
朝鮮出兵の際は出陣せずに名護屋城において軍艦の建造や兵糧の確保など後方支援としていたと見られる。同じ頃に伏見城や大和多内城の築城にも携わっている。
秀吉の仲介により徳川家康の娘・督姫を正室に迎えた。その縁もあって秀吉の死後は家康に接近し、関ヶ原の戦いでは東軍に与した。特に前哨戦の岐阜城の戦いでは先鋒を務めて武功を上げている。
戦後、輝政には播磨52万石という大領が与えられ、姫路城の改修と城下町の発展に力を尽くした。
輝政は家康の娘婿であったため、幕府から厚遇を受けた。一方で豊臣恩顧の大名としての自覚もあり、豊臣家と幕府の調整役を務め、伏見城での秀頼と家康の会見にも同席した。
徳川家との縁組は池田家の家格に大いに上げた。彼自身、この頃には官位は参議という高い位まで昇っている。所領も一族のものを合わせると90万石に達し、その勢威から西国将軍、姫路宰相とまで呼ばれるほどに至った。
1613年、病没。輝政の死は豊臣家を愕然とさせた。
豊臣家の家臣は「輝政は大坂の押へなり。輝政世にあらん限りは、関東より気遣ひなく、秀頼公の御身の上無事成るべし。輝政卒去の上は大坂は急に亡さるべし」と嘆いたという。
豊臣家と幕府の間で奔走していた加藤清正もすでに世を去っており、有力な豊臣恩顧の大名は福島正則、片桐且元くらいになってしまう。輝政の死後は急速に幕府と豊臣家の関係が悪化していくこととなり、翌年大坂の陣が勃発する。
督姫が生んだ子の系統はずっと上級親藩の待遇だったほか近代に入ってからは子孫が内親王の降嫁を受け外戚になっている。一方で先妻の子・利隆の系統では孫の光政が徳川秀忠の外孫との婚姻で、家格を高め、光政の後継者で秀忠曾孫でもある綱政の系統が現在まで続いている。(宗家は断絶した)細川護煕の父方の祖母は2012年に死去した宗家当主池田隆政のおばにあたる。
督姫の血統と利隆の血統は多くの大名や公家に血を伝えており、幕末の島津宗家は督姫の子孫にあたる重豪、水戸藩主家は利隆の子孫にあたる徳川斉昭の活動により水戸と島津から岡山藩主家と鳥取藩主家に養子が送り込まれた。鳥取藩主家は水戸藩主家からの血筋が現在まで続いている。鳥取藩主家は現在の当主が役割を終えたと絶家を宣言している。
人物
「幼い時からはきはきした性格で、成長するに従い、雄々しく逞しくなった。人となりは剛直で、下の者に臨む態度は寛容で、徳行を賞して顕彰した」と名将言行録の中で評されている。
武勇に秀でたが、平素は寡黙なほうであったとも言われる。
岐阜城の戦いでは福島正則と激しい功名争いをしたが、戦いが終わればあっさり功を譲るなどサバサバした一面も見える。
背が低かったが自分に自信があったためからかわれてもまるで平気だったという。
愛刀は日本一との誉れも高き大包平。
また、彼の死因はかの姫路城に住まう妖怪・刑部姫の祟りとも噂されている。
逸話
督姫との結婚の際、輝政は小牧・長久手の戦いで父を討った徳川家家臣・永井直勝を呼びし出し、その最期を語らせた。
その中で、直勝の知行が五千石だと知ると急に不機嫌になり「父の首はたった五千石か」と嘆いたという。これを聞いた家康は、事情があって遅れているだけだとはぐらかし、慌てて直勝の知行を加増したという。
正室の督姫には頭が上がらなかった。正則から「関ケ原で大した活躍もしていないお前が大大名になれたのは妻のおかげだろう!」と冷やかされた。それに対し輝政は、「確かに俺の出世は妻の七光りによるものだ。それは認めよう。だがそんな俺が槍を振るったらどうだ?天下すら取れたかもしれんなHAHAHA」と飄々と返し、正則は言い返せなかった。
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